言語の自己表出と指示表出は、吉本隆明が言語発生の関するランガーとマルクスの見解を選択し、混成し、統一した「論理的なもの」である。
目次
わたしは「論理的なもの」の構造として「自己表出と指示表出」を想定している。これを「論理的なものの三側面」の規定(ヘーゲル)に対置して、矛盾ではなく、対話を核心に据えた弁証法の理論を構築しようとしている。矛盾と止揚の論理ではなく、対話と止揚の論理をつくろうとしているのである。これが、わたしの試みである。
この試みの基礎になっている「自己表出と指示表出」は、吉本隆明から借りた考え方である。
しかし、すべての側面を借りているわけではなく、わたしなりに取捨選択して、それを認識の領域に応用しているものである。
認識の領域に取り入れているのは、次のような面である。
反対に、捨てているものには、次のようなものがある。
『中学生のための社会科』を読んでいるとき、吉本隆明の「自己表出と指示表出」の使い方とわたしの使い方の違いに気づき、自分の立場を明確にしようと思った。
『言語にとって美とはなにか』を読み直しはじめたのだが、次の比喩に、くぎづけになった。
言語発生の機構については、いわばちがった色の絵の具でぬられた二枚の画布にむきあっていた。そして色をひとつにぬりなおすこと、画布を一枚にただすことがふたつとももんだいとなった。混乱はそれぞれの言語観の個性的なちがいをこえた何かをふくんでいたのだ。
これは、言語の発生に関するランガーとマルクスの考えを統一して、言語の本質を提示した過程を、吉本が比喩として述べているものだ。
この比喩は、弁証法をほうふつとさせたのである。もちろん、ここでいう弁証法は、ヘーゲルの正反合ではなく、わたしが主張している複合論のほうである。
わたしは、言語の表出論が形成されていく過程を、複合論の考え方で捉えられるのではないかと考えた。これを示すことで、言語の「自己表出と指示表出」と論理的なもの(認識)の「自己表出と指示表出」の共通点と相違点を明確にできるのではないかと考えた。
わたしは、ここで次の点を主張する。
まず、複合論の要点を列記しておく。
言語の「自己表出と指示表出」から類推した認識の表出論は、次のようなものである。
「論理的なもの」とは、理論、主張、規定、見解、意見、公式など、なにかについての認識が表現してあるものを指している。ヘーゲルは『小論理学』で「論理的なものの三側面」という規定を提出しているが、その「論理的なもの」と対応している。 認識の構造をそのまま「論理的なもの」にも想定する。すなわち、「論理的なもの」は自己表出と指示表出という構造をもっている。
「論理的なもの」を複素数をモデルにして、表現する。例えば、A =a+bi という式で、ある特定の「論理的なもの」を表現する。実数部分が自己表出、虚数部分が指示表出である。虚数単位 i と結合している方が指示表出である。
弁証法は、対話をモデルとした思考方法で、認識における対立物の統一である。この過程は、二つの「論理的なもの」の選択から始まる。
認識における対立物の統一は、対話をモデルとした思考方法によって進展していく。
対話をモデルとした思考方法が、弁証法の共時的構造である。また、対立物の統一の過程は選択、混成、統一という三段階をたどる。これが弁証法の通時的な構造である。
認識における対立物の統一の過程は、次のように表現できる。
この三段階は、ヘーゲルの「論理的なものの三側面」に対置する通時的な構造である。記号で表示すれば、次のようになる。
| 1(選択) | A =a+bi |
| A' =c+di | |
| 2(混成) | A×A' =(a+bi)×(c+di) |
| ≒(a+di)×(c+bi) | |
| 3(統一) | =(ac−bd)+(ab+cd)i |
| =x+yi | |
| =B |
対話をモデルとした思考方法は、次のように表現できる。
| c | ← | bi | + | a | → | di |
| + | ↑ | ↓ | + | |||
| bi | ← | c | + | di | → | a |
中央にある bi + a と c + di は、選択された二つの「論理的なもの」である。垂直方向の矢印は推論を示す。推論によって出現する第三の要素は結合する。右側の a + di と左側の c + bi である。これらは異なる二つの「論理的なもの」の、一方の自己表出と他方の指示表出で構成されている。混成モメントとよぶ。
共時的な構造の中央にある bi + a と c + di は、通時的な構造の2(混成)の( a + bi )×( c + di )に対応している。また、共時的な構造の両側の a + di と c + bi は、2(混成)の( a + di )×( c + bi )に対応している。
ヘーゲル弁証法と複合論の特徴を表にまとめておく。
| ヘーゲル弁証法 | 複合論 | |
| 進展の動因 | 対立する一項の内在的否定 | 対立する二項の対話 |
| 論理の特徴 | 矛盾と止揚 | 対話と止揚 |
| 通時的構造 | 1 悟性的(抽象的)側面 | 1 選択 |
| 2 否定的理性(弁証法的)側面 | 2 混成 | |
| 3 肯定的理性(思弁的)側面 | 3 統一 | |
| 共時的構造 | - | 自己表出と指示表出 |
言語の自己表出と指示表出は、吉本隆明が言語発生の関するランガーとマルクスの見解を選択し、混成し、統一した「論理的なもの」である。
吉本隆明は、言語の発生に関連する見解を大きく二つに分けている。一つは、「人間だけが言語を持つという考え方」である。もう一つは、「人間以外の動物も言語をもっているが、発達した言語をもつのは人間だけだという考え方」である。
吉本は、前者の代表としてランガーをとりあげている。これに対して、後者の代表として、マルクスをとりあげている。
吉本は、ランガーの見解は言語発生を非実用的に捉えるところに特徴があると考える。
蛮人ヴィクターが〈牛乳〉ということば有節的にを発したのは、欲求のサインではなく、単に喜びの叫び声であることを意味している。〈牛乳〉ということばが、欲求している牛乳が与えられない前に発せられたのではなく、そのものを与えられた後に発せられたのは、たんに喜びの表現であるとかんがえるべきである。 この実験を決定的な証拠としてあげていることからわかるように、ランガーがいちじるしい執着をもって引証している見解群には、言語発生を非実用的に非実用的にとかんがえようとする特徴が鋭くあらわれている。
吉本は、ランガーの見地は「人間の意識の自発的な表出として言語の成立をみることを意味しており、意識の実用化の過程として言語をみることとまったく位相がちがうことに注目しなければならない」と強調している。
マルクスに対して、吉本隆明は『ドイツ・イデオロギー』を引用している。
言語とは他人にとっても私自身にとっても存在するところの実践的な現実的な意識であり、また、意識と同じく、他人との交通の欲望及び必要から発生したものである。
ランガーとの違いは、「他人との交通の欲望及び必要から発生したものである」という見解だけだと特徴づけている。
しかし、この見解を最高のレベルで受けとめるために、スターリンやブイコフスキーなどの解釈を排除している。
なぜなら、「他人との交通の欲望及び必要から発生した」というのは、マルクスにおいては「自己自身との交通の欲望及び必要から発生した」と同じ認識であるのに、かれらは社会的な交通の手段としのみ、言語を捉えているからである。
また、かれらは、「他人にとっても私自身にとっても存在するところの実践的な現実的な意識」(他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在する現実的意識)という「捨てるには惜しい微妙な言いまわし」に無頓着だからである。
さらに、かれらは、「何事かを言わなくてはならなぬまでになった」(「猿の人類化への労働の関与」エンゲルス)という問題を無視しているからである。
ランガーとマルクス。これが、ちがった色の絵の具でぬられた二枚の画布である。 A =a+bi と A' =c+di である。
ランガーの自己表出と指示表出は「自発的な表出」(非実用性)と考えることができる。これに対して、マルクスの自己表出と指示表出は、「交通の欲望及び必要」(実用性)と考えることができる。
吉本は「労働の発達が言語の発生をうながしたことと、うながされて言語を人間が自発的に発することとのあいだ」のへだだりに着目する。そして、このへだたりに「何事かを言わなくてはならなぬまでになった」(エンゲルス)や「他人にとっても私自身にとっても存在するところの実践的な現実的な意識」「他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在する現実的意識」(マルクス)を対応させる。
ここに、吉本は一枚の画布を見て、そして、言語観の個性的なちがいをこえた何か を描き始めたのである。
吉本隆明の頭の中に出現したのは、次のような弁証法の共時的な構造である。
| c | ← | bi | + | a | → | di |
| + | ↑ | ↓ | + | |||
| bi | ← | c | + | di | → | a |
ここで、上の中央の bi + a が、ランガーの言語観である。また、下の中央の c + di がマルクスの言語観である。矢印は吉本の推論を表している。水平方向の矢印の先には、混成モメントが出現する。 c + bi と a + di である。
吉本は二つの言語観を統一しようとする。
ここでつきあたっていることは、たんに遊戯や祭式の行動をもとにして言語の発生をかんがえるべきか、労働や交通の用具として言語の発生をかんがえるべきか、という問題ではない。たとえば、ランガーの見解も、そういう意味では労働の発達が、言語発生に寄与したということを排するものではないし、マルクスやエンゲルスの見解も、祭式が言語発生に寄与したというもんだいを排除するものではない。それなのに、言語の発生について二つに大別され、またいずれかを混こうしている見解群は、言語の本質からその実用性と自発的な表出のいずれかを切りとり、その断面を拡張して、ついに対照的な彼岸に到達していることがもんだいなのだ。
「ランガーの見解も、そういう意味では労働の発達が、言語発生に寄与したということを排するものではない」という認識を可能にしているのが、左側の混成モメント c + bi である。これはマルクスの自己表出 c とランガーの指示表出 bi から成り立っている。すなわち、「交通の欲望及び必要」(実用性)の自己表出と「自発的な表出」(非実用性)の指示表出から成り立っている。これが「言語の自己表出」となったと考える。
これに対して、「マルクスやエンゲルスの見解も、祭式が言語発生に寄与したというもんだいを排除するものではない」という認識を可能にしているのが、右側の混成モメント a + di である。
このモメントは、ランガーの自己表出 a とマルクスの指示表出 di から成り立っている。いいかえれば、「自発的な表出」(非実用性)の自己表出と「交通の欲望及び必要」(実用性)の指示表出からできている。これが「指示表出」になったのである。
単純にいえば、マルクスの自己表出とランガーの指示表出が「言語の自己表出」となり、ランガーの自己表出とマルクスの指示表出が「言語の指示表出」になったのである。
そして、この二つのモメントが、「自発的な表出」(非実用性)と「交通の欲望及び必要」(実用性)の統一を可能にしたのである。
言語の自己表出と指示表出は、吉本隆明が言語発生の関するランガーとマルクスの見解を選択し、混成し、統一した「論理的なもの」である。
吉本隆明は、次のように統一している。
この人間が何かを言わねばならないまでにいたった現実的な与件とその与件にうながされて自発的に言語を表出することとのあいだに存在する千里の径庭を言語の自己表出(Selbstausdrückung)として想定することができる。自己表出は現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積してもはや意識の内部に幻想の可能性として想定できるにいたったもので、これが人間の言語の現実離脱の水準をきめるとともに、ある時代の言語の水準の上昇度を示す尺度となることができる。言語はこのように対象にたいする指示と対象にたいする意識の自動的水準の表出という二重性として言語本質をなしている。
これが吉本が示した「画布」である。はたしてうまく描けているのだろうか。わたしは疑問をもっている。どうして、言語の「自己表出」なのだろうか。言語の「表出」ではないのだろうか。
この疑問は、この段落の最後の文と密接に関係している。わたしは、「このように対象に対する指示」という箇所に、唐突な印象を受ける。
ここで、わたしの歩みを述べさせてもらう。
わたしは『もうひとつのパスカルの原理』で、認識の自己表出と指示表出をまとめた。このときは、言語の自己表出が幻想の可能性として想定してあることに対応させて、認識の自己表出に判断と推論の可能性を想定していた。
「弁証法試論」で、自己表出と指示表出を再検討したとき、「自己表出」ではなく、「表出」に判断と推論の可能性を想定すべきではないかと考えた。判断と推論は自己表出だけでなく指示表出にも及んでいるからである。
表出に判断と推論の可能性を想定し、表出を自己表出と指示表出に分けることによって、いわば、両手を使えるような気分になったのである。認識の自己表出の指示的展開という表現では、窮屈に感じるときがあったのである。
ふりかえってみると、自己表出に判断と推論の可能性を想定していたときも、心積もりとしては、表出に可能性を想定しているときと同じで、自己表出にも指示表出にも判断と推論は関係していると思っていたのである。
ひるがえって、幻想の可能性の場合はどうなのだろうか。幻想の可能性も、自己表出だけでなく、指示表出にも関係しているのではないだろうか。
幻想の可能性も、自己表出ではなく、表出に想定する。そして、表出を自己表出と指示表出に分ける。これが複合論の美学が要求するところである。
わたしの場合、次のように統一になる。
この人間が何かを言わねばならないまでにいたった現実的な与件とその与件にうながされて自発的に言語を表出することとのあいだに存在する千里の径庭を言語の表出(Ausdrückung)として想定することができる。表出は現実的な与件にうながされた現実的な意識の体験が累積してもはや意識の内部に幻想の可能性として想定できるにいたったもので、これが人間の言語の現実離脱の水準をきめる。この表出は、自己表出と指示表出に分かれる。自己表出は、ある時代の言語の水準の上昇度を示す尺度となることができる。これに対して指示表出は、ある時代の言語の対象領域の拡張度を示す尺度となることができる。言語はこのように対象にたいする指示と対象にたいする意識の自動的水準の表出という二重性として言語本質をなしている。
このような統一のほうが、「ある時代の社会の言語水準」と整合しているのではないだろうか。
ある時代の社会の言語水準は、ふたつの面からかんがえられる。言語は自己表出性において、わたしたちの意識の構造にある強さをあたえるから、各時代がもっている意識構造は言語が発生した時代からの急げきなまたゆるやかな累積そのものにほかならず、また、逆にある時代の言語は、意識の自己表出のつみかさなりをふくんでそれぞれの時代を生きるのである。しかし、指示表出としての言語は、あきらかにその時代の社会、生産体系、人間の諸関係そこからうみだされる幻想によって規定されるし、強いていえば、言語を表出する個々の人間の幼児から死までの個々の環境によっても決定的に影響される。また異なったニュアンスをもっている。このようにして言語の本質にまつわる永続性と時代性、または類としての同一性と個性としての差別性は、言語の本質の対自と対他の側面としてあらわれる。言語の表現である文学作品のなかにわたしたちがみるものは、ある時代に生きたある作者の生存とともにつかまえられて、死とともに滅んでしまう何かと、人類の発生とともに累積されてきたなにかの両面であり、本質としては、作者が優れているか凡庸であるかにかかわらないのである。
これまで、引用してきたのは、「吉本隆明著作集6 文学論V 言語にとって美とはなにか(全)」(勁草書房)からである。わたしのもっているのは、昭和47年(1972年)8月20日第2刷である。第3図をスキャナーで取りこもうと思ったが、小さく、またかすれてもいたので、他の本を参考にしようと思った。『定本言語にとって美とはなにかTU』(角川選書・平成2年)を手にして、驚いた。吉本隆明は、ずいぶんと「言いまわし」を改めていたのである。
これまで引用した箇所がどう変わっているのか気になった。
「統一」の場面は次のようになっている。
この人間が何ごとかをいわねはならないまでになった現実の条件と、その条件にうながされて自発的に言語を表出することのあいだにある千里の距たりを、言語の自己表出(Selbstausdrückung)として想定できる。自己表出は現実的な条件にうながされた現実的な意識の体験がつみ重なって、意識のうちに幻想の可能性としてかんがえられるようになったもので、これが人間の言語が現実を離脱してゆく水準をきめている。それとともに、ある時代の言語の水準をしめす尺度になっている。言語はこのように、対象にたいする指示と、対象にたいする意識の自動的水準の表出という二重性として言語本質をつくっている。
離脱する水準のあとで、句点が入っている。しかし、自己表出に偏向していて、指示表出にたいする言及はない。やはり、「対象にたいする指示」に唐突な印象を受ける。
また、「ある時代の社会の言語水準」は次のようになっている。
ある時代のひとつの社会の言語の水準は、ふたつの面からかんがえられる。言語は自己表出の面から、わたしたちの意識にあるつよさをもたらすから、それぞれの時代がもっている意識は言語が発生した時代からの急げきなまたゆるやかなつみかさなりそのものにほかならない。また、逆にある時代の言語は、意識の自己表出のつみかさなりをふくんで、それぞれの時代をいきてゆく。しかし指示表出としての言語は、あきらかにその時代の社会、生産体系、人間のさまざまな関係、そこからうみだされる幻想によって規定される。しいていえば、言語を表出する個々の人間の幼児から死までの個々の環境によっても決定的に影響される。またちがったニュアンスをもっている。こんなふうに言語にまつわる永続性と時代性、または類としての同一性と個性としての差別性、それぞれの民族語としての特性などが、言語の対自と対他のふたつの面としてあらわれる。言語の表現である文学作品のなかにわたしたちがみるものは、ある時代に生きたある作者の生存とともにつかまえられて、死とともに亡んでしまう何か と、人類の発生からこの方、つみかさねられてきた何かの両面で、これは作者が優れているか凡庸であるかにかかわらないものだ。
「それぞれの民族語としての特性」が付けくわっている。しかし、永続性と時代性、類としての同一性と個性としての差別性は、言語の対自と対他のふたつの面と対応しているのに対して、民族語としての特性は、言語の対他の面(指示表出)とだけ対応していて、整合した付加ではないと思われる。
また、ここでも、「幼児」となっている。「死」との対照からいえば、「幼時」が妥当ではないかと思う。
また、「構造としての自己表出と指示表出」については、次のようになっている。
言語を対象までつくられた意識としてみるのではなく、つくられた表現としてみるには言語をうちなる自己表出で、そとなる指示表出だというようにみなすのが有利だ。そしてこの言語のうちの本質は、言語表現の歴史のうちでは連続してうつりかわるといっていい。けれどそとなる本質は、各時代を通じて断続する激変をうける。それは個人を介してだけ時代の現実にむかっているとみていいからだ。
前の二つの改訂は、草書と楷書の違いという範囲に収まり、同じ「文字」を読み取れるが、これは、その範囲を逸脱していると思われる。
はじめの文が、「言語を対象化された意識としてみるのではなく、ひとたび表現としてみるときは、言語をその内的な本質においては自己表出であり、外的な本質としては指示表出であるような構造とみなすのが有利である」と対応しているとは、とても思えない。
「構造」を削除したのが原因だと思われる。くずし方が間違っているために、わかりにくくなっている。はじめて「うちなる自己表出で、そとなる指示表出」を読んだ読者は、それが「言語をその内的な本質においては自己表出であり、外的な本質としては指示表出であるような構造」を指しているとは思えないのではないだろうか。
「うちなる自己表出で、そとなる指示表出」という表現は、「自己表出」の偏向によって「指示表出」があいまいになっていると考える。
参考文献
『吉本隆明著作集6 言語にとって美とはなにか(全)』(勁草書房)1972年
『定本言語にとって美とはなにかTU』(角川選書)1990年