日 時 平成15年2月1日〜2日
目 的 お手杵の槍引渡式参加

「お手杵の槍」の由来
島田市には貴重な文化財が伝え残されているが、全国的にも知名度の高く評価されながらも、実在しない代表的なものに五条義助の鍛えた大傑作。日本三名槍の一つに数えられる「お手杵の槍」がある。
島田鍛冶には、義助を祖とする一派が室町時代から鍛刀をはじめたものといわれ、東海道の要所にあった島田宿は大いに繁盛した。
さて この五条義助を語るとき必ず引き合いに出されるものに、「お手杵の槍」
があるとされている。
この槍は、下総の国、結城城主「結城晴朝」の愛槍とされていたが、のちの上州「松平家」に伝来した。「黒田の日本号」「本多家のトンボ切り」と併せ、これを三名槍と称され徳川幕府公認の史実として刻まれまれている。
この度 島田市議員団「広和会」のみなさまのご好意を受け
伝統技術者
「穂」の鍛練師 杉岡 勇 作
「柄、拵」の装飾 松浦 昭 作
その他多くの協力者の協力を得て見事復元されました。
縁があり結城市に里帰りいたしました。
結城家を祖とする「結城朝光」は野木宮合戦や、奥州藤原氏攻略に軍功を立て将軍、鎌倉幕府源頼朝から恩賞として下総・結城郡以下数ケ所の所領を受け、名を結城朝光としてその地位と善政を施した。
結城家は初代朝光から由緒ある家柄として栄えたが、十七代「朝光」に男子がなく、豊臣秀吉の薦めもあり徳川家康の次男であり、豊臣秀吉の養子となった「秀康」を迎え、十八代を継いだ。
関が原の役戦後、秀康は実弟「秀忠」が次期将軍職にあることを指し、家康に徳川性を願望するが入れられず、秀康は実子五男「直基」に結城家を継がせ松平宗家を再興、越前67万石の大名として入府、この地を「福井」と改名。生母長松院(お万の方)を迎え善政を施くが、慶長12年34歳の若さで病死した。
ところで結城家に伝わる名槍「お手杵の槍」は、元来結城家のシンボルであったが秀康は、これを持ち出し、松平家の家宝として代々江戸屋敷に在り、登城の度にこの槍が振られたという。
松平家はその後、出羽、播磨等何回開封され、文久3年(1863)松平直克の時、上野(前橋)に移され厩橋城を築いたが、これを前橋城と改め子孫相継ぎ、明治に至って伯爵となったが、明治、大正、昭和と「お手杵の槍」も代々松平家家宝として受けつながれてきたが惜しくも昭和二十年五月二十五日東京大空襲により松平江戸屋敷ともどもこの名槍も一片のかけらもなく灰となった。
「お手杵の槍」譲渡式のあと
歴史講演会
講師静岡大学 大和田 哲男
「日本三名槍とは」
「関東の名族 結城氏」
「家康の次男秀康の養子に」
「お手杵の槍」をはじめ結城に係わる講話を興味深く拝聴いたしました。
「島田鍛冶」は、島田市を支えている文化でもあり伝統でもあります。
「温故知新」。「お手杵の槍」は島田鍛冶、その中でも歴史的にもその存在が高く評価された「義助の槍」であるからこそ、改めて検証する島田市民の心意気に強く心打たれるものがありました。
また、この「名槍」をゆかりの地に里帰りさせるという、心の深さに強く感銘いたしました。
歴史講演会終了後、私たちは心改めて「お手杵の槍」を参観いたしました。
この機会を大切に捉え、島田市との交流が文化面、産業面を初め多くの面でさらに進み、両市がますます発展するよう切望するものであります。
このような機会を与えてくれた「広和会」のみなさまに心から感謝いたします。
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