植民地朝鮮での志願兵制度

 

                        1.帝国議会での志願兵制度についての答弁

                        2.「特高月報」に見る志願兵制度の実情

                        3.志願者殺到の原因についての考察

                        4.志願者殺到をもたらした日本統治下の朝鮮民衆の窮状

                        5.日本人と朝鮮人の間の埋められない溝

                        おまけ : アジアの独立に貢献した朝鮮人軍属

 

このページは、

 

龍渓書舎「朝鮮歴史論集」収録、宮田節子「朝鮮における志願兵制度の展開とその意義」

東京大学出版会「帝国議会貴族院委員会速記録 昭和篇 複製版104巻 81回議会,昭和17年」

文生書院「特高月報」複製版

龍渓書舎「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)第32巻 第5集 朝鮮教育関係」収録、

「志願兵制度の現状と将来への展望」朝鮮総督府陸軍兵志願者訓練所教授・海田要

 

・・・・以上の資料をメインにして日本茶歴史ボードに投稿したものを若干整理してUPした。

(これらの資料は全て東京都立中央図書館にて閲覧&コピー可能である)

特に宮田節子「朝鮮における志願兵制度の展開とその意義」については、数多く引用しただけでなく、

全体の構成を模倣し、部分的には宮田センセの見解を丸ごとパクらせて頂いた。ゴメンナサイ!

 

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日本支配下の朝鮮に於いて1938年から始まった志願兵制度によって、下のような募集定員を遥かに超える数十万単位の応募があった、という記録が残っています。

年度

志願者数

入所者数

1938年

2496人

406人

1939年

1万2528人

613人

1940年

8万4443人

3060人

1941年

14万4743人

3208人

1942年

25万4273人

4077人

1943年

30万3294人

6300人

(*注1)

 

しかし高木健一著「戦後補償の論理」によると、

「行政組織の末端である「面」では、学校卒業者を脅迫したり、父親を拘留して家族に圧力をかけたり、

名前だけ貸せと騙して志願させるという方法が行なわれた」

ということがあったため、大勢の志願者が集まったということだそうです。

しかし、この本ではソース元が明らかにされていませんので、多少自分で調べてみました。

 

 

1.帝国議会での志願兵制度についての答弁

1943年2月26日、「帝国議会貴族院委員会」にて、次のような答弁が行なわれました(この部分は「創氏改名」と重複でスマソ!)。(*注2)

 

(水野錬太郎)「・・・・それから民心を把握することが必要であると云ふことの御話がありましたが、それは其の通りでありますが、時に依ると総督府の上の方の人はさう云ふ考へを持って居るかも知れぬが、地方等へ行って下級の人等が、動もすれば朝鮮の人に圧迫を加へると云ふことがあることもなきにしも非ずであります、殊に一昨年でしたか、あの姓氏令、即ち名前を変へると云ふことがありましたが、何でも非常に成績が好い、殆ど八割迄日本人の名になったと云ふことがありましたが、それが果して彼等の衷心から出たのならば宜いのでありますが、時に依ると警察の圧迫に依って斯う云ふ風にしたのである、或は学校の生徒等が動もすれば父兄がさう云ふ圧迫を受けるからさう云ふ風になったのであると云うやうな不平も聞くのでありますが、此の頃はどうですか、さう云ふ方面は余り無理にやって居らないのありますか、何でも前総督の時には大分さう云ふ方面に力を入れたと云ふことでありますが、今日はもう自然に任して居られるのでありますか、それは如何でありますか、其のことを承りたいのであります・・・・」

 

つまり「水野錬太郎」という元文部大臣から「創氏改名を強制してるんじゃねえの?」という質疑が出たわけですが、それに対して政府委員も、創氏改名と、(聞かれてないのに)志願兵制度に強要の事実があることを渋々認めます。

 

(政府委員田中武雄)「・・・・それから次は創氏の問題、志願兵問題等に付きまして、官邊の強制と云ふやうなことに関してでございまするが、是は私共も仰せの如く同じやうなことを耳に致して居りましたので、諮らずも自分がさう云ったやうなことに対しまして責任の地位に立ちましたので、さう云ったことに対しまして間違って居ることがあるならば是正をして参りたいと考へまして、色々事実の真相を調べて見たのであります、必ずしも絶対にさう云ふことがなかったとは申し上げ兼ねまするのでありまして、一部遺憾な事例もあるやうであります、併し将来は左様なことのないやうに、適正に運営して参りたいと斯様に存じて居ります、特に志願兵制度等に付きましては、総督の言明でありまして、新聞に何十萬志願者があったと云ふやうなことを余りに書くことは、一面に於いて由なき宣伝のやうにも見えるし、又それが為に道の競争と云ふやうな心理を誘発する虞れもあるから、何倍にならうがそんなことは差し支えないから、一切新聞に書かすなと云ふことを厳命されまして、確か今年は何倍あったと云ふやうなことは新聞には一切書かさなかったと記憶を致して居ります。左様な状況でありまするので、将来とも一層留意を致したいと思ひます、次は一つ速記を止めて戴きたい」

 

(主査:男爵山川建)速記を止めて

【この間、速記中止】

(主査:男爵山川建)速記を始めて

(水野健太郎)大変胸襟を開いての御話を色々と伺って能く分かりました・・・・

 

つまりは、「創氏改名も志願兵制度も、強制することがあったみたいだから注意するよ。これから新聞に『何十万人志願者が集まったぜい!』なんて、根拠のない宣伝は載せないようにするよ。意味の無い競争が始まっちゃうからね」ということですね。政府が、創氏改名と志願兵募集には強制的な側面もあることを公式に告白したと言えます。

そして速記が止められていた間に、具体的な強要の方法、例えば

「行政組織の末端である「面」では、学校卒業者を脅迫したり、父親を拘留して家族に圧力をかけたり、

名前だけ貸せと騙して志願させるという方法が行なわれた」

・・・・このような強制手段の実例が報告されたのではないでしょうか?

 

 

 

2.「特高月報」に見る志願兵制度の実情

続いて、当時の「特高月報」(*注3)より、志願兵制度の実態が垣間見える記述を引用します。

 

特高月報 昭和十六年十二月 朝鮮人運動の状況 

四、志願兵制度に対する朝鮮人の動向

「陸軍に於いては昭和十三年四月三日神武天皇祭の佳節をトし、朝鮮人に対し志願兵制度を実施せる虞、朝鮮人は之を多大の好感を以て迎へ、応募者は逐年増加の傾向を辿り、兵役義務を通じ内鮮一体の実を挙げんとの熱情を披瀝し来れるが、偶、大東亜戦争勃発し、緒戦に於ける輝しき戦果は彼等をしてより一層皇軍の強力なるに驚喜せしめたると共に、皇国への信倚心を倍加し、今こそ一身を君国に捧げ以て皇恩報ひ奉らんとする皇国臣民の覚悟を堅持せしむる處ありたり。更に今年度より大阪府に志願兵採用銓衡(選

考)場設置を見るに至りて本制度に対する内地在住朝鮮人の関心は一層昂揚せらるるに至れり。」

(ここまでは、いい事しか書いてませんが・・・・)

然れども翻つて斯かる現象を裏面より洞察せば甚だ寒心に堪へざるものなり。即ち、

@応募者は真に志望するものにあらずして警察より半強制的に勧誘せらるる為止むなく応募するものなり

A応募者は淳朴なる農村青年のみにして有識者は殆ど之に応ぜず、寧ろこれを忌避し居る現状なり

B好条件に釣られ、功利的に走り、除隊後自己の立場を有利に導かんとする輩あり

等々の言辞を弄するもの幾多ある状況あり

(つまり、「朝鮮人への志願兵募集は上手く行ってるんだけど、変なこと言う奴もいるよなあ。警察が強制してるとか、貧乏な農家の倅しか応募しないとか、条件がいいから釣られるだけだとか・・・」ということでしょう)

されば今後戦線の進展に伴ひ、本制度に対する関心一層深まるべきものありと雖も、斯かる現況よりして今後の視察内偵に当りては一段の留意を要するものありと認めらる。今参考迄に本制度施行に対する各方面の反響を摘記するに左の如し。

 

(一)内地に採用銓衡場設置方の運動

志願兵制度実施により彼等は極めて真摯に国防第一線参加を熱望し、応募者も逐年増加の傾向にあるも、内地在住朝鮮人は採用銓衡場朝鮮本土に限定せられ、内地よりの応募には費用其他の点に幾多不便ありたるを以て之が救済策として内地に採用銓衡場を設置せられ度と要望するもの多数あり。大阪市此花区四貫島宮居町四、(朝鮮人)西山恵三・外数名は、之が要望を満たすべく、朝鮮総督府、陸軍省、内務省を訪問、設置陳情せるに、関係応に於いても之を認め本年度より大阪府に採用銓衡場を設置することとなり、内地在住朝鮮人に多大の感銘を興へたり。

(二)血書志願

志願兵制度実施により採用せられて、既に第一線に活躍し、又は尽忠報国の誠を示し、護国の神となりたる先輩同胞の赫々たる武動に痛く刺激せられ、血書志願となすもの多数を見たり。

(三)志願兵忌避  

前記の如き好影響を熟らせる反面一部反対分子にありては、朝鮮本土に於ける募集は殆ど半強制的に行はれつつありとなし、之が為め真に魂の御楯として起つの気迫極めて薄弱なるのみならず、応募者の大多数は淳朴なる農村青年にして、知識階級乃至有産階級の子弟は殆ど之に応ぜず、寧ろ之を忌避し居り、其の手段として敢えて其の子弟を上級学校に入学せしめんとするが如き傾向すら見受けられ、又半島より内地在住朝鮮人学生其他の通信文を裏面入手し、その内容を検討するに『中学校を卒業して小学校卒業者と同じ一等兵の待遇を受けるのであればとても志願する気持ちにはなれぬ云々』との内容のもの相当発見せらるる現状にして斯かる点より見ても彼等の志願兵制度に対する思慮の一端が窺知し得らるるなり

 

(つまりは、「志願兵募集は半強制的だって言ってる奴がいるよ。そう言いふらす奴がいるから、金持ちは子供を軍隊に行かせたくない為に進学させるのさ。『中学校出たのになんで小学校卒と一緒に一等兵にならなくちゃなんねえんだよ!』なんて手紙もかなり多いのさ」てな感じですね。志願兵募集に強制的な面があるというのは単に風評に過ぎないのか、実情なのかはその後の記載ではっきりします)

 

(四)特異なる言動

●賛意を表するもの

「私が内地に来ると間もなく支那事変が起こり主人の家の女の人たちが私に『お前は兵隊に行かなくてもよいし戦争があつても生命が危ないと云ふ事はないのだから』等とよく云はれて腹の中で差別待遇を受けて居る様な気持ちがして居た。私も半島人であるが日本人である。立派に軍人になつて日本人の為に働けると思つてゐる。私は志願兵制度が布かれると直ぐ軍人になる希望を持つて居たが今度の大東亜戦争が始まつてからは愈々その気持ちを押へる事が出来なくなつて来た。私は軍人になつて出世すると云ふよりも内地の兵隊さんと同じ様に生命を賭して戦ひたいと思ふのである」宮崎県 李相殷

 

「半島人は内地人の如く徴兵検査では兵隊に行く事が出来ぬので志願した處幸いに合格して訓練を受けたが、訓練中寄生虫がある事になつて帰へされたが壮健になつたら再度志願して見度と思つて居る。

私の志願した處では志願者四萬五千余人に対して採用者は僅かに三千人であるが落第したものの中には内地軍人以上の立派な体格をして居るものが沢山居た。軍隊員の増強を叫ばれて居る今日斯様な点も少しは考へて吾々希望を満たして貰ひたい。早く健康を快復して軍人となり得る様神に御祈りして居る」大分県 山本達雄

(このような、志願兵制度を歓迎する朝鮮人の発言も多くありますが、志願を嫌がる朝鮮人が多いことを憂う声、朝鮮人訓練生の怠惰なサマに嘆く声もあります)

 

●入隊者の批難言動

「自分は昭和十四年六月訓練所に入所、十六年八月満期除隊となり其後面の依頼で訓練所入所者の募集に当つて居たが朝鮮青年には未だ確固たる国家観念なく且将来に対しても確固たる希望もなく唯社会に引摺られて其の日其の日を送つて居るに過ぎない状況で志願適齢期になつても希望せず勧誘するも言を左右にして逃げる者が多く、志願兵と雖も満期後就職を有利に斡旋され或いは社会的地位を得る等の野心を以て志願するので、真に愛国心に燃えて居るものではない、殊に有産階級に有る者の子弟には未だ自分等の地方では一人も志願者を見ない状況で真に遺憾である」 第一期訓練生某

 

「訓練所は生徒一千名でその人達は各道から選抜されたものであるから本当に優秀なる半島人なるべきに拘わらず生徒教官の隙を見ては飲酒はする、買食はする、煙草を吸うと云ふ風で昭和十三、十四年度に比較して実に素質が悪い。又大分の生徒が常に不都合な言辞を弄して居る、例へば

○真面目に働いて居る者に対しては制裁を加へるとか。

○朝鮮語の使用を禁じられて居るに拘わらず敢えて朝鮮語を使用するとか。

○教官に対し故意に欠礼するとか。

○現役二年在営を嫌い短期を希望するとか。

誠に面白からざるものがあつた。之が原因は一躍一千名以上の多人数を収容したのに対し教官が不足せることと各道より半強制的に募集した結果であつて、将来訓練上相当考研する必要があると思ふ」 

第二期訓練生某

 

(また、はっきりと志願兵制度に反対する声もあります)

●志願兵制度反対言動

「我々は志願兵制度に応募する気持にはなれない。何となれば現在の各層を見るに悉く内鮮人間に差別待遇があり、甚しきは内地婦女子迄が鮮人を軽蔑して居る現状である。これではとても軍人となり国家の為に生命を賭すると云ふ気持には到底なり得ない。最近志願兵募集に当り各地共青年に対し半強制的に応募を從慂して居るが、之が皆逆効果を来たして居る様だ。

応募者の地方頒布状況を見ても都会地の青年よりも田舎の淳朴な青年が多く又中等学校卒業者が少ないのを見ても知識階級は之を喜ばない傾向にあることが窺はれる」 金融組合書記某

 

「私が帰鮮中、村でも三十人余りの志願兵応募者の割当を受けて居るが、それ丈の人数が如何にしても出来ないしそれでは村の名誉にも拘はるから、お前は三十五歳以上で不合格になることは判つて居るが名前だけ是非貸して呉れと頼まれたので貸したが其の後街頭へ出て見ると成程募集に苦心して居る様な宣伝ビラが沢山貼られて居るのを見受けた。斯様な事は独り私だけでなく他にも幾多あつた様に聞いて居る。未だ未だ半島人は心から応募しやうとするものは少ない様だ」 滋賀県 雇人 林秀雄

 

「朝鮮では男兄弟二、三人あれば必ず一人は兵隊を志願しなければ非国民のように云はれるので、止むなく三十歳前の人は志願せねばならないと云ふ事である。先日も父から手紙が来て『お前は帰国すると兵隊を志願しなければならないから帰つて来ないように』と云ふ意味の事を言つて来たので自分も暫く帰らない考へだ」 岩手県 古物商 李四用

 

(そして、志願兵制度への疑問は軍人の間にもあったようです)

●現役軍人其他の言動

「私は志願兵採用制度に大きな矛盾があるので常に反対の意見を持て居る。現在応募の動機は殆ど警察の強制的募集に依るもので、在営中内地の見学旅行、除隊後半島に於ける革新的中堅幹部として青年の指導者たる地位を選られる等の好条件に釣られ功利的に応募した様な実情で志願兵としての真の精神に反するもの許りである。又総督府は必要数丈は容易に得られるのであるが各道に責任数を割当て居り後に之を講評するので警察は勢ひ強制的に募集する様になり茲に無理が生じ入隊しても挨拶も出来ない様なものが入り、内地人軍人から馬鹿にされ延ては帝国軍人の内容と素質を低下させる様なことにもなる。又一面知識階級者は志願を忌避すると云ふ傾向に流れて居り少し金持の所では無理しても子供に上級学校に入学させると云ふ傾向があり思想的に面白くないのである、そこで私は彼等を真に皇民化するには義務教育の徹底と徴兵令の施行を要望するのである」 朝鮮人将校某

 

「志願兵制度が実施されてから毎年三千名宛募集して居るが其の結果は余り良好とは申されない。その原因は志願する者が余りに好条件を予想して入って来るからだと思ふ」 内地人将校某

 

「新聞等では志願兵が殺到して居る様に書いて居るが実際は警察や其他で強制的に応募して居る実情で内地人が見て居る程に信頼することは出来ない。彼等は機会あらば独立運動をしやうとする不逞者が居ると思はねばならない」 内地人国民学校教員某

 

 

 

 

3.志願者殺到の原因についての考察

 

・・・・以上の「帝国議会貴族院委員会」の答弁と「特高月報」に見る実情から、(少なくとも数字の上では)20万だの30万だのといった驚異的な志願者が集まった原因として、

 

1.朝鮮人志願兵制度開始を歓迎する声も多かった。熱意を持って志願する者も多かった。しかし、

2.志願兵募集に「強制的」な側面もあった。朝鮮総督府が煽り立てるので、「道」が応募者数の競争を始めてしまった

3.数十万という数字には、名前だけ借りただけの水増しもあった

4.「好条件」に釣られて応募する者も多かった。こうして集められた訓練生が真面目なわけがなかった

 

この4つの原因が考えられます。このうち3と4について考察します。

 

◆志願者数の水増し

各地の「道」、「面」、「邑」に於ける、実体の伴わない水増し的な志願者数の累計があったようです。

朝鮮人志願者を正式な軍人として採用する事前に、「帝国軍人」足らしめる為の教育を行なう「朝鮮総督府陸軍志願者訓練所」の「志願兵ノ資格」によると、資格年齢は満17歳以上で特に上限は示されていませんが、1938年後期の実際の入所者の平均年齢は20.69歳で、最年長は27歳で僅か一名、19歳が最も多く55名です(*注4)。当然ながら二十歳前後の若者が望ましかったのでしょう。上限を定めていないとは雖も、体力の盛りをとうに過ぎた者が志願して来ても受け入れられないでしょう。

上に示したように「面」などの各地方自治体が、かなり高年齢な者まで志願者数の水増しの為にだけ名前だけ利用したことが多かったようです。恐らくは自分が志願したことになっていることすら気付かなかった者が多かったことでしょう。このように各地方自治体が面子に拘り名前だけ利用しての志願者数の水増しを行なったことが、20万だの30万だのといった驚異的な数字が現れた一因と言えます。

 

◆「好条件に釣られて」志願する者

朝鮮総督府は志願者とその家族に対して積極的な優遇策を執りました。「全鮮各道に支援者後援会が組織せられて、志願者は勿論のことその家族まで援助の手」(*注5)が差し伸べられました。

「後援会」は、「入所生徒の旅費、餞別などの支給、それから生徒は毎月三円以下の小遣ひとしてゐますが、この三円を送金して来る後援会もありますし、更に後援会では生徒を激励するは勿論将来の生活とか、家庭の面倒を見るとか兎に角さういう風にして入所生徒に後顧の憂ひなく一意専心勉強できるやうな活動を行った」そうです(*注6)

「軍事扶助法」「入営者職業保障法」などによって、志願者の家族が自営業者の場合には資金や労力の援助すること、志願者が出陣し傷痍軍人となった場合、及びその家族にはタバコや切手の売買などに優先的な営業許可を与えることなどが定められました(*注7)

このようにして、少なくとも書類上は驚異的な志願者が集まったのですが、これは軍として表向きはともかく、実際は喜ぶべき事態ではなかったであろうと思います。

大勢の志願者の中から初年兵となるに適さない年齢の者をふるいにかけること、そして志願者の中の「主義者」「不逞分子」を発見・排除することに忙殺されたと思われます。

 

「志願兵ノ資格」(*注8−a)によると、選抜の条件として「三、思想堅固ニシテ体躯強健、精神に異常ナキ者」という項目があります。「思想堅固」とは即ち、「アカ」でもなく、朝鮮の独立を企むような「不逞鮮人」でもない!ということでしょう。

また1937年11月付けの総督府秘密文書「朝鮮人志願兵制度実施要項」(*注8−b)によると、「前科者殊に民族主義者、共産主義運動等に関係せし者は之を採用」しないだけでなく、「家族にして主義運動等に関与しある家庭の者は之を採用せず」ということです。

つまり当時流行していた思想に染まっていた者・民族意識の強かった者などが紛れ込むことを警戒していたようです。これは言うまでもなく反乱を起こされるのが怖かったのでしょう。

実際に、「朝鮮独立の為奮つて陸軍特別志願兵となり、武力を体得して将来の革命蜂起の際に献身すべきなり」(*注9)

という動機で志願する者がいたそうです。また在日朝鮮人の中には、

「朝鮮人を志願兵にする事は非常に良いことだ。即ち我々は将来志願兵を逆用すれば良い。志願兵を逆用すれば良い。志願兵は内地人より優秀と聞く。之の優秀なる部隊に呼掛くれば彼等は必ず祖国の為に銃を執つであらう。此の意味に於いて志願兵は忌避すべきではない」(*注10)

と放言する者もいたそうです。

実際に朝鮮人部隊の反乱もありました。・・・・「満州国」では「五族協和の精神の元」に、朝鮮人を主力として構成されている部隊もありましたが、1936年、「東寧県」の一個中隊は、日本人部隊長の朝鮮人に対する処遇に不満を抱き、反乱を起こしてソ連領内に逃亡する事件あり、その後「間島省」では朝鮮人の募集は中止されたそうです(*注11)。朝鮮人を軍人として育て上げることに慎重とならざるを得ないのはもっともでしょう。

それに・・・・当時の日本の官憲が朝鮮人一般を疑心暗鬼の目で見ていたことは言うまでもなく、これは在日朝鮮人が肌で感じていました。

「日米国交緊迫し東京地方の警備は実に物々しいが、今尚朝鮮人学生を白眼視するのは遺憾である(早大文 豊川相翼 二十六歳)」

「東京に於けるスパイの活動は厳重だが、朝鮮人も外国人同様白眼視するのは不可解だ(明大法 秋元範乗 二十七歳)」(*注12)

「それから警察官に一言云つて置き度いと思ふ、今少し寛大にして貰ひ度い、朝鮮人と見たら泥棒と思う事は如何かと思ふ(日大専門部清原某)」(*注13)

 

このように朝鮮人一般に不断の警戒感を抱きつつも、朝鮮人に日本国民としての自覚を喚起させて兵員として用いることに思い至ったことが、様々な矛盾に直面することになります。

 

 

 

4.志願者殺到をもたらした日本統治下の朝鮮民衆の窮状

 

朝鮮総督府陸軍兵志願者訓練所教授・海田要という人は、朝鮮人陸軍志願者で訓練所に入所した者の経歴について、何かしら不満を持っていたようです。

「・・・・尚入所者を職業別に見るとき中には教員や会社銀行の行員社員等も少々はあるのであるが、その数は極く少く大部分は農業者にして残余が官庁の給仕小使其他雇人によつて占められ、将来半島の青年層に働きかけ得る実力を有する地位の者が未だ少いのである。この状況は入営の学歴にも現れて、中学校卒業者等は其の数極く僅少にて、いまだ半島が真に兵役の崇高なる所以を理解するの域に達せず虚栄と知識偏重の観念から開放されざる一面を物語るものではなからうかと考へさせられるのである。故に入所者の家庭の状況から見ても、比較的良好なものも未だ少く、又近親に有力なる知識階級や資本家を有するものも少ないのである。将来は是非ともあらゆる階層殊に上層部からどしどし進んで入所する様にあり度いものと念願して居る・・・・」(*注14)

この人は農民など貧しい階層からの志願者を喜ばず、もっと経済的に豊かな層からの志願を待望しています。つまりは社会的地位の高い者が入所してくれた方が世間に強くアピールできるから・・・・ということのようですが、軍が広範な層からの、とりわけ富裕層からの志願を望んでいたのはそれだけが理由でないようです。

しかし・・・・当時の朝鮮人の人口比率から見て農民がもっとも多く、しかもその殆どは日本による統治以来増加し続け困窮を極めた小作農です。しかも当時は就学率も低く、軍が望むような志願者が比率の上で少なくなるのは自明の事・・・・の筈です。

 

朝鮮総督府も海田訓練所教授同様、志願して合格した者について、

「職業的にみるとその八、九割が小作農であり、その他は若干の事務員、官公吏を除いては、給仕、小使い、雇人等」(*注15)という観察をしています。

前回述べた志願兵への優遇措置が、朝鮮の人口比率の大半を占める貧しい小作農を強く惹きつけたであろうことは至極当然です。日韓併合以来多くの農民は困窮のどん底に落とされていました。さらに日中戦争の開始に伴う経済の混乱によって朝鮮の農村は大きな打撃を受け、朝鮮軍(朝鮮半島の日本軍)すら、「事変に伴ふ諸物価の騰貴は農民の大部分を占むる小作人の経済的苦境を倍加し、当局の適切なる指導並びに救済も其の甲斐なく」と指摘せざるを得ない状況でした(*注16)。また1939年に朝鮮中南部は数十年来という大旱魃に襲われた為(*注17)、総督府は各地の地主に「小作料の軽減免除を行はしむる」要請を出し、飢餓線上を彷徨う農民には「罹災民は徒に動揺離村放浪するが如きことなく其の筋の指図に従う」ことを指示したそうです(*注18)。

このような「離村」「放浪」も避けられないような厳しい状況下にて、志願兵の「好条件」は農家の次男坊、三男坊(及び口減らしを狙う)にとっては大きな魅力だったことでしょう。

 

朝鮮での貧しい生活を嫌い、「内地」に新天地を求めて密航したり、「自由募集」「官斡旋」に飛びついたり、または口減らしの為に娘を悪質な人身売買業者に売り渡した事と同様、志願兵制度に応募する事は貧しい生活を逃れる為の一つの手段だったとも言えるでしょう。

軍が当初期待していた1937年11月付けの総督府秘密文書「朝鮮人志願兵制度実施要項」)「普通以上の生計を営み且素性可良なる家庭」に育ち「初等学校以上の学校を卒業」した者(*注19)など、「微々寥々なる実情」(*注20)でした。貧しい者ほど集まってきちゃうのは当然ですからね。

 

(ところで日本軍は、志願兵制度開始によって日本の朝鮮支配の実情の一端に唖然とすることになります。朝鮮人の志願兵に対して健康診断を行ったところ、「半島青年の体質は表面上健康に見え良好なるが如きも、実質に於いては真の健康と謂い得ない」(*注21−a)という結果が出たそうです。寄生虫の保有率が1938年度前期訓練生では89.6%、後期訓練生では91.6%であり、結核性疾患の者も少なくなく、また入所後に発病する者も多く、「マラリア、胃痛、脚気、花柳等であつて、特にマラリア帯患者の多いのに驚かされる程」(*注21−b)だったそうです。軍は、「訓練生にして既に斯くの如く、一般大衆は更に多きを加へたるを思ふとき暗然たらざるを得ない」(*注21−c)として、朝鮮総督府に対して「国民体力向上の為朝鮮に於ける保護衛生施設改善意見」(*注21−d)具申しています。)

 

5.日本人と朝鮮人の間の埋められない溝

 

さて、ここで軽くまとめてみます。

★志願兵募集に於いて、軍は貧しい者よりも、寧ろ裕福な層からの志願を望んだ

★しかしその期待に反して貧しい者からの志願が多かった。人口比率から考えて当然の事である

★言うまでもなく当時の朝鮮には貧しい者が多かった

★しかも、「好条件」を提示しているので貧しい者が吸い寄せられるのは当然の事だった!

 

さらに、何故日本軍が、貧しい層よりも寧ろ裕福な層から志願を望んだかと言えば、

訓練所海田教授が言うような、今後志願兵制度の理解を深めていく為に「将来半島の青年層に働きかけ得る実力を有する地位の者」を望んだだけでなく、

現在恵まれた生活状態にある家庭の子息ならば、世間に対する不満も少ないであろうと、つまりは、朝鮮半島が日本の植民地になっている現状への反感も少ないであろうかと、

だから、民族運動や独立運動にかぶれていたり、反乱を企てるような危険な者は少ないであろうかと、考えたのではないでしょうか??

しかしその期待に反して貧しい階層からの志願が多かったことで、より一層「不逞分子」が紛れ込むこと

に神経を尖らせなければならなくなったと言えるでしょう。

 

そして、現状の生活に満足している者なら、朝鮮が植民地支配されていることに異議を唱えないものならば、日本軍に志願することに抵抗がないだろう!という甘い考えも打ち砕かれることになります。

海田教授自身、「制度公布を双手を挙げて歓迎した知識階級乃至は指導階級の人々が、いざ志願となると先づ他をすすめて自己の子弟を之に応じさせ様としない矛盾を敢へてしてゐるのではあるまいか?」(*注22)と指摘しています。

 

要するに・・・・

 

日本の朝鮮半島支配に迎合し、豊かに暮らし、日本の諸政策を口先では全面支持している朝鮮人といえども、日本による支配を心から受け入れているわけでは、無い。

日本の朝鮮半島支配に異を唱えないのは、

「日本に支配され続けていくことに賛成しているから!心の底から日本人と同化しようとしているから!」

などではない!

単に、自分の経済的、社会的立場を守りたいだけだ!

 

ということを海田教授は悟ったのでは、ないでしょうか?

日本人と朝鮮人の間の、絶望的な断層に気付いたのではないでしょうか?

(このあたり「朝鮮における志願兵制度の展開とその意義」より激しくパクリ!)

 

 

 

おまけ : アジアの独立に貢献した朝鮮人軍属

 

太平洋戦争に於いて日本は東南アジアを侵略・支配する際に、その本来の目的―――石油など軍事物資の調達、軍事的拠点の確保―――を糊塗する為に、「アジアの解放」という口実を用い、実際にいくつかの国に対しては形だけの独立(傀儡政権の設置)を与えましたが、これは独立を願う朝鮮人に期待感を抱かせることになってしまったのです。

上で引用した、1943年2月26日「帝国議会貴族院委員会」でも、当時の朝鮮人の間にこの希望が広まったことについての質疑がありました。

 

(水野錬太郎)「・・・・それから第二には南方諸地域が日本の権力の下に立つやうになりましたに付きましては、『フィリッピン』とか、『ビルマ』とか云ふ所に独立を許容するとか云ふやうなことが中央に於て発表されましたので、それに引摺られたと申しますか、兎に角其の影響を受けて、それならば朝鮮も独立すべきものだと、ああ云ふ南方諸地域の国に比すれば、朝鮮の文化の点に於ても亦歴史に於ても余程進歩して居る、故にさう云ふ所に独立を許すと云ふやうなことがあれば、朝鮮も独立すべきものだとと云ふことを若い青年層の者が言って居ると云ふことを聞くのでありますが、其の点はどう云ふ風な実際になって居りますか・・・・」(*注23)

 

このように東南アジアでの傀儡国家の設置が、朝鮮人の独立への期待を刺激することになってしまったのですが、これは子供でも想像できる当然の帰結と言えるでしょう。朝鮮での植民地支配を続けながらも、偽りの希望を掲げながら東南アジア侵略に乗り出したことが、解決不可能な大きな矛盾を抱え込んでしまったといえます。

「特高月報」にも、東南アジア諸国の「独立」に刺激され、志願兵となっていつの日か朝鮮独立の為に戦おうと考えた朝鮮人の言動が記録されています

 

「朝鮮人運動の状況一、治安維持法違反朝鮮人取調状況

大阪市大正区南恩加島町 雑役人夫 金明源こと 尚山明源 當二十一年

本名は幼少の頃より実父永善から朝鮮が独立国として日本より優秀なりしことを聞かされ、民族意識を強め居りたるが昭和十二年内地に渡来し爾来各地を転々労働に従事中内地人よりの差別待遇を受くる等のことより愈民族意識を先鋭化し、遂に、昭和十八年六月頃岡山県玉野市に在住中、偶印度独立運動の闘将チャンドラ・ボースの日本渡来、及び其の後の自由印度国声明等に関する新聞報道に刺激され、朝鮮民衆も祖国愛の精神を発揮せば独立し得べしと為し、自己は朝鮮民衆の中堅指導者たらんと決意するに至り、爾来日本軍人を志望し将来の資質練磨に努むべく同年九月陸軍兵器学校の入学を志し準備に奔命せる外、同年八月一日自己下宿に於て、朝鮮独立を念願する激越なる煽動的記述を雑記帳に認め之を同僚職工、金城洪六、木村清吉等に読み聞かせ之が民族意識の啓蒙に努め更に同年九月大阪市に転住後は在阪同僚を同志として獲得すべく奔走しつつありたり」

 

「住所不定 廣川秀雄 當二十二年

本名は昭和十五年三月京都市に渡来し苦学しつつありたるが、昭和十七年二月頃個人教授を受け居りたる私立藍原高女教諭河内山克己より、『朝鮮人も独力で朝鮮を守備し得る兵力と実力を得れば、ビルマ、フイリツピンの如く独立も可能となる』旨を聞かされ大いに感動する所あり爾来陸軍特別志願兵となり日本の軍隊教育を体得の上一般朝鮮人の指導者たらんと決意し、同年五月より七月頃までの間京都市内に於て学友数名に対し、朝鮮独立の為奮つて陸軍特別志願兵となり、武力を体得して将来の革命蜂起の際に献身すべきなり等と申し向け民族意識の啓蒙宣伝に努めつつありたり」(*注24)

 

このような動機で志願した者もいたことでしょう。また、朝鮮総督府や軍部は戦局が不利になるに従って「何時暴動化するような事がないとも限らない」(朝鮮総督府小磯国昭「葛山鴻爪」)「英米と通じて反乱を起こすのではないか」(機密作戦日誌、1945年第一七方面部隊)(*注25)などと、危惧の念を深くしていました。

が、幸か不幸か実際には朝鮮人兵士の反乱は起きませんでした。恐らく殆どの朝鮮人志願兵たちは、日本人兵士たちと共に勇敢に戦ったのでしょう。そして「アジア解放」の理念を信じそれを達成するために、日本の降伏後も日本人兵士と共に東南アジア諸国に残り、植民地支配を継続しようとする欧州諸国と戦った朝鮮人もいたのです。

 

日本の無謀な侵略戦争に駆り立てられた朝鮮人は、志願兵だけではありません。(厚生省の調査によると)約12万6000人の朝鮮人が、「軍属」として戦場での過酷な労働や捕虜監視に従事したのです。

これも志願兵制度同様、本人の意思による応募が前提でした。しかし実際には志願兵制度と同じく、強制的に徴集された場合もあった事を示す証言があります。

 

「家具屋の次男として生まれた私は26歳のとき、町内会の人に俘虜監視員になるよう推薦されました。当時、町内会に逆らうということは警察に反逆することと同じと見なされ、どうしようもなかったのです」

「役所の人の誘いにうっかりのって、徴用で、2年間だけ軍属になればいいのだからと、巧妙に説得され、農業を投げうって故郷を離れたのです」

「ひとり息子だったので、父母は私が監視傭員になることは反対でした。ところが、役人が毎日のように家に来て、息子を出さなければ配給をストップすると脅かしたので、両親はしかたなく承諾したのです」(*注26)

 

このようにして集めた朝鮮人軍属に対しても、「朝鮮人を一人前の兵隊に仕上げること」を目標に、初年兵教育と同様な厳しい訓練と、「軍人勅諭」や上官への絶対服従を誓わせる「軍属読法」による精神教育が二ヵ月間行なわれました。(*注27)

しかし彼らは日本軍内部に於いて「傭人」という軍属の中でも最も身分の低い労働者であり、「二等兵の人に対しても、敬礼しなければならなかった」そうです。(*注28)

人種差別とも相俟って、彼らは日本軍という集団の中で常時屈辱的な扱いを受けていました。戦後に戦犯として死刑(後に終身刑に減刑)の判決を受けた金聖起という人は次のように語っています。

 

「しかし、私が何よりも残念に思ったのは、朝鮮人としての私に向けられる日本人の差別観でした。たとえば、一日のうち数えられぬぐらい会うUという、一等兵に、そのつど敬礼せればならぬところ、うっかりして一回だけ欠礼したら、『きさまは朝鮮人のくせに生意気だ。おれをなめているな』とどえらく殴られました。そのときは口の中が砕かれて、数日間ろくに食事もできませんでした」(*注29)

 

また、彼ら朝鮮人軍属が東南アジア、南洋諸島、それに沖縄など各地で、ほんの些細なことやスパイ容疑などで虐殺されたことは今更語るまでもないでしょう。

たとえば1945年3月、沖縄の阿嘉島守備隊は朝鮮人軍夫も使役して陣地壕を構築しましたが、朝鮮人は差別され僅かな食料しか与えられなかった為、飢餓に耐えかねて逃亡する者が続出しました。そして4月下旬のある日、ポケットにサツマイモを隠していたのを発見された朝鮮人軍夫7人が「犯罪者」として処刑されたそうです。

銃殺の直前に日本兵が「最後に言いたいことはないか」と訊ねたところ、

 

「われわれは腹が減っていた。それなのにあなたたちは食料をくれなかったではないか。われわれは働くのはいい。どんなに働かされても我慢しよう。仕事なのだから。しかし、働けるだけの食料もくれずにただこき使ったのだ。われわれは心からあなたたちを憎む」

 

と昂然と叫んだそうです。(*注30)

 

また、マーシャル諸島のミレー島では約1万人の朝鮮人軍属を飛行場建設工事に使役していました。

19441月頃、補給が絶たれて食糧が足りなくなったため、ミレー島の日本軍は朝鮮人軍属と共に周辺の小島に分散することになりました。

その中でのチェルボン島ではジャングルの中でネズミや蛇や魚を採集する毎日でしたが、ある日、食糧を採集に行った朝鮮人軍属2名を日本人軍属が密かに殺害し、その死体を喰い、さらに事情をしらない朝鮮人軍属に「鯨肉」と称して食べさせました。

被害者の二人が帰ってこないのでこの事実に気がついた朝鮮人軍属らは、自らも食人の犠牲になることを恐れ、クーデター計画を立てましたが事前に発覚し、恐れた日本軍は島を脱出して救援を求めました。

そして日本海軍陸戦隊約60名と、朝鮮人軍属及び地元の酋長が率いるマーシャル人の間で銃撃戦が起こりましたが、戦力の優劣は明らかでした。

日本軍は降伏して手を上げる朝鮮人軍属も射殺しました。結局、朝鮮人軍属約100名、チェルボン島に住むマーシャル人(女子供老人含む)全員が銃殺または斬殺されました。

(こうして現在に至るまでチェルボン島は無人島になっています。 戦後、マーシャル人は事実を調査し、日本政府に補償を求めましたが、日本政府は1969年の米国とのミクロシア協定で解決済みだとしています。)(*注31)

 

このように朝鮮人軍属は差別待遇を受けていただけではなく、時には虐待され殺されました。そして彼らの受難は戦後も続くのです。

戦犯として有罪判決を受けた朝鮮人は、洪思翊中将のような職業軍人だけでなく、前述のような経緯で俘虜監視員となった軍属も多かったのです。

オランダ軍は日本降伏後にインドネシアの再植民地化を狙って上陸し、そして朝鮮人も含めた日本軍の兵士・軍属を捕虜虐待の咎で裁きましたが、被告個人が具体的にどのように捕虜を虐待したかは問わず、単に日本軍の人員であり、捕虜の拘留に携わったからという理由で裁いたのです。

蘭印法廷の「戦争犯罪の概念規定」第十条は、

「戦争犯罪がある集団の職務の範囲内においてその集団全体の責に帰すべき方法によって犯された場合には、その犯罪は集団によって犯されたものとみなされ、その集団の全員に対して公訴を提起し、かつ、刑を宣告する」(*注32)

となっていました。要するに「全体の罪は個人の罪でもある!」ってことですね。

またジャワの裁判では、

「日本軍の方からは、これらの人々(朝鮮人・台湾人軍属)がすべて、日本軍の使用人であり、日本軍の命令によったものであることの上申も行われた模様だが、一顧も払われなかった」(*注33)

ということがあったそうです。

このように蘭印法廷は被告本人がどのように捕虜を虐待したかの検証など行わず、日本軍全体の責任を個人に負わせたものだったのです。

 

また、(朝鮮人も含めた)「戦犯」として裁かれた日本軍の人員は、日本軍が日中戦争開始以来抱える根源的な欠陥の責任をも負わされてしまったとも言えます。

マレー俘虜収容所など各所で捕虜の監視に当たった尹東玄さんという元朝鮮人軍属・BC級戦犯は次のように述懐しています。

 

「・・・・スマトラのメダンに派遣された。北スマトラ中央部に軍用道路を建設するため、俘虜を労働力として使ったのですが、私はコタチャーネにあった分遣所のキャンプコマンダー、要するに責任者として派遣された。山奥で食糧も薬もなく、栄養失調や病気、けがなどで俘虜が亡くなった責任を、全部私が負わされたのです」(*注34)

 

日本軍はアジア・太平洋戦争のほぼ全期間を通じて食糧補給計画は実にズサンなものでした。この日本軍の重大な欠陥は、南京では捕虜大量虐殺の原因の一つとなり、東南アジア各地では捕虜や自軍の兵士を餓死させることになり、そして戦後には直接の責任が無い者を法廷の場に立たせてしまったのです。

 

(脱線しますが、マレー半島を席巻しシンガポールを占領した日本軍は、途中敗走したイギリス軍の食糧を獲得して喰いつないだそうです。また、1942年にガダルカナル奪還作戦を行なった第十七軍・一木支隊第二梯団の原田昌治さんという人は、ジャングルを餓死寸前で彷徨した体験を追想しています。

「背嚢を背負ったまま死んだ人、休憩した格好のまま死んだ人、そんな行き倒れの人が道標のように転がってしました。もう自分の部隊もなくバラバラで、行き合わせた人と二人で歩いたんです。何しろ“ルーズベルト給与”だけが頼りだったので、帰りは食べるものが何もなく、草や木の根をかじったりしてたんです。一つだけ忘れられないのが、途中の川で手榴弾でワニを捕まえたことですね。河原で黒こげになるまで焼いて無我夢中で食べたんですが、鶏肉のような味がしましたね」(*注35)

ここでいう“ルーズベルト給与”とは、アメリカ軍の食糧のことです。つまりガダルカナル奪還作戦に携わった部隊は、アメリカ軍を撃退した後その食糧を奪って喰うことを予定していたのです。全くお粗末極まりない楽天さと言えます。しかもアメリカ軍を破ることができたとしても、アメリカ軍の充分な食糧の備蓄が残されていなければ結果は同じです。この無計画、無軌道さが昭和の日本軍の致命的な欠点でした)

 

こうして蘭印法廷で有罪判決を受けた952名の日本軍構成員のうち、朝鮮人は67名、台湾人は5名に上り、そのうち朝鮮人4名、台湾人1名が処刑されています(日本人は232名)。(*注36)

彼らの無念さを言葉で表現することは出来ないでしょう。「組織的テロ、抑留市民の虐待」という罪状で死刑判決を受けた朴成根という人は、同胞に「祖国再建に努力してくれ」と言い残し、処刑の際に目隠しを拒み、「それまで一度も口に出さなかった“朝鮮独立万歳”を叫んで死んでいった」(*注37)そうです。

極刑は免れたものの長期の懲役刑を受けた者は、サンフランシスコ講和条約発効前に「スガモ・プリズン」(その跡地にサンシャイン60が建ったらしいっす)に送致されました。長期間の拘留によって出所後の生活の当てが無い者は日本政府に補償を求めて出所を拒否したそうです。

 

 

・・・・以上のように朝鮮人軍人・軍属は、軍事裁判とそれによる刑の執行については全く日本人と区別されることは無かったのですが、その後は大きな、つーか致命的な区別を受けることになります。

1953年、日本政府は軍人恩給制度を復活させ、さらに「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を公布しますが、これには「戸籍条項」があり、前年のサンフランシスコ講和条約によって日本国籍を失った在日韓国・朝鮮人は対象外となり、補償を受けるには帰化が必要でした。また1965年の日韓請求権協定によって韓国人への補償は「全て解決済み」との見解が下されるようになり、個人補償への途はほとんど絶望的になったのです。

このように日本政府は、日本軍の兵士としてまたは軍属として、日本人と区別することなく朝鮮人を戦場に動員しておきながらも、戦後は「もうお前は日本人じゃない」との一言で一切の責任を放棄しているのです。

 

・・・・ところで、インドネシアやベトナムでは終戦後も日本に復員せずに、欧州の植民地支配からの独立戦争に参加した元日本軍兵士も存在し、彼らの偉業は当地で称えられました。

インドネシア独立戦争に参加しオランダ軍に捕らえられて処刑された3名の元日本軍兵士は、インドネシア国軍兵士の署名による推薦によって、1975年、

「正真正銘の日本軍人であった上記3名の者は、1946年に誠心誠意その心身を、インドネシア共和国独立の重要に捧げ、故S.M.コサシ少佐の率いるパンゲラン・パパラック部隊に加わった」(*注38)

として、銃殺された地「ガルート」の英雄墓地に再埋葬されました。この3名の墓標にはインドネシア名とともに括弧で括られた日本名が刻まれました。

しかしこの中に俘虜収容所の監視員だったと思われる一名の元朝鮮人軍属が含まれていたのです。事情を知らないインドネシア側は、この朝鮮人も「ヤナガワシチセイ」という日本名で葬ってしまったのです。

他にも独立戦争に参加した元朝鮮人兵士・軍属がいたことでしょう。彼らは母国が日本帝国主義の壊滅によって独立したように、ヨーロッパの帝国主義を撃破することによってアジア諸国が独立できることを確信し、そして貢献せざるにはいられなかったのでしょう。

 

しかし・・・・・・・

終戦によって復員した朝鮮人兵士・軍属たちは、元日本軍人としての補償は拒絶されてしまいましたが、復活した祖国の国籍を獲得し、朝鮮民族の誇りを取り戻しました。

一方インドネシア独立に貢献したこの朝鮮人は、死後も朝鮮民族としての誇りを失ったままなのです。

 

故・孫基禎さんはベルリンオリンピックのマラソンで金メダルを獲得しましたが、オリンピックの公式記録上での孫さんの国名は「日本」のままです。しかしベルリンのオリンピックスタジアムの聖火台のとなりにある記念碑に刻まれた孫さんの国名は、戦後“Korea”に改められました。

願わくはインドネシア独立運動に参加した朝鮮人の名前も、朝鮮名に改正して、彼の信念と勇気を永遠に称えて欲しいものです・・・・・。

 

 

 

注釈一覧:

赤文字は龍渓書舎「朝鮮歴史論集」収録、宮田節子「朝鮮における志願兵制度の展開とその意義」より

緑文字は東京大学出版会「帝国議会貴族院委員会速記録 昭和篇 複製版104巻 81回議会,昭和17年」より

青文字は文生書院「内務省警保局保安課 特高月報」複製版より

紫文字は龍渓書舎「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)第32巻 第5集 朝鮮教育関係」収録、

朝鮮総督府陸軍兵志願者訓練所教授・海田要「志願兵制度の現状と将来への展望」より

ピンク文字、及びインドネシア独立戦争に加わった朝鮮人軍属のエピソードは、

龍渓書舎「朝鮮歴史論集」収録、内海愛子「太平洋戦争下における朝鮮人軍属――蘭印法廷における朝鮮人戦犯問題――」より

黒文字はその他より

 

 

(*注1)「太平洋戦下の朝鮮及び台湾」近藤釼一:編、朝鮮史料研究会近藤研究室

(*注2)東京大学出版会「帝国議会貴族院委員会速記録 昭和篇 複製版104巻 81回議会,昭和17年」

(*注3)文生書院「特高月報」昭和162月分-171月分 複製版 

(注4〜5)「志願兵制度の現状と将来への展望」朝鮮総督府陸軍兵志願者訓練所教授・海田要・・・・龍渓書舎「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)第32巻 第5集 朝鮮教育関係」

(*注6)『朝鮮』1939年1月号、倉元弘「羨望の的訓練生の一日」

(*注7)19389月「朝鮮総督府時局対策調査会報告事項」

(*注8−a)龍渓書舎「朝鮮歴史論集」収録、宮田節子「朝鮮における志願兵制度の展開とその意義」(P-418)

(*注8−b)1937年11月24日朝鮮軍参謀長加納誠一「朝鮮人志願兵問題ニ関スル回答」

(*注9)193811月、内務省警保局保安課「特高月報」

(*注10)1941年9月、内務省警保局保安課『特高月報』昭和十六年九月 朝鮮人運動の状況 五、内地在住朝鮮人学生の帰鮮中に於る特異言動」

(*注11)「満州ニ於ケル朝鮮人軍隊ノ概況」

(*注12〜13)「内務省警保局保安課『特高月報』 昭和十六年十月 朝鮮人運動の状況 五、在京朝鮮人学生の懇談会に於る特異言辞」

(*注14)「志願兵制度の現状と将来への展望」朝鮮総督府陸軍兵志願者訓練所教授・海田要・・・・龍渓書

舎「日本植民地教育政策史料集成(朝鮮篇)第32巻 第5集 朝鮮教育関係」

(*注15)「志願兵を訓へて」『朝鮮』昭和十五年四月号

(*注16)「昭和十三年後半期朝鮮思想運動概観」

(*注17)1938年の朝鮮の米生産高は2413万石、1940年は2152万石だが、1939年は1435万石だった。「朝鮮経済年報」・・・・朴慶植「日本帝国主義の朝鮮支配」より

(*注18)農林局「旱地の小作料減免」「連盟の旱害対策」国民精神総動員朝鮮連盟発行『総動員』昭和十四年九月号

(*注19)1937年11月24日朝鮮軍参謀長加納誠一「朝鮮人志願兵問題ニ関スル回答」

(*注20)15に同じ

(*注21−a,b,c)「志願兵訓練所より見たる半島青年の体力」『朝鮮』昭和十四年八月号

(*注21−d)「㊙国民体力向上ノ為朝鮮ニ於ケル保健衛生施設改善意見」昭和十四年三月朝鮮軍司令部

(*注22)注14と同じ

(*注23)東京大学出版会「帝国議会貴族院委員会速記録 昭和篇 複製版104巻 81回議会、昭和17年」

(*注24)文生書院「特高月報 複製版 昭和18年10月分-12月分」10月分P-77〜78より

(*注25)高木健一著「戦後補償の論理」より。原典は不明。

(*注26)「天皇制に忠誠誓わされ、祖国追われた朝鮮人戦犯」「潮」1972年8月号

(*注27)(*注28)野村正男「時は流れる」『秘録大東亜戦史』東京裁判篇、富士書苑、1953年

(*注29)小沢有作「朝鮮に於ける日本植民地教育の歴史」『日本は朝鮮で何を教えたか』あゆみ出版―――「皇民化政策から指紋押捺まで」岩波ブックレット128

(*注30)海野福寿「慰霊の旅――元朝鮮人軍夫の沖縄訪問」(「世界」1987年8月号)―――同上より

(*注31)高木健一著「戦後補償の論理」より。高木センセのソースは不明。悪しからず!

(*注32)(*注33)法務大臣官房司法法制調査部編「戦争犯罪関係法令集U巻」1965年

(*注34)内海愛子「朝鮮人<皇軍>兵士たちの戦争」岩波ブックレット226

(*注35)NHK取材班「ガダルカナル 学ばざる軍隊」角川文庫

(*注36)巣鴨法務委員会編「戦犯裁判の実相」1952年

(*注37)河合政「死刑囚」『秘録大東亜戦史』蘭印篇、富士書苑、1953

(*注38)(インドネシアの)現・退役軍人4名の署名による『履歴証明書』

 

(2003−11−28作成)

 

 

 

「特高月報」より少々追加します(2004/08/17)

 

内務省警保局保安課「特高月報」(昭和十五年二月〜十六年1月分複製版、文生書院)

特高月報 昭和十五年八月  朝鮮人運動の状況 

 

五、朝鮮人の思想動向其他に対する特異言動

時局下朝鮮人は内鮮一体の施政に順応し、その思想動向は著しく好転せりと認められつつあるのに対し、最近朝鮮より内地に帰省せる有力者某は朝鮮人の思想動向其他に関し左記の如き特異言動を為したり。

「朝鮮は表面非常に穏やかな様に見受けらるるが、裏面は革命の一歩手前の様な状況ではないかとさへ私には思われる。最近朝鮮民族は良くなった等と云はれておる居るが、夫れは官吏が自己の成績を挙げる為、部民の悪い事を隠蔽し、良い所のみを報告する結果に外ならず、志願兵制度にしても自発的志願者は少く、殆ど官吏が自己の成績を挙げる為、強制的に徴用するような状況で寒心に堪えない。

故に表面上の報告のみを信じて、最高行政をやつて行けば飛んでもないことになりはしないかと私は憂へて居る。大体総督府の行政は余りに迎合的である。朝鮮民族は世界の最悪劣等国民である様に思ふ。特性も品性もある民族ではない。彼等に如何に恩恵を施すも、夫れを喜んだり満足する民族ではない。南総督は、将来対ソ戦に備へるべく、早く朝鮮人を真の日本人にすると急いで氏制度の創設等色々の方途を講じて居られるが、良く行けば誠に結構だが悪く行けば、朝鮮統治は将来の一大癌となるのではないかと識者の間に言はれて居る。私は彼等の性向に照し内鮮一体は中々六ヶ敷い(難しい?)と思ふ。特に思想犯者は強烈なる民族意識を持つて居り、転向を誓はせんとしても『我等は何処を中心に転向するや』と言つてゐるやうだ。内地人なら天皇に帰一すると言ふ精神も湧いて来るであらうが、朝鮮人にはそんな観念になれないのが本当だらう。最近皇国臣民の誓詞等を言せて居るが、之を構へても内地人と異なり、或何者かの感じを持つて言つて居ることであらう。

現在の朝鮮統治は司法と、警察の長官及総督府首脳部を除く外の行政長官には朝鮮人が沢山居り、此の点行政が六ヶ敷いと思ふ、こんな植民地は世界に例がなく、反独立国家の様である。私は朝鮮で頼むべきものは軍隊と警察以外に無いと思ふ。どうも同化が六ヶ敷いと思ふ。

之等の点に付ては老練な政治家に依つて相当考へられて居る事とは思ふが、現在の朝鮮の行政を見ては将来の事を憂へさるを得ない」

 

・・・・・・・・

当時の「有力者」すら、朝鮮民族を「世界の最悪劣等」と見ていたということですが・・・・。「世界の最悪劣等」を無理して支配し続けなくてもよかったのではと思います。さっさと手を引けばよかったのに(笑)

それはともかく、朝鮮民族を「世界の最悪劣等」と見ていたほど差別意識の強かった、つまり朝鮮民族に対する嫌悪を隠しきれなかった「有力者」すら、「志願兵制度にしても自発的志願者は少く、殆ど官吏が自己の成績を挙げる為、強制的に徴用するような状況」を認識していたということは、(ヒッキーも尊敬している故・家永三郎氏のフレーズを借りれば)「特筆に値する」と言えます。