「徴発」という名の略奪

 

松井石根ら現場の司令官のワガママによって急遽上海から南京へ向けて進撃した中支那方面軍は、相応な食糧補給の準備を怠っていた。言うなれば弁当を持たずに出かけてしまったのである。信じられない狂った行為である。

たとえば歩兵第三十六連隊のある兵士は、「南京追撃戦において、米も副食物も缶詰一個も支給された記憶がないし、私の日記にも一行も記されていない。まして煙草だの甘味料、酒などの嗜好品は上海戦も皆無であった」(山本武「一兵士の従軍記録」・・・秦郁彦「南京事件」より)と回想している。

そこで当然「糧食を敵中に求む」ことになったのである。つまり「徴発」という名目の略奪、強盗を行いながら食いつないでいたのである。

そもそも「徴発」とは住民から自由に食糧を没収することでは、ない。

 

「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(いわゆるハーグ陸戦法規)の第52条によれば、

徴発を行う場合はその場で現金を支払うか、もしくは「領収証」を発行し、「なるべく速やかに」支払いを履行しなければならない。

しかし南京へ進撃していた日本軍は、兵士らが気ままに略奪を続けることを放置していたに等しい。

 

・・・この蘇州での戦いは数日で終わったけど、分隊では覚えていられないほど、怪我人や死者が出ました。減った分は、あとから予備兵が補充されました。背嚢はそのまま置きっぱなしにして来たもんで、米もカンパンも持ってなくての。特務隊が半煮えの、できそこないのご飯で作ったおにぎりなんかを、たまに届けてくれたの。だけども食料が来ないので、食べ物はほとんど徴発ですましてました。米とか味噌とか、鶏、豚なんかを徴発していました。夜、中国人の家ん中に入って、鍋を探す者、米探す者、菜っ葉探す者、とそれぞれ役目を決めて、探して来た物を分隊で分けて食べるのさ。住民は皆逃げてしまっていなくなって、ほとんど何も残っていなかったこともあったけど、二ヶ月くらい徴発で食いつないだかの。米がない時もあったけど、菜っ葉なんか食べて食いつなぎました。ずっと物を盗ってすごしたな」

(松岡環編著、社会評論社「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて・元兵士102人の証言」P-350,351より)

 

★牧原日記

12月4日)「徴発隊は雛、白菜等を持って帰り家の豚も殺して昼飯は肉汁である」

12月16日)「豚一頭を殺して早速料理して食う。鍋の徴発には如何にも困った。苦労した」

(青木書店「京都師団関係資料集」P-139、150)

 

★大寺隆陣中日記

12月16日)「徴発隊として午前7時20分整列。7時に起きたので泡を食って出ていく。途中道を間違えて半道ばかり反対の方向に行く。豚や米、芋の類、徴発する物資たくさんあり、徴発容易。午後2時半東流鎮につく。龍廟鎮から約四里、町に着き宿舎を決めると徴発に忙し、部隊の着くまでに徴発を終える。米、豆腐、小豆、砂糖、豚、芋、カマ、野菜など、部隊もまたいろいろ徴発してきた。分隊では豚、野菜、米、鶏、芋などを徴発してきたので、今晩は相当に馳走があった。(大月書店「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」」P-197)

 

★宮本省吾陣中日記

12月7日)「午後五時、常州東方2qの村落に露営す。給養は徴発による。豚、鳥、チャンチーの御馳走にて満腹となす」(同上P-132)

 

 

このように日本軍は「徴発」に頼って食いつないでいたのである。また、お菓子やお酒など嗜好品の類も「徴発」していたという記録もある。「徴発」とは単なる略奪に過ぎなかったことを如実に示していると言える。

 

 

★斉藤次郎陣中日記

11月19日)「・・・午後から自分と佐藤忠恵君が残つたきり小行李全部徴発に出る。

鶏や鴨を捕へて来る、支那酒も一瓶持つ来た、お陰で今夜は皆が大はしゃぎ、戦地に来た気分が少しも見えない」(同上P-26)

 

12月4日)「・・・水飴や小豆などを徴発して来て砂糖小豆などして間食をする」(同上P-32)

 

★宮本省吾陣中日記

12月12日)「本日は出発を見合わせ滞在と決定す、早朝より徴発に出掛ける、前日と違ひすばらしい獲物あり、そうめん、あづき、酒、砂糖、鶏、豚、皿、ランプ、炭あらゆる物あり正月盆同時に来た様にて兵隊は嬉しくて堪らず、晩にはぼた餅の御馳走にて陣中しかも第一線とは思はれぬ朗らかさである」(同上P-133)

 

★柳沼和也陣中日記

12月11日)「・・・・朝皆んながサイダーを徴発して来た。だが十一時に出発となったので、兵はこぼしこぼし出発する」(同上P-166)

 

・・・・補給をおろそかにしたまま中国大陸に侵攻してしまった日本軍にとって、「徴発」は食いつなぐ為に必要なことであった。そして現場の兵士の感覚は麻痺し、単なる窃盗犯、強盗と化していたのである。

そして南京占領後も日本軍の後方補給は追いつかず、中国軍が集積していた食糧や安全区委員会が南京市から託された食糧を奪ったのである。詳細はこちら。

また兵士たちの盗癖は収まらなかった。食糧の不足も相まって市内で気ままな略奪行為を続けたのである。

 

12月13日・・・日本軍は10人から20人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち破り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。

ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また、福昌飯店もこじ開けられた。中山賂と太平賂の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた(ジョン・ラーベ「南京の真実」P-110)

 

12月28日・・・夜の9時ごろ、日本兵が二人、こっそり裏の塀をよじ登っていた。私が出かけようとしたすきには、やつらはすでに食料貯蔵庫にもぐりこんでいた。私は取り押さえようとした。クレーガーには衛兵を呼びにいってもらった。ところがどうだ、衛兵はドロンをきめこんでいたのだ!クレーガーが私に知らせにきたときには、こっちの二人もあわてて塀を乗り越えて逃げ出していた(同P-152)

 

その後も「輜重輪卒(輸送兵)が兵隊ならば、チョウチョ、トンボも鳥のうち・・・」と揶揄されていた日本軍の兵站計画の粗末さは改善されなかった。日本軍は略奪品が生きる糧だったのである。

上述のような国際法に於ける「徴用」の原則は、最後まで充分な食糧を供給する能力がなく、民衆の憎悪の的となっていた中国戦線での日本軍の実情とは乖離したものだったのである。

これは1944年湘桂作戦に従軍した一兵士の回想である。

 

「徴発、掠奪をガタクルと言った・・・・・掠奪はいかん、物品は必ず金円を支払って調達せよと空命令を出しても、身も心も荒みきった兵隊に通じる筈もなかった。漢口を発つ時、どの部隊も糧秣等は現地調弁せよと命令され、調達物資は必ず、相当金額を支払うこと、金円がない場合は後払い証を発行せよと言われた。こんな馬鹿げた命令をする奴は、第一線の状態がどんな様相を呈しているのか承知していて、腹の中では腕ずくでも、相手を殺してでも徴発すべしと言っているのだ。日本軍の来襲を知り、いち早く避難し、姿をくらましてしまった住民とどうやって売買を交渉し、金を払えというのか」(小平喜一「湘南戦記」・・・「十五年戦争史A日中戦争」青木書店より)

 

 

また、人口の多い中国大陸では略奪によって食いつなぐことも可能であったが、人里離れたジャングルでは白骨を晒す運命が待っていたのである。

辻政信ら無能な指導者はガダルカナルを“餓島”に変えた。インパール作戦では「ジンギスカン遠征の故智」にならい、牛馬での輸送をもってして兵站部隊の貧弱さを補うことにしたが、この700年ほどの時代錯誤はビルマの山中に日本人の白骨をばら撒く以外の結果をもたらさなかった。自決しようとしても小銃や手榴弾も失っている者は、体が半分泥に埋まったまま「兵隊さん、兵隊さん、手榴弾を下さい、兵隊さん」と呻いていたという。

 

こうしてアジア・太平洋戦争は、故藤原彰教授の研究によると約140万人の餓死者・栄養失調がもたらした病死者を出して終焉した。愚かしき日本軍は、自軍の兵士に餓死するか強盗をして生き残るかの二者択一を迫っていたのである・・・・

 

 

(歴史ボード14982、14983その他から抜粋)

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