長承2年(1133)4月7日
    法然上人誕生(幼名 勢至丸せいしまる

 法然上人は、美作みまさかの国(現在の岡山県北部)でお生まれになりました。父はこの地で押領使として治安維持に当たっていた漆時国、母は秦氏の出身でした。4月7日正午近くに、母は苦痛もなく安らかに男子を分娩しました。折から空に瑞相の紫雲が棚引いていました。屋敷内に根元が二つに分かれてこんもり茂った椋の木があったが、二流れの真っ白い長旗が飛んできて小枝に垂れ下がりました。旗の鈴の音が空いっぱいに響きわたりました。が、それから七日後、長旗は天に昇って消え去りました。その後、この木は、ふた旗の椋の木と呼ばれました。数年後、この木は倒れてしまいましたが、跡にはいつも芳しい香りが漂っていましたので、人々はこの地を尊んで一寺を建立し、誕生寺と名付けました。


永治1年(1141)


 保延7(1141)年春、勢至丸9才の時、父時国がかねてより不仲であった稲岡の荘園を管理していた「明石定明」に夜討ちを仕掛けられ重症を負います。時国は傷が悪化し、臨終が近いことを悟り勢至丸を枕元に呼び、「父の仇を討つために敵に遺恨を晴らすことになれば、汝もまた遺恨を受けることになり、この世に遺恨が尽きることがない。それよりも汝は俗世間を逃れて出家し、迷いと苦悩の世界から脱せよ。」と遺言し、3月19日に息を引きとりました。
 勢至丸は、永治1年に美作国の菩提寺に入山します。この寺の院住「観覚得業」は母の弟で勢至丸には叔父にあたります。観覚は勢至丸の才能をみて比叡山におくって本格的な学問をさせようと準備し、勢至丸も急いで登りたいと願います。この話を聞き、母は思案にくれますが、勢至丸は「父の遺言が耳に残り忘れられません。真実を悟ることこそ報恩の道です。」と慰め、母も悲嘆にくれながらも承知しました。
    
久安3年(1147) 2月15日

 勢至丸は、観覚の紹介状をもち比叡山に登り、持宝房(源光の住房)に着きました。源光が勢至丸に天台大師の四教義を与えて読ませたところ、難解な個所にしおりを挟み、後で教えを受けようとしていたようです。この個所は古くから天台宗で論議されている難解なところでありましたので、人々は並の少年ではないと感心しあいました。源光は勢至丸をもっと学識の高い名僧の下で勉学させ、天台宗の奥義を究めさせたいと考え、4月8日に比叡山きっての雄才として知られる「皇円」の許にゆき、弟子入りさせました。
法然房源空・・・・法然上人の正式な名で法然道理のひじりで法然房と号し、源は「源光」と「叡空」の字をとって名付けられる。
勢至丸が理解した論議は師の皇円の教えよりも優れていたので、皇円が学業を成就し天台宗の棟梁となってほしいと思いましたが、勢至丸は名利を求める学業を嫌い、その後、皇円の許を辞し、久安6年(1150)9月12日、18才の時、西塔黒谷の「慈眼房叡空」の草庵に入ります。
    
承安5年(1175) 春

 叡空の許で煩悩と束縛と迷いの世界から離れる道を求めていた法然上人でしたが、師である叡空と論議を重ねるうちに、師匠が返って弟子となったように叡空が法然上人に敬意を払うようになりました。保元元年(1156)法然上人24才の時に叡空に暇をこい、嵯峨の「清涼寺」奈良の「興福寺」京都の「醍醐寺」「仁和寺」と求道の道へと進みました。その間に諸宗の学僧の帰依をうけます。法然上人は各宗の教義に精通していたので、各宗の僧は口々に上人の幅広い学識を称賛しましたが、上人自身は迷いの世界から解脱できる法門を得られないことに悩んでいました。こうした時に唐の善導大師の「観経疏」の中の一句「いついかなる時でも一心に南無阿弥陀仏と唱えることを続けていけば、その者は阿弥陀仏の本願力で極楽浄土に往生できる」に強くひかれた上人は一切の修行を捨て、ただ一向に念仏を唱える法門に帰依し、ここに浄土宗の開宗となりました。上人43才の時でした。
    
文治25年(1175) 春

 後に天台座主となる顕真は生死の世界を離れる直道を求めて思い悩んでいたが、考えがまとまりませんでした。そして、生死の世界から逃れられない事ばかり嘆いていました。ある時、このような問題は法然上人に尋ねた方がよいという勧めがあり、上人と対面しました。そこで上人から「この世で悟りを開いて成仏しようとする修行は至難である。阿弥陀仏の本願力を信じて念仏を唱えて、来世に極楽往生することはとげ易いことです」と教えられました。顕真は「これまでの修行は名利のための修行であった。ようやく浄土の法門について見定めることができました。大原に来て教えを説いて頂きたい。」と願い、文治2年秋に上人を大原に迎えました。上人との問答を見聞しようと比叡山の僧など多くの人々が大原の勝林寺に集まりました。そこで上人が念仏を唱えて極楽往生することについて言葉を尽くして説きました。上人が説き終わると、人々は説法に心服し、三日三晩にわたって念仏を唱えました。文治6年(1190)、顕真は61代目の天台座主に任命されました。
    
建久9年(1198)

 法然上人は多くの人々から帰依されましたが、その中でも関白・九条兼実の上人に対する帰依の気持ちは大変なものでした。兼実の父忠通の命日の供養には上人を請じて仏事をいとなんでいます。この年に兼実は使者をたてて「浄土の教えをうけているが、納得しがたい部分もあるので教えを文に綴ってもらいたい。そうして形見として後に備えたい。」と上人に伝えました。上人はこの伝言を聞いて浄土宗の要旨を一書にまとめることにしました。それが「選択本願念仏集(略して選択集)」です。その意味するところは「阿弥陀仏が選択したもうた本願の念仏について経論、並びに祖師たちの説いている要文をあつめた書」ということで浄土宗の要義を述べたものであり、当時の仏教界に多大なる影響を与えました。
 兼実は建仁2年(1202)に、上人を招いて出家し、法名を円証と名乗りました。
    
元久元年(1204)11月7日

 法然上人が唱導している念仏の教えは、人々の間に瞬く間に広まっていきました。ところが門弟の中に念仏を唱えれば極楽往生できるという教えをよいことにし、阿弥陀仏の本願にかこつけて勝手な行動をとる者が多くなってきました。そのため奈良、比叡山から大変、非難をうけました。元久元年(1204)の冬には比叡山の僧たちが天台座主・真性大僧正に専修念仏停止を上奏するよう訴えました。法然上人は弟子たちの誤った考えを戒めるため、7箇条の禁制をつくり、主だった弟子88人を選んで連署させ、弟子たちが守るべき規範として、この起請文を真性座主に送りました。
その内容は
 他宗の仏菩薩を非難しない事
 学解修行を異にする人と争論しない事
 相手の法門を嫌って嘲笑しない事
 阿弥陀仏の本願を頼む者は造悪を恐れる必要がないと説かない事
 無闇に争論を持ちかけ人々を迷わせない事
 正しい教えを知らないのに間違った教えで人々を教化しようとしない事
 自分の考えた間違った教えを師匠の説であると偽って称しない事
というものでした。
元久2年に奈良・興福寺が上人を罰するよう訴状を提出しましたが、朝廷より「上人の弟子達の行動は浅い知恵によるものであり、上人の本意に背いている。法を説いて人々を教化している者に刑罰を加えてはならない」との宣旨が下りました。
    
建永2年(1207)2月28日

 建永元年12月9日に「後鳥羽上皇」が熊野山に参詣するため、都を留守にした頃、上人の弟子の「住蓮、安楽」らが東山鹿ノ谷で六時礼讃を修めました。この礼讃は哀歎と悲喜をこめて詠じるので尊いものに聞かれ、聴聞の人々の中に仏道修行に志を起こす者が多くでました。その中に御所の留守を仰せつかった女官がいましたが、法要の時に出家してしまい、やがてこの事が熊野山から帰ってきた後鳥羽上皇の逆鱗にふれました。翌年2月9日、住蓮と安楽が御所に呼ばれ、安楽は六条河原で死罪になりました。安楽が死罪になった後でも上皇の怒りは消えず弟子の罪が上人に及び、僧侶の身分を取り上げられ藤井元彦という俗名で土佐に流罪になることが決まりました。上人75才の時でした。上人は3月16日に都をたち、26日讃岐の国(香川県)に着き、まもなく讃岐の国の小松荘内の生福寺に住み、念仏の行を人々に勧めました。承元元年(1207)12月8日に上人勅免宣旨が下されましたが、京に帰ることは許されず、4年後に帰ってよいという赦免が下され、建暦元年(1211)11月20日に京都に帰ることになりました。上人78才の時でした。


≪次回へつづく≫