双子のパラドックスは、相対性理論において、運動系の時計の遅れに関して提出されたパラドックスである。それはアインシュタインの時計のパラドックスを1911年にポール・ランジュバンが双子をモデルに仕立てたものだという。次のようなものである。
双子の兄弟がいる。兄は光速に近いロケットで宇宙旅行に出かけ再び地球にもどってくる。弟は地球にとどまっている。弟から見ると、兄が運動系にいるため、兄の時間が遅れているように見える。すなわち、兄が地球にもどったとき、兄の方が弟より若い。一方、運動が相対的であることを考えると、兄から見れば、弟の方が運動系にあるため、弟の時間が遅れているように見える。すなわち、双子が再会したとき、弟の方が兄より若い。弟から見るときと兄から見るときとでは、結果が逆になっている。
しかし、ここでタイトルとして提示する「双子のパラドックス」は、このような運動系における時計の遅れに関するものではない。わたしは、この「双子のパラドックス」ということばを借りて、弁証法の新しい理論を展開してみたいと思うのである。
弁証法は、現代ではヘーゲル・マルクス主義の考え方が主流である。しかし、歴史的に見ると、さまざまな立場があり、今日の主流の考え方は、たかだがこの150年ほどのもので、きわめて制約されたものだと思う。
わたしの試みは、「弁証法」の語源である「ディアレクティケー」の可能性を探究していると言えると思う。これまで展開してきた複合論を特殊相対性理論の形成過程を通して見直し、発展させてみたいのである。
さて、わたしは「双子のパラドックス」に、運動系の時間の遅れではなく、違った内容を盛り込もうと考えている。それは、アインシュタインが1905年の論文で提示した2つの原理、すなわち、(特殊)相対性原理と光速度一定の原理のことである。
わたしはこの2つの原理を「双子」と見る。しかも、この「双子」は、ガリレオの相対性原理とマクスウェルの方程式のなかの光速度の一定性という別の「双子」によって「混成」された「双子」とみるのである。
「双子」は、わたしが提起している弁証法の新しい理論の核心にあるものである。
相対性原理と光速度一定の原理を、双子と呼ぶのは、わたしが初めてだと思う。しかし、2つの原理をパラドックスと呼ぶのは、わたしが初めてではない。2つの原理とパラドックスを関連させたのは、アインシュタイン本人である。『特殊および一般「相対性理論」について』(金子務訳)に、次のようにある。
さて、前述のバラドックスはこう表現できる。古典力学で使用される、一つの慣性系から他の慣性系へ移る場合の事象の空間座標と時間の結合規則に従えば、二つの仮定
一、光速度の不変性
二、法則(特に光速度不変の法則)は、慣性系の選び方とは無関係であること(特殊相対性原理)
は、(両方ともそれぞれ経験によって支持されているのにもかかわらず)たがいに両立しえないものなのだ、と。
「双子のパラドックス」ということばの指示する内容を、運動系の時間の遅れから、特殊相対性理論の核心である2つの原理へと変える。これを基礎に新しい弁証法の理論を展開したいと思う。
「双子のパラドックス――弁証法1905 」というタイトルは1年前に浮かんできたものである。このタイトルのもとで、相対性理論の形成過程の把握と弁証法の理論の見直しをやろうと思ってきた。今回はその第一声である。
「双子のパラドックス」ということばから「宇宙旅行」ではなく、「相対性原理と光速度一定の原理」が連想されるようになる。そして、それが「弁証法」と結びつく。そんな日が来ればいいと願っている。わたしの夢である。
目次
「科学的発見の論理」(伊東俊太郎『科学と現実』所収)は、複素過程論を弁証法の理論として見直すきっかけの一つだった。
伊東俊太郎は「発見的思考」を、A帰納(induction)によるもの・B演繹(deduction)によるもの・C発想(abduction)によるものの三つの思考方式に大きく分け、「C発想」のなかを、さらに1類推によるもの・2普遍化によるもの・3極限化によるもの・4システム化によるものと細分していた。わたしは弁証法を「発想」の中の「普遍化」と考えればよいのではないかと思ったのである。
伊東俊太郎は「普遍化」の例として、ニュートン力学とアインシュタインの相対性理論をあげていた。
この「普遍化」というのは、与えられた既知の複数の理論を、ある観点から統一的に把握しうる、より一般的な理論をつくろうとすることを意味する。たとえばニュートンがガリレオによって与えられた地上の物体の運動法則と、ケプラーによって樹立された天体の運動法則とを、万有引力の観点から統一的に把握する、彼の古典力学をつくり上げたこと、またアインシュタインが、力学とマクスウェルの電磁気学を、ローレンツ変換という観点から統合する相対性理論をつくり上げたことなどが、この好例としてあげられよう。すなわち電磁気学の方はローレンツ変換を満足するが、ニュートン力学はこれを満足しないので、後者をガリレイ変換によって不変なものから、ローレンツ変換によって不変なものへと変え、両者を統合しようとしたことが、相対性理論を生み出す根本動機であった。
弁証法を「普遍化」と考えるようになってから、何年も経っている。これまで、ニュートン力学とマックスウェルの電磁気学について、わたしが提唱する弁証法の例として取上げ検討してきた。しかし、相対性理論については、何も述べていないことに今年になって気づいた。伊東が例としてあげていないマックスウェルの電磁気学を取りあげ、例としてあげているアインシュタインの相対性理論を取りあげていないのだから、一勝一敗というところだろうか。
アインシュタインの相対性理論を弁証法で捉えるという問題意識がなかったのである。どうしてだったのだろうか。――背丈が足りなかったのである。
アインシュタインの相対性理論の形成過程は、弁証法(複合論)で捉えられるのだろうか。相対性理論に関する文献を読みはじめた。難しい。しかし、以前はわかりにくかったところも、わかるようになってきた。背丈は少しずつ伸びているような気がする。特殊相対性理論の形成過程は弁証法で捉えられると思う。
アインシュタインは、二つのペア(ファラデーとマックスウエルのペアとガリレオとニュートンのペア)に内的な類似をみていた。(「自伝ノート」金子務編訳『未知への旅立ち』所収 小学館1991)
大学生だった当時、私がもっとも魅了されていた対象は、マックスウェルの理論であった。この理論を革命的にみせたものは何かといえば、遠隔作用の力をやめて、場を基本的な量として導入した点であった。光学を電磁気学の理論に組み入れたこと、すなわち光速度を電磁気的な絶対単位系と関係づけ、および屈折率を誘電率に関係づけ、物体の反射率と金属の伝導率を定性的に関係づけたこと――これらは、まるで天の啓示のごときものであった。場の理論への移行、すなわち基本法則を微分方程式であらわすことを別にすれば、マックスウェルに必要だったのはただ一つの仮説的な措置――真空中と誘電体中の変位電流とそれの及ぼす磁気作用の導入――だけであった。これは、微分方程式の形式的特性からほぼ予測されていた改良である。これに関連して私は、ファラデーとマックスウェルのペアが、ガリレオとニュートンのペアと奇妙なほど内的に類似しているというコメントをせずにはいられない。つまり、ファラデーとガリレオは、ものごとの関係を直観的に理解し、マックスウェルとニュートンはそれを正確に定式化し、定量的に応用しているのである。
アインシュタインが二つのペアに見た内的な類似とは、ものごとのの関係の直観的な理解からその正確な定式化・定量的な把握という認識過程であった。
わたしは、2組のペアのそれぞれにアンペールとケプラーをつけ加えた2組のトリオに着目してきた。すなわち、アンペール・ファラデー・マクスウェルのトリオとケプラー・ガリレオ・ニュートンのトリオである。
そして、この2組のトリオは、内的に類似していると考えてきた。すなわち、2組のトリオに、弁証法を見てきたのである。この弁証法は、ヘーゲル弁証法や唯物弁証法ではなく、わたしが提唱している複合論のことである。
アインシュタインが指摘した二つのペアの内的類似を、縦横に拡張するものとしてアインシュタインの弁証法を想定したいと思う。
横への拡張とはペアではなく、それを含むトリオを想定することである。すなわち、アンペール(エールステッド)・ファラデー・マクスウェルのトリオとケプラー・ガリレオ・ニュートンのトリオである。これは、マクスウェルの弁証法とニュートンの弁証法として、すでに提出しているものである。
縦への拡張とは、2組ではなく、3組を想定することである。すなわち、ペアからそれぞれ一人を取りあげ、それにアインシュタインをつけ加えるものである。つまり、3組目のトリオとは、ニュートン・マクスウェル・アインシュタインである。ここにアインシュタインの弁証法を展望したいと思う。
「動いている物体の電気力学」(1905年)(『相対性理論』アインシュタイン/内山龍雄訳 岩波文庫 1988)を理解するには、いくつも乗りこえなければならない局面がある。はじめてこれを読んだとき、さっぱりわからなかったのは、ローレンツ変換を導いていくときに、偏微分方程式が提示してあることだった。それ以前に、物理の教科書や一般向けの解説書で、微分方程式による説明など読んだ記憶がなかった。この微分方程式がわからないのである。
こんど読み直した。やはり、わからない。ここには4つの式がある。1式から2式の移行はわかる。また、3式から4式への移行もわかる。しかし、2式から3式への移行がたどれないのである。ページの中央の2つの式である。
『基礎からの相対性理論』(桂愛景著 サイエンスハウス 1988)を参考にして、やっと理解できた。微分方程式の疑問は解けたが、別の疑問が出てきた。
どうもこの微分方程式は「動いている物体の電気力学」のなかに存在していないかのように扱われていることである。
内山龍雄は、変換公式の導き方について、訳者補注で、次のように述べている。
10.変換公式の導き方について x、y、z、tとξ,η,ζ,τを結ぶ関係式を導くことについて、原論文の説明には少々、説明不足のために理解しにくいところがある。そこで、ここに少し説明を加えて、原論文の推論を繰りかえすことにする。
この補注は、アインシュタインが微分方程式をベースに変換式を導いている箇所につけられているものである。しかし、内山は、微分方程式について、何もふれることなく、説明を加えている。まちがった説明ではないが、原論文の推論の繰りかえしではない。ずれているのである。たとえば、モーツアルトを聞きたいのに、ベートーベンをきかされるといった説明なのである。
また、内山は、まえがきで次のように述べている。
一般に自然科学に関する論文は、それを理解するためには、多くの予備知識が必要である。なかでも物理学の論文を読むには、数学に関する予備知識までも要求される。さらに相対性理論は、特にたくさんの数学的準備を必要とする。ところが、本書にとりあげた相対性理論の第1論文は、この予想に反して、初等数学の知識だけあれば、その基本的な考えが理解できるという、まことに珍しい、そして本書の目指すこと(原論文を「鑑賞」すること――引用者注)にまさに適合した貴重な論文である。アインシュタインの論文はどれでも、大変に簡明で、理解しやすい。しかしこの第1論文は、特にそうである。彼は、初歩的ともいえる、基本的な事項の再検討から出発し、中学生でもわかる初等代数や幾何学を用いて、相対性理論の根幹ともいえる重要な公式を導いている。その説明は、出発点となる前提から、目指す結論に到るまで、両者を結ぶ最短コースをたどって、実に平明な、しかし説得力にあふれた論旨で、読者をゴールまで引きずっていく。この論文は物理学の論文の模範として、それを志す者は必ず一読すべきものであると思う。これは科学論文として最高の傑作であり、その論旨の展開の美しさは芸術作品と称えても、決して過言ではない。
「中学生でもわかる初等代数や幾何学を用いて、相対性理論の根幹ともいえる重要な公式を導いている」。信じられない紹介である。
アインシュタインが、「初歩的ともいえる、基本的な事項の再検討から出発」しているのは事実だが、「中学生でもわかる初等代数や幾何学を用いて、相対性理論の根幹ともいえる重要な公式を導いている」わけでは決してない。事実は、大学生でもわかりにくい微分方程式を用いて、ローレンツ変換の公式を導いているのである。
ローレンツ変換を微分方程式を使って導いたことが、1905年の「動いている物体の電気力学」を特徴づけているのである。
アインシュタインは、これとは違うローレンツ変換の導き方を、『特殊および一般「相対性理論」について』の付記で示している。「ローレンツ変換の簡単な導き方」1918年である。
こちらには微分方程式はなく、初等数学を使って導いている。その意味では簡単な導き方である。それでも中学生にはわからないだろう。高校生なら理解できるかもしれない。
1905年の「動いている物体の電気力学」の導き方は、「ローレンツ変換の難解な導き方」といえるだろうが、アインシュタインは、わざとこの導き方を提示したわけではない。このときは他の選択肢はなかったのである。
しかし、この導き方はこの論文だけでなく、相対性理論からも忘れられていったように思われる。
アインシュタインの2つのローレンツ変換の導き方や教科書・一般向けの解説書の説明を見ていて、わたしは、湯川秀樹の『旅人』を思い出した。
未知の世界を探究する人々は、地図を持たない旅行者である。地図は探究の結果として、できるのである。目的地がどこにあるのか、まだわからない。もちろん、目的地へ向かっての真直ぐな道など、できてはいない。 目の前にあるのは、先人がある所まで切り開いた道だけである。この道を真直ぐに切り開いていけば、目的地に到達できるのか、あるいは途中で、別の方向へ枝道をつけねばならないのか。 「ずいぶんまわり道をしたものだ」 というのは、目的地を見つけた後の話である。後になって、真直ぐな道をつけることは、そんなに困難ではない。まわり道をしながら、そしてまた道を切り開きながら、とにかく目的地までたどりつくことが困難なのである。
ローレンツ変換の導き方が、簡単になるのは、「後になって、真直ぐな道をつける」ことだからである。
アインシュタインが「とにかく目的地まで」たどりついたとき、そこには微分方程式によるローレンツ変換の導き方があったのである。
それを思いついた「時」を、想像してみよう。1922年の京都講演には次のような「ある麗しい日」の記憶が語られている。その日の夜に思いついたと限定できるのではないだろうか。
けれどもこの光速不変は既に私たちの力学で知っている速度合成法則と相容れません。何故にこの二つの事柄はお互いに矛盾するのであろうか。私はここに非常な困難につき当たるのを感じました。私はローレンツの考えをどうにか変更しなければならないことを期待しながら、ほとんど一年ばかり無効な考察に費やさねばなりませんでした。そして私には容易にこの謎が解けないものであることを思わずにはいられませんでした。
ところが[スイスの]ベルンにいた一人の私の友人[ミシェル・ベッソー]が偶然に私を助けてくれました。ある麗しい日でした。私は彼を訪ねてこう話しかけたのです。
「私は近ごろどうしても自分にわからない問題を一つ持っている。今日はお前のところにその戦争を持ち込んで釆たのだ」
と。私はそしていろいろな議論を彼との間に試みました。私はそれによって翻然として悟ることが出来るようになりました。
次の日に私はすぐもう一度彼のもとに行ってそしていきなり言いました。
「ありがとう。私はもう自分の問題をすっかり解釈してしまったよ」
私の解釈というのは、それは実に時間の概念に対するものであったのでした。つまり時間は絶対に定義せられるものではなく、時間と[光]信号速度との間に離すことの出来ない関係があるという事柄です。以前の異常な困難はこれですっかりと解くことが出来たのでした。
この思い付きの後、五週間で今の特殊相対性原理が成り立ったのです。(「如何にして私は相対性理論を創ったか」安孫子誠也著『アインシュタイン相対性理論の誕生』参照)
「時間と[光]信号速度との間に離すことの出来ない関係がある」という解釈の核心は、「時間の同調の定義を表した偏微分方程式」のことだったのではないかと思うのである。
「時間の同調の定義を偏微分方程式に表す」過程をみておこう。
このように詳しく式が書いてあるとありがたい。式の移行をたどることができる。ここでは光の速さはcではなく、Vで表示してある。また、原‐7式とは岩波文庫での2番目の式である。桂愛景は次のように強調している。「一言だけ申し上げれば、本書が多くの数式で満たされ(結果としてむずかしそうな外観を呈し)ているのは、本書をできるだけやさしくしようとする意図によるものだということです」。その通りだと思う。
さて、「動いている物体の電気力学」の原稿を、アインシュタインは棄てているようである。『神は老獪にして…』(アブラハム・パイス著/西島和彦監訳 産業図書1987)に、次のようにある。
1943年の秋、アインシュタインは、当時プリンストン大学の図書館の司書であった、ジュリアン・ボイドの訪問を受けた。ボイドの訪問の目的は、6月論文(「動いている物体の電気力学」のこと――引用者注)の原稿を戦時公債売出しのための寄付として書籍・著者戦時公債委員会へ提供するように、アインシュタインに依頼することであった。アインシュタインは、出版した後で最初の原稿を棄ててしまったと返事をしたが、原文の写しを手書きで書いてもよいと付け加えた。この申し出は喜んで受け入れられた。アインシュタインはこの仕事を1943年11月21日に完成させた。委員会の主催で、この原稿は、1944年2月3日カソザス・シティで、カンザス・シティ女性市民クラブとカンザス・シティ戦時財政委員会の女性部門の後援のもとに、競売に付された。650万ドルでカンザス・シティ生命保険会社が入札を勝ちとった。その折に、アインシュタインとヴァレソティン・バーグマンの‘二重ベクトル場、と題する最初の不完全原稿が500万ドルで競売された。この出来事のすぐ後で、原稿は両方とも国会図書館に寄贈された。
着目したいのは次である。
6月論文の写しがどのようにして生まれたかを、へレン・ドゥカス(アインシュタインの秘書――引用者注)が私に話してくれた。彼女はアインシュタインの隣にすわり、原文を彼に口述したとのことであった。ある箇所で、アインシュタインはペンを置き、へレンの方を向き、そして彼女が口述したばかりのことを本当に自分が言っていたのかとたずねた。そうであることが確認されたとき、アインシュタインは「私はそのことをもっと簡単に言えたはずだ」と言った。
「ある箇所」がどこかは、語られていない。しかし、わたしには、「時間の同調の定義を偏微分方程式に表す」場面だったと思われるのである。
『アインシュタイン相対性理論の誕生』(安孫子誠也著 講談社現代新書 2004)を読んでいて、驚いたことがある。日本語に翻訳されている「自伝ノート」は、アインシュタインの誤記をそのまま踏襲しているというのである。「電磁気学」とあるべき箇所が「熱力学」になっているというのである。次のところである。
このような考察のおかげで、一九〇〇年を少しすぎたころ、すなわち、プランクの画期的な研究のでた直後には、すでに私には、力学と熱力学のどちらもが(限定的な場合を除いて)厳密な正確さを要求しえないものだとわかっていた。(「自伝ノート」金子務編『未知への旅立ち』小学館1991 所収)
アインシュタインの手稿、「自伝ノート」の初版(1949年)、第二版(1951年)では「熱力学」になっている。最初に訂正が施されたのは、1955年のドイツ語版で、その冒頭には、「1949年出版の本の唯一の著者承認版」と記されているという。また、1969年の第三版では「電磁気学」と修正されている。(しかし、その後の版については、安孫子は何も述べていない。わたしも知らない)。
『アインシュタイン相対性理論の誕生』を読んだあとで、わたしは、はじめて「自伝ノート」を読んだ。たしかに、上に引用したように「熱力学」になっているのである。
「はじめに」には、この「自伝ノート」は「ドイツ語原文から新たに訳出したもの」と述べられてはいる。しかし、どの版からとは記されてない。初版だったのだろうか。第三版でなかったことは確かだ。また、訳者の佐藤恵子は、22個の訳註をつけているが、この「熱力学」の部分にはつけていない。また、金子務は高名なアインシュタインの研究者であり、アインシュタインの誤記については知っていたと思われる。しかし、何も述べていない。1979年の生誕100年祭の記念に、英訳は改訳されて単行本としてでていることが紹介されている。この英訳では、「電磁気学」になっているのだろうか、それとも「熱力学」のままなのだろうか。
「熱力学」か「電磁気学」かは、安孫子誠也が強調するように、相対性理論の形成過程を捉えるときに、影響を与える大きな問題である。
少し立ち入ってみよう。さきの引用文は次のようにつづいていく。
このような考察のおかげで、一九〇〇年を少しすぎたころ、すなわち、プランクの画期的な研究のでた直後には、すでに私には、力学と熱力学のどちらもが(限定的な場合を除いて)厳密な正確さを要求しえないものだとわかっていた。しだいに私は、既知の事実に基づいた構成的な努力によって、真の法則を見いだす可能性に絶望していった。長く、そして絶望的に努力すればするほど、ある一般的な形式を備えた原理を見つけることだけが、われわれを確実な結果に導きうるのだろうという確信が深まっていった。手本として私の前にあったのは、熱力学である。熱力学での一般的原理は、次の命題の形で与えられていた。『自然の法則は、「永久機関」(第一種および第二種)をつくることのできない性質をもっている』。
前の方で、「力学」と並べてある「熱力学」は、「厳密な正確さを要求し得ないもの」として、否定的に捉えられている。これに対して、後の方の「熱力学」は、「ある一般的な形式を備えた原理」の手本として、肯定的に捉えられている。一方では「厳密な正確さを要求し得ないもの」として、他方では「手本」として、熱力学の評価は分裂しているようにみえる。この段落だけでも、「熱力学」は異常である。すじが通っていないのである。
この直前の段落でアインシュタインは、次のように述べている。
この結果を得るためには、むしろマックスウェルの理論からは導かれない性質の第二の圧力のゆらぎがあると仮定しなくてはならない。それは、放射エネルギーが、不可分で、点として局在し、エネルギーhν(および運動量hν/c、cは光の速度)をもった量子からできていて、しかもその量子は分割されずに反射される、と仮定するとよくあうのである。この考察が大胆で直接的なやり方で示してくれたことは、プランクの量子には、ある種の直接的な実在性が与えられるにちがいなく、したがって、エネルギー的にみて放射は、一種の分子構造をもつにちがいない、という点だ。もちろんそれは、マックスウェルの理論とは矛盾するものだ。
プランクの熱輻射の公式を説明するには、マックスウェルの理論からは導かれない性質を仮定しなければならないこと、またエネルギー的にみて放射はマックスウェルの理論とは矛盾することを述べているのである。すなわち、プランクの研究に対して、マクスウェルの電磁気学が限界をもっていることを述べているのである。
直前の段落では、熱力学ではなく、電磁気学について述べているのである。この二つの段落を、無意味にならないようにつなげるとすれば、「力学」と並べるのは「熱力学」ではなく、「電磁気学」でなければならないことがわかるのではないだろうか。
すなわち、次のようにである。
このような考察のおかげで、一九〇〇年を少しすぎたころ、すなわち、プランクの画期的な研究のでた直後には、すでに私には、力学と「電磁気学」のどちらもが(限定的な場合を除いて)厳密な正確さを要求しえないものだとわかっていた。
このように考えれば、「ある一般的な形式を備えた原理」の手本としての「熱力学」が生きてくるのである。
安孫子誠也は次のように述べている。
アインシュタインが「熱力学」ではなく「電磁気学」が厳密には正しくないという考えのもとに特殊相対性理論を構築していた、という点は特に強調しておかなければならない。彼は、古典物理学を支える三本の柱のうちで、「力学」と「電磁気学」は捨て去らねばならず、保持し続けられるのは「熱力学」だけだと判断していたのであった。
わたしは、この見解に賛成である。
わたしの複合論からいっても「電磁気学」でなければならないのである。「力学」と「電磁気学」、長くいうと「ニュートン力学」と「マクスウェル電磁気学」は、「選択」されるべき二つの「論理的なもの」だからである。「力学」と「電磁気学」は、克服されるべき「二匹の猿」だからである。
ところで、「熱力学(Thermodynamik)」と「電磁気学(Electrodynamik)」の書き間違いがわかったのは、1949年の出版直後のようである。安孫子氏の問い合わせにたいする文書保管人バーバラ・ヴォルフ(ヘブライ大学アインシュタイン文書館)による答。
一九四九年に「自伝ノート」が出版されたとき、誰かが(私たちはそれが誰か分かりません)いくつかの誤りを見出し、ヘレン・デュカス[アインシュタインの秘書]がアインシュタインの本に訂正を書き込みました(写真a、b)。私たちはデュカスの筆跡を見分けられるばかりでなく、アインシュタインの本に訂正を書き込んだと説明している彼女の手紙すら所持しています。……さらに、彼女は「訂正表」(写真c)をタイプしました(日付はありませんが一九四九年の出版直後と思われます)。
写真aは、アインシュタインの手稿で、「熱力学(Thermodynamik)」と書かれている。写真bは、初版に記入された訂正である。デュカスの筆跡で、「Thermo」が「Electro」に訂正されている。写真cは、「自伝ノート」に対する訂正表である。52ページのところに Electrodynamik instead of Thermodynamik. AE made mistake in ms. とタイプされている。
もう半世紀以上経っているのだ。どうして、日本語の「自伝ノート」は、「熱力学」のままなのだろうか。なにか深い事情があるのだろうか。
ニュートン力学の形成に関する武谷三段階論は知っていた。しかし、相対性理論の形成過程について武谷が三段階論を提出していたということは知らなかった。今年になって、『アインシュタイン相対性理論の誕生』(安孫子誠也著 講談社現代新書 2004)のなかで、はじめて知ったのである。
武谷三男は、科学理論の発達における「武谷の三段階論」を定式化した人物として有名である。それによると、プランクの熱輻射論は現象論の段階、アインシュタインの光量子論は実体論の段階、特殊相対性理論は本質論の段階に相当すると述べている。
武谷三男は、自然を科学的に認識していく過程には、次のような質の異なった三つの段階があるという考え方を提示した。
ニュートン力学が形成された過程でいえば、観測結果を蓄積したティコ・ブラエの段階が現象論的段階、法則性を洞察したケプラーとガリレイの段階が実体論的段階、天上の法則と地上の法則を統一したニュートンの段階が本質論的段階である。
武谷の関心は量子力学にあり、素粒子論の研究を進めていく科学方法論として三段階論は構想された。素粒子論の研究段階は実体論から本質論への移行を模索しているのではないかという武谷の直観がはじまりだったと思う。その判断を確定しようとして、武谷は、ニュートン力学の形成過程を反省した。
ニュートン力学の形成についての三段階論は、「ニュートン力学について」(『弁証法の諸問題』所収)のなかで明確に展開してあるものである。しかし、相対性理論の形成過程での三段階論は、独立の論文としてではなく、『量子力学の形成と論理T』(1948年)で述べられている次のような展開を整理したものと思われる。
量子力学の形成についても同様である。熱輻射のエネルギー分布やスペクトル法則のような現象論的知識が単なる経験の記述として整理されて量子力学が出来たのではなく、実体的な光粒子や電子、原子構造の認識が確立されてはじめて量子力学が形成されたのである。原子模型の決定は原子物理学史上重要な一段階である。これは原子核物理学についていうと1930年から最近に至る十数年の段階に相当するものである。 またこれを相対性理論の発展ということから見ても重要な問題であって、弾性エーテルという実体的な観念が19世紀初めに提出され、様々の矛盾をうみながら、これが一方において原子構造に、他方において光量子という、より明確な実体が定立されることによって、解消して初めて相対性理論という本質論的段階に達したのであった。
相対性理論の形成についての武谷三段階論は、詳しい分析にもとづいて提出されているといえるのだろうか。わたしにはそのようにはみえない。また、わたしには、この三段階論は、きわめて窮屈な見方になっているように思われる。アインシュタインはプランクの熱輻射論をきっかけに、光量子を想定した。しかし、アインシュタインは光量子という実体をもとにして相対性理論の「本質論的段階」を形成したのではないように思われる。
武谷が、プランクの熱輻射論を現象論的段階・アインシュタインの光量子論を実体論的段階と捉えている過程を、アインシュタイの「自伝ノート」と対応させれば、次のところになるだろう。
このような考察のおかげで、一九〇〇年を少しすぎたころ、すなわち、プランクの画期的な研究のでた直後には、すでに私には、「力学」と「電磁気学」のどちらもが(限定的な場合を除いて)厳密な正確さを要求しえないものだとわかっていた。
プランクの熱輻射論が契機になったことには違いはない。しかし、1900―1905年の間で、相対性理論の形成にとって大事なことは、光量子という明確な実体が定立されたことではなく、「厳密な正確さを要求しえないもの」として「力学」と「電磁気学」が捉えられたことではないだろうか。相対性理論は、実体論的段階が本質論的段階に移行することによってではなく、この「力学」と「電磁気学」が「複合」されることによって、形成されるのである。
さて、相対性理論の形成に関する武谷の理解に立ち入ってみることにしよう。その特徴は、「エーテルの否定は光量子論で最初に行われたのであり、特殊相対性理論とはエーテルに立脚しない運動学だった」(安孫子誠也)というところにあると思われる。
光量子論をアインシュタインが書いたのは1905年の3月であり、特殊相対性理論の入り口の論文「運動物体の電気力学について」を書いたのは同年の6月である。この前後関係は単なる偶然ではないと考えねばならない。実際アインシュタインはマイケルソン−モーレーの実験からだけエーテルを棄てたのではなくて、光量子論の立場からエーテルを棄てたのだといわねばならない理由がある。……アインシュタインはそのはじめの論文においてすでに古典電磁気論と光量子とは鋭く対立するものであることを述べている。すなわち、その論文においてエーテルの振動などという考えで光を考えてはいない。それゆえ我々はアインシュタインによるエーテルの否定は、その相対性理論の論文によって最初になされたのではなく、その光量子論の論文において最初になされたといわねばならないのである。こうしてエーテルという媒質が積極的に否定された以上、新たにエーテルに拠所をもたない運動学を築く必要が起こったということができよう。(『量子力学の形成と論理T』)
わたしは以前に、ニュートン力学の形成過程を、複合論の立場から展開した。こんどは、相対性理論の形成過程について、三段階論とは異なった認識過程を提出しようと思う。
アインシュタインは「自伝ノート」のなかで、認識論的な信条を次のように述べている。
私の一方には感覚的体験の総体があり、他方には書物に書き記された概念や命題の総体がある。概念と命題の相互の関係は、論理的な性格をもつものである。論理的に考えることが許されるのは、論理学で扱われる明確に規定された規則に従って概念と命題相互の結び付きを確立する場合だけである。概念と命題は、感覚的体験に関連づけられることをとおしてのみ、「意味」もしくは「内容」を得るのだ。感覚的体験と概念、命題の結び付きは、まったく直観的なものであり、それ自体けっして論理的性質のものではない。内容のない空想を科学的「真実」から分かつのは、どの程度の確実さで、このような関係ないし直観的結び付きが行なわれるかであり、それ以外の何物でもない。概念の体系は、それを構成する統語論的な規則をも含めて、人間の創造したものである。概念体系は、それ自体論理的にはまったく任意ではあるが、感覚的体験の総体に、出来るかぎり確実な(直観的な)、完全な秩序を与えるという目的によって制限を受けている。また第二に、概念体系は、論理的に独立した要素(基本的概念や公理)、すなわち定義されない概念や推論できない命題をできるかぎり含まないようにしなければならない。
アインシュタインの認識論的信条を要約すれば、「感覚的体験の総体」と「概念と命題の総体」の間を、「直観」と「論理」が媒介する、といえばよいのではないだろうか。ここには二つの対照がある。一つは「感覚的体験の総体」と「概念と命題の総体」、もう一つは「直観」と「論理」である。この二つの対照の間にアインシュタインの認識論が構成されている。アインシュタインの信条を次のように箇条書きしておこう。
信条1から5はアインシュタインの認識論の輪郭である。信条1では、感覚的体験の総体と概念や命題の総体を対照している。2では、概念の体系は、人間の創造物であることを強調している。信条3では、概念と命題は感覚的体験と関連づけられて、はじめて意味を持つことを述べている。信条4と5は、概念体系の成立条件のようなものである。体系が何によって制限されているかを述べている。信条4では、概念の体系の外側である感覚的体験からの制限、信条5では概念体系の内側である論理的に独立した要素(基本的概念や公理)からの制限である。
信条6から9は認識論を構成する要素についての注釈である。信条6と7では「論理」が強調されている。信条8では、感覚的体験の総体と概念や命題の総体との関係は、直観的なものであり、論理的なものではないことが強調されている。信条9は、科学的な認識と前科学的な認識の違いは、程度のちがいであることが強調されている。
信条4と5では、概念体系の成立条件が述べられているが、補充しておこう。アインシュタインは「自伝ノート」の他のところで、ある科学理論を批判し、新しい理論をつくるときの観点(基準)を二つ想定している。一つは「外的実証性」、もう一つは「内的完全性」に関わるものである。
第一の観点は、明白なことで、すなわち、理論は経験事実と矛盾してはならないということである。この要請は一見、あまりに当たり前に思えるものの、その適用はきわめて微妙になる。なぜなら、理論の基盤に、人為的に仮定を付け加えて事実にあうようにしたものを、普遍的な基盤だと固執することは、しばしば起こるからである。いや、むしろひょっとすると常に起こりうるものといってもよいだろう。だが、いずれにせよ、この第一の観点は、実際にある経験データを使って理論の基盤を実証することに関わっている。
二番目の観点は、観測データヘの関係に関わるのではなく、理論の前提そのもの、すなわち前提(基本概念やそれらの間の基礎的関係のことであるが)の「自然さ」とか「論理的単純性」とかいう、簡潔ではあるが明瞭ではない言葉であらわされるものに関わっている。このように、正確に表現することのきわめてむずかしい観点ではあるが、昔から理論を選択したり、評価したりする際に重要な役割を果たしてきたものだ。ここでたいせつなのは、単に、論理的に独立性をもつ前提(もしそのようなものがそもそも一義的に可能であったらの話であるが)を数えあげるようなことではなく、むしろ同一尺度でははかれない性質を相互に比較考量することなのである。さらに、同じように「単純な」基盤をもつ理論のうちでは、系自体に備わった性質をもっとも強く限定している(すなわち、もっとも明確な命題を含む)ものが、優れているとみなされるのである。
第一の観点が「外的実証性」、第二の観点が「内的完全性」である。G・ホルトンは「よい理論の判定基準」のTとして「外からの検証」、Uとして「内における完成」を挙げている(「科学理論の形成に関するアインシュタインのモデル」『アインシュタイン』所収 岩波書店 2005年)。「外的実証性」と「外からの検証」、また「内的完全性」と「内における完成」は同じものである。
「外的実証性」(「外からの検証」)は、信条4に対応するとみることができる。また、「内的完全性」(「内における完成」)は、信条5に対応するものである。
ホルトンによると、アインシュタインは科学の哲学(認識論)について、物理の仕事と並行して、切れ目なく考察しているという。
アインシュタインの全文章を通じ、一つの基本的主題がきわだっていて、彼は繰りかえしそこに立ち返っている。科学的思考のモデル、さらに広く思考一般のモデルである。『自伝ノート』の冒頭の部分の核心をなしているのも、このモデルにほかならない。私は別の文章でこの部分を分析した。しかし、彼のモデルの最も簡潔で、かつ視覚的な表出は、一九五二年に友人モーリス・ソロヴィーヌにあてた手紙に見られる。表現のすっきりした巧みさと、複雑で深遠な思想を要約するうまさとを兼ねそなえたこの手紙は、アインシュタインのすべての手紙のうちでも、独特のものであるとつねづね私は考えてきた。(G・ホルトン「科学理論の形成に関するアインシュタインのモデル」『アインシュタイン』所収 岩波書店 2005年)
アインシュタインの認識論的信条と思考モデルの関係を考えておこう。
ソロヴィーヌはアインシュタインに手紙で次のような質問したという。
あまり明瞭とはいえない一節を的確に説明してもらえませんか。あなたは書いている――体系の正当性(真理内容)は、体系から導かれる諸定理の有用性が、感官経験をもとにして証明されることにある。ただし、経験と体系の関係は直観的に了解できるのみである……」。
ソロヴィーヌの質問は、『自伝ノート』の認識論的信条そのものに関するものではないようである。しかし、その質問内容は「自伝ノート」と関連している。すなわち、「概念と命題は、感覚的体験に関連づけられることをとおしてのみ、「意味」もしくは「内容」を得るのだ。感覚的体験と概念、命題の結び付きは、まったく直観的なものであり、それ自体けっして論理的性質のものではない」と正確に対応していると思う。
ホルトンは、さきの質問の後、「ソロヴィーヌは当惑していると告げ、いくつかの疑問を呈した」とのべているが、その内容については、ふれていない。
それに対するアインシュタインの答は次のようなものである。
認識論上の疑問については、君は私を根本的に誤解しています。恐らく、私の言い表し方が悪かったのでしょう。私のものの見方は、図式的には、次のようになります。
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(1)E(じかの経験)が我々に与えられる。
(2)Aは公理系であり、我々がそれから結論を引き出すものである。心理学的にはAはEに依存している。しかし我々をEからAに導く論理的経路は存在しない。そこにはただ直感的(心理的)なつながりがあるだけであり、それも、いつも単に″おって知らせがあるまで″のつながりである。
(3)Aからは、論理的経路によって厳密な形で、特定の命題Sが演繹される。
(4)SはEと関係づけられる(つまり経験によってテストされる)。この過程もまた論理のほかの(直感的)領域に属する。というのもSに現れる概念と直接経験Eとの間の関連は、本質的に論理的なものではないからである。 しかし、このSとEの間の関係は実際のところAのEに対する関係に比べれば、はるかに確かなものである(例えば、″犬″という概念と対応する直接経験)。
実際、たとえ論理的ではないにしても、対応が非常に確かなものとして得られないならば、論理学的道具立ても、″現実の理解″にとってはなんの価値もない(例えば神学)。
事の核心は常に、思考世界と経験世界の(直接の感覚経験)とのおぼつかない結び付きにあります。
おそらくソロヴィーヌは「体系の正当性(真理内容)は、体系から導かれる諸定理の有用性が、感官経験をもとにして証明されることにある」というアインシュタインに賛同しつつも、アインシュタイの但し書き「ただし、経験と体系の関係は直観的に了解できるのみである」に当惑したのではないだろうか。強調していえば、経験から体系への過程は直観的に了解できるのみであるが、体系から経験への過程はもっと確実なもので、論理的なものではないかと疑問を呈したのではないだろうか。
わたしはソロヴィーヌの手紙を読んでいないので、これは憶測である。しかし、アインシュタインによって、ソロビーヌは誤解していると指摘されていること、そして、「恐らく、私の言い表し方が悪かった」と反省していること、また、(2)ではなく(4)に比重がかかっていることから、この憶測があたっている可能性はあるのではないだろうか。
いずれにせよ、このアインシュタインの手紙によって、「認識論的信条」は明晰になっていると思う。
1 A(公理系)を導入することによって、E―矢印―AとA―実線―Sの二つの過程に分離し、前の過程に「直観(直感)」を位置づけ、後の過程に「論理」を位置づけることが可能になっている。
2 感覚的体験の総体と概念や命題の総体の関係は、「まったく直観的なものであり、それ自体けっして論理的性質のものではない」が、その場所が二箇所あることが明確になっている。概念の体系への入り口(E―矢印―A)と概念体系からの出口(S―E)である。
信条8の「概念、命題」は、「直観(直感)」と「論理」が複合されたものだが、直観だけに照明があたり、論理は影になっていたのである。あるいは、アインシュタインは信条8の「概念、命題」を「公理系」のつもりで書いたのかもしれない。正確なところは分からないが、「自伝ノート」では、直観と論理の関係はあいまいになっていて、信条6と7と8はうまくかみ合っていないのである。
A(公理系)の導入によって、信条6と7と8が整合し、直観と論理の関係が明確になっていると思う。
ドイツ語はすっかり忘れてしまったので恐縮するが、訳文について、いくつか述べさせてもらう。わかりにくいところがあるのである。手紙の引用は、「アインシュタインロマン2 考える+翔ぶ」(NHKアインシュタイン・プロジェクト著 日本放送出版協会 1991年)からのものである。(2)の最後に、「それも、いつも単に″おって知らせがあるまで″のつながりである」とある。ここの「おって知らせがあるまで」がよくわからなかった。
ホルトン「科学理論の形成に関するアインシュタインのモデル」には次のようにある。
2 Aは公理で、これからわれわれはいろいろな結論をひきだす。心理的にはAはEを基礎にする。しかし、EからAを導く論理的な道というものは存在しない。存在するのは直観的(心理的)なつながりだけで、これはいつでも″取りかえ″がきく。
「取りかえ」なら、よくわかる。
また、(4)の「実際、たとえ論理的ではないにしても、対応が非常に確かなものとして得られないならば、論理学的道具立ても、″現実の理解″にとってはなんの価値もない(例えば神学)。」も前半が、わかりにくい。
ホルトンには次のようにある。
この関係づけの手続きが(論理的には行なえないとしても)高い信頼度をもって実行できないと、 論理の全機構は、“実在の把握”になんの意義ももたなくなってしまうだろう(例――神学)。
こちらなら、分かりやすい。
反対に、(4)の最後、「事の核心は常に、思考世界と経験世界の(直接の感覚経験)とのおぼつかない結び付きにあります。」は、よくわかる。しかし、ホルトンの方は分かりにくい。
核心は考えの中にあるものと体験できるもの(感官経験)との関係という永遠の問題である。
翻訳するときにも、調子がいいときと悪いときがあるようである。
さて、ホルトンはアインシュタインの図式は、何サイクルにもわたり累進的に改善されていくと考えている。
図1は動きのない図式ではなく、すでに注意しておいたように、EからJASをへて、Eに戻る循環運動をあらわしている(ホルトンは図1で弧とか上昇とか飛躍とよばれた軌跡をJと記している。―引用者注)。しかし、このサイクルを一度まわるだけで、理論の創造とテストがすんでしまうことはまずない。そもそも、日常生活の指針とするような理論でさえ、ましてや、確立された科学理論にいたっては、すべて何サイクルにもわたる累進的な改善の成果である。過去の研究や論争できたえられた道具として、われわれはこれをうけつぎ、改造してゆく。一つのサイクルのデータによって、つぎのサイクルを少しかえてゆくのである。さらに、もとの適用領域をはみだすような新現象が見つかるにつれ、この成長と修正の過程は続けられるだろう。物理はたえざる「進化の状態にある……。進化は論理的な基盤の単純性を強める方向にすすむ」
ホルトンは、アインシュタインの図式を踏まえて、科学の発展のいろいろな場面を説明している。
図2は、図式C1 がもとの形で、S〃 はEと合わない。そこでAをA+αにかえて、図式C2 となる。SとEの対応がよりうまくゆくように、Aに新たに持ちこんだ要素がαということになる。例えば、エーテルの流れの実験で予想された効果が出ないことを説明するため、長さの短縮が導入される。
図2(理論の移行1)
また、下図は、理論の初期の段階から、次の段階への移行を図式的に示している。例えば、特殊相対性理論から一般相対性理論への移行である。
理論の移行2
このような図を見ていると、アインシュタインの図式に、二つの基準を書き込んだらよいのではないかという気になってくる。アインシュタインの図式は、「認識論的信条」より正確になっているところもある。しかし、逆に「認識論的信条」で指摘されていた概念体系成立の制限が隠れていて、あいまいになっているところもあるのである。
二つの基準とは、「外的実証性」(「外からの検証」)と「内的完全性」(「内における完成」)のことである。
図の縦方向に、「内的完全性」(「内における完成」)の軸をおこう。そして、横方向に「外的実証性」(「外からの検証」)の軸を想定しよう。
すなわち次のようである。
アインシュタインの思考図式と2つの基準
この図に、アインシュタインの認識論の核心は表現されると思う。
アインシュタインの思考モデルに2つの基準を書き入れることによって、アインシュタインの認識論を表現した。2つの基準とは、「外的実証性」(「外からの検証」)と「内的完全性」(「内における完成」)のことだった。
アインシュタインの思考モデルと2つの基準
2つの基準について、確認しておこう。
「外的実証性」(「外からの検証」)とは、「実際にある経験データを使って理論の基盤を実証すること」に関わっている。
「内的完全性」(「内における完成」)とは、「昔から理論を選択したり、評価したりする際に重要な役割を果たしてきたもの」で、「理論の前提そのもの」の「自然さ」とか「論理的単純性」に関わっている。たとえば、プトレマイオス理論ではなく、コペルニクスの理論を選ぶときに感じられるものである。
ホルトンは次のように述べている。
「外からの検証」の基準のほかに、理論の魅力をましたりへらしたりする要素があるのだろうか?答はアインシュタインによる理論批判の第二の判定基準の形で与えられている。彼はそれを「内における完成」の基準とよぶ。これはEJASE過程の上部構造JASの選択にかかわる。特定の場合に、理論の諸要素が一義的である保証はないという話を思いだそう。同じ経験資料をもとにして、異なるJASをもつまったく異なる理論がつくられ、そのうえ、この二組のSと感官経験との対応も同じ程度によいということが起こりうるのである。最も有名な例は、いうまでもなく、一六世紀のプトレマイオス理論とコペルニクス理論である。基礎にとる公理はまったく異なるが、二つの理論はともに、同じEつまり天体運動の観測に見られる規則性と例外とを説明する必要から生れ、どちらの理論の予言も観測値とほぼ同じ程度の対応性をもつ。(「科学理論の形成に関するアインシュタインのモデル」『アインシュタイン』所収 岩波書店 2005年)
「内的完全性」(「内における完成」)とは、「外的実証性」(「外からの検証」)の程度がまったく同じ場合でも、二つの理論を区別するものである。その中心にあるのは、「同一尺度でははかれない性質を相互に比較考量すること」である。いいかえれば「内的完全性」(「内における完成」)とは、理論の「審美性」に関わっているものである。
さて、アインシュタインは、よい理論かどうかを判定する2つの基準の存在を確信している一方で、それを表現しきれていないことを告白している。
前の二つの段落で述べたこと(外的実証性と内的完全性についての説明――引用者注)には明確さが欠けているが、これは十分な紙面がとれないからだ、などという言い訳をしようとは思わない。むしろ、ここで私は、この大まかに示したものを明確な定義に置き換えることは簡単にはできないかもしれない、いやひょっとしたら、まったくできないかもしれないと思っているのだと正直にいっておきたい。しかし、これをより明確に表現することならば可能であろうかと思われる。いずれにせよ、「事に通じた者たち」 の間では、理論の「内的完全性」の判定に関しては一応の合意ができており、「外的実証性」の程度に関してはいっそう一致していることは、はっきりしている。
可能性にかけてみよう。アインシュタインの2つの基準を「より明確に表現する」試みとして、2つの基準を「自己表出と指示表出」に置き換えることにする。すなわち、「自己表出」に「内的完全性」(「内における完成」)を対応させる。また、「指示表出」に「外的実証性」(「外からの検証」)を対応させてみるのである。
いいかえれば、2つの基準を「自己表出と指示表出」に包摂する。
これまで、わたしは自己表出に同一性と必然性という意味を想定してきた。これに「内的完全性」(「内における完成」)を付け加えて、自己表出(同一性と必然性)を高度化する。また、指示表出には、これまで、差異性と偶然性という意味を持たせてきた。これに「外的実証性」(「外からの検証」)を付け加えて、指示表出(差異性と偶然性)を拡張する。
「自己表出と指示表出」は、認識の形成過程を描くために、導入したものである。言語の自己表出と指示表出を基礎にしている。(吉本隆明『言語にとって美とはなにか』)
「自己表出と指示表出」に、「論理的なもの」(認識)のもつ「同一性(永続性や普遍性)と差異性(時代性や個別性)」を対応させた。これが第一歩である。
次に、「自己表出と指示表出」に「必然性と偶然性」を対応させた。
第一歩は、時代とともに、自己表出が高度化し指示表出が拡大して対象領域が広がっていく図――「ある時代の社会の認識水準」(「ある時代の社会の言語水準」)の推移の図と対応させることができる。(吉本隆明『言語にとって美とはなにか』)
ある時代の社会の認識水準
第二歩は、様相性の第二の体系を改訂した図に対応させることができる。この図は、「理論的実存」が「偶然性を内面化」するときの、偶然性・可能性・必然性・現実性の関係を表すものである。(九鬼周造『偶然性の問題』)
「自己表出と指示表出」と様相性の関係
第三歩は、アインシュタインの認識論の核心として描いた図の2つの軸――「外的実証性」(「外からの検証」)と「内的完全性」(「内における完成」)を、そっくりそのまま「指示表出と自己表出」に置き換えた図に対応させることができる。アインシュタインの認識論の可能性をわたしなりに継承するのである。これが、複合論が立脚する認識論である。
複合論が立脚する認識論
「自己表出と指示表出」の上に展開される「EJASE過程」は、「理論的実存」による「偶然の内面化」である。この結果は「ある時代の社会の認識水準」に反映されていく。
牧野紀之の「弁証法の弁証法的理解」(『労働と社会』鶏鳴出版 1972 所収)を読んでいた。
知ることと認識することの違いが指摘されていた。知るということは、「たんに客観的なある事実を意識の中へとりこんだということである。」これに対して認識するということは、次のように述べられていた。
すなわち、ある事実が知られたとき、そこにとどまらないで、その事実の根拠、必然性を追求しはじめるとき、なぜそうなのかと問いはじめるとき、そこに認識が、科学がはじまると(ヘーゲルは――引用者注)いうのである。しかし、これはまだ始まりにすぎない。科学は、その始まりからどうすすんでいくのか。実に、ヘーゲルの真の発見は、この追求されている必然性には二種類あることに気づき、それを外的必然性と内的必然性とした上で、それぞれの意義と両者の関係とをのべたところにあるのである。
外的必然性とはなにか。へ−ゲルはいう。「偶然性は、外的必然性とおなじく、それ自体たんに外的事情にすぎない諸原因に帰着する必然性のことである。」つまり、外的必然性とは偶然性のことである。
そして、偶然性・可能性・根拠について簡潔な指摘が続き、これらの様相性と「悟性と理性」の関係が次のように述べられていたのである。
要するに、外的必然性、偶然性、可能性、根拠といったものは、どれも、みな、同じ一つの事態を別々の角度からみたものにすぎないのである。ヘーゲルはこれらの立場で考える能力を悟性とよんだ。それは有限な思考ともよばれている。悟性にもその意義がある。有限な事物には、有限な認識しかありえないし、真の無限は有限をふくむものだからである。しかし、それは無限なものには無力である。それでは、無限な認識能力とはどういうものなのだろうか。
へ−ゲルはその無限な認識能力を理性とよんだ。それもやはり認識である以上、必然性を追求する。しかし、それはもはやかの外的必然性ではない。それは内的必然性とされている。
内的必然性とはなにか。ヘーゲルはこたえる。「真の内的必然性は自由である」 自由とは、ヘーゲルにあっては、自己自身によって規定されるのみで、自己外のものに依存しないことであった。
「弁証法の弁証法的理解」をいまはじめて読んだわけではない。2006年ころに一度読んでいる。そのときは、なにも響いてこなかった。
しかし、いまはとても貴重なものとして、響いてきたのである。
○ 2種類の必然性、外的必然性と内的必然性。
○「外的必然性(偶然性)と悟性の対応」と「内的必然性(必然性)と理性の対応」。
おそらく、「2つの基準の包摂」のなかで、図〈「自己表出と指示表出」と様相性の関係〉 を取りあげたことが影響していたのだろう。
九鬼周造が示した「様相性の第2の体系」は、ヘーゲルの様相性の把握をよく保存しているのであった。
様相性の第2の体系
それに反して、第二の体系の立場に立って、現実を動的に見るならば、現実は言明的のものでなく問題的のものと考えられる。現実は厚味を有ったものである。問題を孕んでいる。問題は展開されなければならぬ。従って先の図形にあって可能と偶然とを結ぶ問題性を起点としてつかむのである。言明性が自己の自明を失って問題性に転化したのである。さて、偶然性は非存在の可能を意味する限り、存在に位置を占めながらも非存在に根ざしているものである。可能性は存在の可能を意味する限り、非存在に位置を占めながらも存在へ向かっているものである。そうして現実は可能性と偶然性によって構成されている限り、存在と非存在の二契機をその厚味の中に含んで常に問題を展開させている。ヘーゲルによれば可能性は内的のものであり、偶然性は外的のものである。そうして現実性は「内的のものと外的のものとの同一性」にはかならない。内的現実性としての可能性は本質性であり、外的現実性としての偶然性は直接者である。抽象的可能性が直接的現実性に作用し、直接的現実性が抽象的可能性に作用するとき、換言すれば内的のものが外的のものへ、外的のものが内的のものへ直接的自己転置をするとき、そこに現実的可能性が生じて必然性へ展開するのである。必然性とは「展開した現実性」にほかならない。 (九鬼周造『偶然性の問題・文芸論』 燈影社 2000年)
わたしは必然性を自己表出に対応させていた。また、偶然性に指示表出を対応させていた。
「自己表出と指示表出」と様相性
この図のなかの「自己表出(必然性)」と「指示表出(偶然性)」が、「外的必然性(偶然性)と悟性の対応」と「内的必然性(必然性)と理性の対応」とに結びついたのである。
いいかえれば、必然性が核となって自己表出と理性が結びつき、偶然性が核となって指示表出と悟性が結びついたのである。
指示表出の根拠は悟性である。また、自己表出の根拠は理性である。これは、わたしには、大きな発見のように思われる。
図に悟性と理性を書き込んでおこう。
表出のなかの悟性と理性
牧野紀之は『小論理学』(鶏鳴出版 1989年)の79節を次のように訳している。
論理的なもの〔論理的思考〕は形式の面から見ると三つの側面をもっている。つまり、@抽象的な側面、すなわち悟性の側面、A弁証法的な側面、すなわち否定的理性の側面、B思弁的な側面、すなわち肯定的理性の側面、である。
特徴は「論理的なもの」に「論理的思考」を並記していることである。松村一人訳にはなかったものである(「岩波文庫」)。そして牧野は「論理的なもの」に次のような注を付けている。
この「論理的なもの」とは何かを考えるには、その対概念は何かを考えてみるとよい。「論理的なもの」 の対概念は一般的には「歴史的なもの」が考えられるが、こういう対比では何も明らかにならない。次に、「論理的なもの」を論理学ととると、その対概念として自然哲学や精神哲学といった応用論理学が考えられるが、この対比でも何も出てこない。我々は、この「論理的なもの」の対に「経験的なもの」=「ダス・エンピーリッシェ」を考えてみたが、すると、この「論理的なもの」は認識主体の中の感覚と区別され対比された思考となる。
牧野は「論理的なもの」の対概念に、「経験的なもの」=「ダス・エンピーリッシェ」を想定する。「論理的なもの」は、認識主体の中の感覚とは区別され対比された思考だと指摘している。
これは魅力的な対比ではないだろうか。わたしには、アインシュタインの思考図式が思い浮かんだ。すなわち、「EJASE過程」である。「論理的なもの」を「JAS過程」、「経験的なもの」を「E」と考えればよいと思えたのである。すなわち、「論理的なもの」と「経験的なもの」との対照は、アインシュタインの思考モデルの「JAS過程」と「E」の対照と対応すると思われたのである。もちろん、ここでいう「論理的なもの」とは、わたしが複合論で想定しているもので、牧野が想定しているものとは違っている。しかし、〈「論理的なもの」は、認識主体の中の感覚とは区別され対比された思考〉という意味では、同じと考えられる。
「論理的なもの」の違いをはっきりさせておこう。
牧野紀之の注は次のようにつづいていく。
つまり、この三契機は思考の三契機になると考えられるが、実際には悟性的思考にはABの契機はない。だから、この「論理的なもの」は思考一般ではなく、論理的・思弁的思考のことではなかろうか。もっともこの場合の思考とは、ヘーゲルでは、単に人間の主観の働きだけでなく、客観界にある働きも含むと考えられている。
わかりにくい展開である。「だから」の移行がわからない。どうして、悟性的思考に理性的側面(ABの契機)がないことが、「論理的なもの」を思考一般ではなく、論理的・思弁的思考を指すことになるのだろうか。しかも、「論理的・思弁的思考」とはなんだろう。「論理的」と「思弁的」を並記する理由があるのだろうか。
「論理的なもの」は、「思考一般」(認識主体の中の感覚とは区別され対比された)、「論理的思考」でいいのではないだろうか。
牧野紀之は、ヘーゲルのいう「思考」は「単に人間の主観の働きだけでなく、客観界にある働きも含むと考えられている」と述べている。おそらく、牧野が考える「思考」は、「客観界にある働き」を含めず、「人間の主観の働き」だけに限定されているだろう。これはわたしとの共通点である。
しかし、牧野は「論理的なもの」の三側面の規定(思考の三契機)を踏襲している。これは相違点である。
わたしの場合は、「論理的なもの」は、三側面ではなく二側面をもっていると想定している。
論理的なもの〔論理的思考〕は形式の面から見ると二つの側面をもっている。つまり、@指示表出、すなわち悟性の側面、A自己表出、すなわち理性の側面、である。
ヘーゲルの三側面の規定と関連づけていえば、@指示表出、すなわち悟性の側面は、「@抽象的な側面、すなわち悟性の側面」と対応する。またA自己表出、すなわち理性の側面は、「A弁証法的な側面、すなわち否定的理性の側面、B思弁的な側面、すなわち肯定的理性の側面」を複合したものと対応する。
「論理的なもの」をアインシュタインの認識論のなかに確認しておこう。
「論理的なもの」とアインシュタインの認識論
わたしは複合論(弁証法の新しい理論)を、ポパーが示した問題解決図式に位置づけている。 ( 「弁証法試論」第5章)
ポパーの図式は、次のようなものだった。
P1―TT―EE―P2
ここでP1(problem1)は問題状況を表し、TT(tentative theory)は提案される問題解決案や理論を表している。そして、EE(error elimination)は、案や理論に対するエラー排除の過程である。そして、P2(problem2)は新しい問題状況である。
弁証法は、P1(problem1)とTT(tentative theory)の間にある。これがわたしの立場であった。排除の過程は弁証法とは関係なく、複合論も、ポパーの試行錯誤の理論と同じように、不十分な見解(TT)は反駁され排除されると主張したのである。
弁証法はTTを形成する方法に関連するのである。もちろん、TTのすべてが弁証法によって提出されるわけではない。弁証法は、問題解決の一つの方法で、対話をモデルにした思考方法というのが、わたしが主張であった。
このポパーの図式とアインシュタインの思考モデルは対応するだろう。
アインシュタインの思考モデル(図1)
図1の図式はつぎに、アインシュタインが認識論において、おそらく最も執拗に主張している考え方を示す段取りになる。観察されたものEの混沌のすこし上の領域から始まり、弧を描いた矢印が、全図式の最上部に達している。これはいろいろな機会に、大胆な飛躍、「きわめて投機的な試み」とか、「手さぐりの構成的な試み」とか、あるいは、他の道を見つけだす望みを失ったときの絶望的な提案とかいっているものを象徴する。無限平面Eのずっと上のところには、丸が一つあって、ここには「A、公理系」とある。この丸は矢印のついた弧の先から、ちょうど、昇りきった花火がぱっと開いたようにとびだしている。アインシュタインの説明はこうである。
2 Aは公理で、これからわれわれはいろいろな結論をひきだす。心理的にはAはEを基礎にする。しかし、EからAを導く論理的な道というものは存在しない。存在するのは直観的(心理的)なつながりだけで、これはいつでも″取りかえ″がきく。
ポパーの図式において、P1(problem1)とTT(tentative theory)の過程は、空白になっている。しかし、アインシュタインの思考図式においては、この過程は空白ではない。
ホルトンの説明を聞こう。
ここで、これまで手をつけないでおいた重要な問題点を、あらためてとりあげなければならない。問題はつぎのように立てられる――−図1の図式の出発点をなすEからAへの飛躍は、論理的に不連続であり、想像力の「自由な遊び」の表現であるから、そうして、この飛躍は結果として数限りないAをつくりだすのだから(もっとも、その大多数は、やがて、理論体系の形成には何の役にも立たないとわかるだろうが)、飛躍の成功の要因として、偶然のほかに、いったい何が期待できるのであろうか? J過程における自由とは、飛躍を行なうことが許されているのであり、どんな飛躍でも勝手に行なってよいわけではない、というあたりに答があるに違いない。公理体系はやがて、アインシュタインのいうよい理論の第二の判定基準にあうかどうかをみるために、自然性とか単純性のテストにかけられるのだから、その点だけからいっても、Jを導き方向づける何かがなければならない。
この場合の主な導き手は、新しい分野で大きな仕事をする科学者に、例外なく働きかける束縛力である。つまり、明示的な(より多くの場合には暗示的な)好み、先入観、前提条件のもたらす制約である。
「Jを導き方向づける何か」、「例外なく働きかける束縛力」。弁証法はその一つであると考えている。
1905年の時点で、光に粒子と波の二重性を見ることができる。光量子と光速度一定の原理を結びつけることによって、光を粒子と波に二重化できるのである。この光像はアインシュタインが意識的に描こうとしたものではない。アインシュタインが無意識のうちに捉えていたものである。この像は、相対論成立をめぐる武谷三男の見解と広重徹の見解を止揚する試みのなかから生まれてきたものである。光量子と対(ペア)の光速度一定の原理は「運動学」の基礎ではなく、存在の二重性(粒子性と波動性)の基礎という意味をもっている。
目次
相対性理論の成立をめぐる武谷三男と広重徹の論争は、安孫子誠也『アインシュタイン相対性理論の誕生』で、はじめて知った。この論争を自分の問題として考察してみようと思った。
関連する文献を並べてみると、次のようである。
文献は、武谷三男『量子力学の形成と論理T」(1と6)、武谷三男『科学入門』(3)、広重徹『相対論の形成 広重徹科学史論文集1』(2と4と5と7)、西尾成子編『アインシュタイン研究』(5と8)にあるものである。
ここでは、エーテル問題を背景とした光量子論と特殊相対性理論の関係に着目して、前半(1と2と3と4)の論争を検討する。そして、二人の見解の止揚を試みる。後半(5と6と7と8)は別の機会にやる予定である。
まず、論争の発端となった二人の見解を確認しておく。
A 武谷三男
『量子力学の形成と論理T』(1948年)より。引用中の括弧()は、原文にはなく後の説明のために、引用者がつけたものである。また表記を現代的に改めている。
この両理論の前後関係はまことに興味のあるところである。光量子理論をアインシュタインが書いたのは1905年の3月であり、特殊相対性理論の入り口の論文「運動物体の電気力学について」を書いたのは同年の6月である。この前後関係は単なる偶然ではないと考えねばならない。
実際アインシュタインはマイケルソン−モーレーの実験からだけエーテルを棄てたのではなくて、光量子論の立場からエーテルを棄てたのだといわねばならない理由がある。すなわち光量子論では先にのべたようにニュートンの光粒子説のような考えをアインシュタインは心にえがいていた。(これは当時までの考えすなわち光をエーテルの弾性波だとする考えとまったく異なり、それとは互いに相容れない考え方である。光をエーテルの振動とする考え方では、アインシュタインが行ったように光をガス分子のように扱ってこれに運動論を適用することはできない。また、アインシュタインはそのはじめの論文においてすでに古典電磁気論と光量子とは鋭く対立するものであることを述べている。)すなわち、その論文においてエーテルの振動などという考えで光を考えてはいない。それゆえ我々はアインシュタインによるエーテルの否定は、その相対性理論の論文によって最初になされたのではなく、その光量子論の論文において最初になされたといわねばならないのである。
こうしてエーテルという媒質が積極的に否定された以上、新たにエーテルにより所をもたない運動学を築く必要が起こったということができよう。すなわちマッハ的経験論がいうように、ただ観測されないエーテルを排止するという消極的な観点からではなかったことである。
(物体内における光、電磁場の性質のために考えられたエーテルの部分が、最初ローレンツの電子論によって、原子論というさらに明確な実体とその運動とに解消されてしまった。これでエーテルの矛盾の一つは除かれた。しかし)真空中の光、電磁場のための絶対静止のエーテル(が残されていたが、これ)も、より明確な光量子という実体とその運動に解消されてしまったのである。
B 広重徹
「特殊相対性理論成立の要因」(1960年)(『相対論の形成 広重徹科学史論文集1』所収)より。
広重徹は、武谷の見解を引用した後、次のように述べている。ただし、上で示した括弧の部分は省略して……で示している。
しかしこの説明も、エーテルを捨てることが相対性理論のキー・ポイントだとしている点では、本質的には伝統的説明の枠内にある。さらに、ここに引用した文章のおわりの部分からは、光量子という実体のkinematicsが特殊相対論であるというふうに受けとれるが、はたしてそうであるのか。むしろ、そのままでは光量子は相対論ときびしく矛盾するものであった。なぜなら、特殊相対論はその物理的内容からいって、“連続な”電磁場のkinematicsであったから、両者の一応の統一は量子力学の成立以後にもちこされねばならなかったのである。
筆者の見解では、物理学の論理的構造からいっても、当時の物理学の歴史的状況からいっても、特殊相対論成立のキー・ポイントはエーテルを捨てるか捨てないかというようなところにはなかった。一方では電磁場の物理的内容を明らかにすること、他方では物理学の理論構成の枠としての時間・空間をその物理的内容からとらえ直すこと、この2つの要因の相互作用が特殊相対論を生みだしたのである。
以上が、二人の見解である。わたしは、1905年の光に、粒子性と波動性を想定する。そして、この光像のなかに、武谷三男と広重徹の相対論成立をめぐる見解は止揚されると考える。
相対論の成立過程に関する武谷三男と広重徹の見解を確認しておこう。武谷三男の見解の特徴は、次の2点であった。
武谷三男は次の2点を強調していた。ひとつは、「アインシュタインによるエーテルの否定は、その相対性理論の論文によって最初になされたのではなく、その光量子論の論文において最初になされた」こと。もうひとつは、「エーテルという媒質が積極的に否定された以上、新たにエーテルにより所をもたない運動学を築く必要が起こった」ことである。
武谷は、自説を補強するために、アインシュタインの1909年の論文「輻射の本質および構成についての我々の観点の発展」を取りあげている。(『量子力学の形成と論理T』1948年)
今日しかしエーテル仮定は克服された思想だと見なければならない。輻射に関して、諸事実が拡大された。これらの事実は、波動論の立場からつかまれるよりも、むしろニュートンの光の放射説の立場からつかまれる方がよいような基本性質を、光に対して付与すべきことを示している。
エーテルを否定すると、光を構成する電磁気の場は、もはや仮説的な媒質の状態としてではなく、ニュートンの光の放射説によるとちょうど同じように光源から発射される独自の存在(Gebilde)としてあらわれる。こうして光も走っておらず、物体も存在しない空間は実際に何もない空間である。」と言っているが、これはエーテルの否定と光粒子説とが互いに関係した考え方であることを示すものである。
他方、広重徹の見解の特徴は、次の2点であった。
広重徹は次の2点を強調していた。ひとつは、武谷の見解は「エーテルを捨てることが相対性理論のキー・ポイントだとしている点では、本質的には伝統的説明の枠内にある」ことである。もうひとつは、「光量子は相対論ときびしく矛盾するものであった。なぜなら、特殊相対論はその物理的内容からいって、“連続な”電磁場のkinematicsであったから、両者の一応の統一は量子力学の成立以後にもちこされねばならなかった」ことである。
そして、広重徹は自説を補強するために、エーテル概念の変質を指摘している。
ここで、武谷説がほとんど注意を払っていないにもかかわらず、見落すことのできない本質的な事情が存在する。それは、マクスウェルからローレンツに至るあいだのエーテル概念の変質である。
私が以前に述べたように、マクスウェルにあっては、電磁場とはつねに物質に担われてのみ存在する、いわば物質の特殊な状態であった。そしてエーテルも物質の一種であった。ところでローレンツのなによりの功績は、独立の実在としての電磁場を物質から切り離してとりだしたところにあった。したがって、ローレンツの絶対静止のエーテルは、一方では絶対的な基準系としての意味をまだ残しつつも、その物理的内容においては、物質とは独立の実在である電磁場そのもののことであった。たんに光波の媒体にすぎないエーテルならば、武谷のいうように、光が粒子だということになればあっさり棄てることもできよう。しかし、電磁場そのものであるところのローレンツのエーテルは、電磁場を完全に否定するのでないかぎり、そう簡単に投げ捨ててしまうわけにはいかないのである。むしろ問題のかなめは、電磁場であるところのエーテルにふさわしいkinematicsを確立すること、したがって、旧来の時間・空間概念の変更が必要とされたということにあった。
武谷三男の相対論は「光量子の運動学」、広重徹の相対論は「電磁場=エーテルの運動学」と特徴づけてよいだろう。武谷は光量子論によってエーテルは否定されたと考えるのだから、彼の相対論は「光量子の運動学」である。広重は光量子と相対論を分離し、エーテル問題は相対論の形成過程において中心ではないと考えるのだから、エーテルは保存され、彼の相対論は「電磁場=エーテルの運動学」である。
広重徹は、マックスウェルからローレンツに至るあいだのエーテル概念の変質を指摘し、「ローレンツのエーテルは、電磁場を完全に否定するのでないかぎり、そう簡単に投げ捨ててしまうわけにはいかない」ことを理由に、武谷説を批判した。しかし、そこではローレンツからアインシュタインに至るあいだのエーテル概念の変質についてはふれられていない。後者の変質では、「あっさり棄てること」ができるような事態になっているようにみえる。
広重徹は「世紀交代期における電磁理論」のなかで次のように述べている。
電子論がもっとも信頼できる理論として広く受けいれられるのとほぼ時を同じくして、力学的実体としてのエーテルという観点も影がうすくなる。ローレンツはエーテルに電磁場の seat という役割のみを与えて、その力学的性格をまったくなくしてしまった。これはかれの静止エーテルの仮説から要請されることであったが、同時に、エーテルの非力学化が静止エーテルの仮説を可能にしたともいえよう。両者は内的に密接に関連しあっている。エーテルが力学的性格を失ったことは、さらに徹底した見解をもよび起こした。ポアンカレは、エーテルを“便利な仮説”の位置にまで引きおろし、いつかは無用のものとして捨てられるだろうとさえ予想した。そしてコーンは、エーテルなどというものをとくに導入する必要はないといい、ドルーデは、エーテルは実体でなく、ある物理的性質をもった空間のことにすぎないと言うのである。こうして、1900〜1901年頃になって、こんにちわれわれが電磁場について抱くのとほぼ同じ見解が確立されたといってよい。
これは武谷説を批判する根拠が崩れているようにわたしにはみえる。しかし、広重はそのようには考えてはいない。むしろ、彼は「電磁場=エーテルの運動学」という見解を確認しているのである。広重は次のように続けている。
エーテルの力学的実体性がこれだけ稀薄になったことによって、アインシュタインの相対論の生まれる基盤がととのった。もっとも、アインシュタインは、本論文で扱ったような電気力学の展開を克明に follow していたとはみえない。しかし、かれにとってはローレンツの静止エーテルだけで十分であった。かれはこの仮説のなかに“運動しないということが(エーテルに)残された唯一の力学的性質”だということを看取した。アインシュタインのやったことは、この唯一の力学的性質たる絶対静止を捨てて、静止も運動もない電磁的なエーテル観を完成させたことであった。逆に、電磁的なエーテル観を徹底させようとしたことが、エーテルから絶対静止という力学的性質をうばったのだともいえよう。電磁理論に対する相対性原理の要請は、この基盤の上になされたのである。
「アインシュタインのやったこと」は、「静止も運動もない電磁的なエーテル観を完成させたこと」? どうしてエーテルが残るのだろうか。 エーテルの放棄ではだめなのだろうか。
武谷が取りあげた1909年の論文「輻射の本質および構成についての我々の観点の発展」を広重がどのように捉えているのか気になった。武谷説は説得的に思えたからである。広重徹は「1900年前後のエーテル」のなかで次のように述べていた。
アインシュタインは1905年の相対論の最初の論文の序論で、相対性原理と光速度一定の原理とを仮定すれば、静止物体に対するマクスウェルの理論を拡張して簡単で矛盾のない運動物体の電気力学をつくりあげるのに十分であり、エーテルというような媒質は不要になる、と述べている。また1909年の「輻射の本質と構成についての我々の見解の発展」という論文では、相対性原理を受けいれるならば、エーテルに対する関係によって静止系を定めることはそもそも全く不自然であり、したがって、エーテル仮説を捨ててのみ満足な理論に達することができる、と主張している。そしてさらに、このようにエーテルを捨てれば、“光を構成する電磁場はもはや仮説的な媒質の状態でなく、光源からニュートン(T・Newton)の光の放射説におけるようにして送り出される自立した形象selbstandige Gebildeとして現われる”と述べている。これらのアインシュタインの言明について注意すべきことは、相対性原理を要請することが考えの展開の出発点であるということである。武谷氏がかつて主張したように、まず光の粒子性の認識があり、それからエーテルは不要と結論し、そこで相対性原理が導入されるという筋書ではない。アインシュタインの議論は、武谷氏のいうのとはちょうど正反対の向きに進められている。
特徴的なのは、アインシュタインの議論の順序を根拠にして、相対性原理の要請が出発点でありエーテルの否定はその帰結にすぎないことを注意している点である。すなわち、武谷は「光の粒子性の認識→エーテルの否定→相対性原理の導入」という筋書きを描いたが、アインシュタインの議論は「相対性原理の導入→エーテルの否定」の順序で、武谷と正反対の向きであることを強調している。
このように順序が逆であると指摘することによって、自説を補充し武谷説を批判しているのである。しかし、これは批判にはならないのではないだろうか。
なぜなら、広重徹は論文の展開の仕方を述べているにすぎないからである。武谷の場合でも、論文として仕上げるときは、相対性原理の導入→エーテルの否定の順序となると考えられるのである。
下向的分析・上向的総合という考え方がある。マルクスが『経済学批判序説』で述べたもので、研究過程と叙述過程を区別する考え方である。下向の過程では、認識する対象の混沌とした表象を出発点として、立ち入った規定を試みることによって、分析的により単純な諸規定を得る。上向の過程では、下向過程の結果を出発点として、多くの規定と関連をもつ総体として対象を把握する。
アインシュタインの議論は論理的に整理されたものである。つまり、上向の過程である。それはそのまま探究の過程を表現しているわけではない。
武谷三男の指摘は下向過程に対してのものではないだろうか。これに対して、広重徹は上向の過程である。正反対になる可能性はあり、批判する理由にはならないのである。むしろ、広重徹が、アインシュタインの議論を、そのままアインシュタインの発想の順序と考え、武谷説を否定していることが、間違っているのである。もちろん、下向の過程において、「相対性原理の導入→エーテルの否定」という順序だった可能性はある。しかし、それは「(光の粒子性の認識→)エーテルの否定→相対性原理の導入」という順序を排除するものではないのである。
アインシュタインの思考図式(G・ホルトンの図示)を利用してしておけば、次のようになる。Eは経験、Aは公理、Sは命題を表わしている。Jは飛躍である。
EJA過程は上昇する曲線だが、こちらが下向過程で、武谷の「光の粒子性の認識→エーテルの否定→相対性原理の導入」は、この過程に位置づく。AS過程は下降する直線だが、こちらが上向過程で、広重の「相対性原理の導入→エーテルの否定」は、この過程に位置づく。
広重徹が着目しているのはASの過程である。ここでアインシュタインは「相対性原理の導入→エーテルの否定」で進めている。しかし、武谷三男が着目としているのは、EJAの過程である。「光の粒子性の認識→エーテルの否定→相対性原理の導入」を主張している。
EJAの過程では、武谷の「光の粒子性の認識→エーテルの否定→相対性原理の導入」も、広重の「相対性原理の導入→エーテルの否定」も、どちらも可能性がある。2つの相反する過程が並行して進行していったと見るのが現実的ではないだろうか。すなわち、「エーテルの否定→相対性原理の導入」でもなく、また「相対性原理の導入→エーテルの否定」でもなく、セットになった「相対性原理の導入とエーテルの否定」が、 an sich(即自)から an und für sich (即自かつ対自)」へと進行していったと考えるべきだと思う。
EJA過程においてエーテルの否定という要素は不可欠である。しかし、広重はこれを避けている。それゆえ、その分だけ広重が想定するEJA過程においては、マッハの影響が強調されているのではないだろうか。
広重は次のように述べている。
これまでに述べてきたような歴史の客観的状況およびアインシュタインの主観的状況からすれば エーテルを捨てることが特殊相対論成立のキー・ポイントであったというこれまでの通念は否定されなければならない。時空概念の意識的な変更こそが、特殊相対論成立の決定的な契機であったと結論されるであろう。問題の年1905年の5月頃にアインシュタインが親友のハビヒトにあてて、自分の最近の研究題目を知らせた手紙のなかで、光量子論、分子の大きさの決定法、ブラウン運動の理論とあげてきて、“第4の研究は、いま計画中のもので、空間・時間の概念の変更を利用した運動物体の電気力学です”と述べていることは、うえの結論を裏づける同時代史料として注目すべきであろう。“エーテルの放棄”ではなくて、“空間・時間の概念の変更”なのである。
相対性理論成立のいきさつが以上のようであったとすれは、マッハの『力学』の歴史的意義の大きさを、このさいあらためて評価しなおす必要がある。とくに日本では、マッハのこの本はその認識論的な立場だけが問題にされて、その物理的内容、とくに19世紀末から20世紀初頭にかけての物理学の歴史的状況のなかで、この書物が物理学の発展ときりむすんだ関係の具体的究明はほとんどなされていない、そのような取り扱いは、科学史としては偏頗なものといわねばならない。
マッハの影響を強調することは間違ってはいない。しかし、「空間・時間の概念の変更」に限定する必要はないと思われる。広重は一つだけ選択している。〈「エーテルの放棄」ではなくて、「空間・時間の概念の変更」なのである〉。しかし、「エーテルの放棄」と「空間・時間の概念の変更」との両方を選択することは可能であり、その方が現実的であると思う。
武谷は「量子力学の形成と論理T」のなかで、「アインシュタインはマイケルソン−モーレーの実験からだけエーテルを棄てたのではなくて、光量子論の立場からエーテルを棄てたのだといわねばならない理由がある」と述べた。G・ホルトンや広重徹が主張しているように(『アンイシュタイン研究』参照)、マイケルソン−モーレーの実験はアインシュタインの発想にほとんど影響を与えていない。その意味では、この武谷の指摘の前半は、通説にしたがっている分だけ、間違っている。しかし、アインシュタインがエーテルを捨てたことまで間違ってはいないのである。
広重徹は、武谷の光量子論と特殊相対論の関係をエーテル問題を契機に否定した。
前節までに私は、相対性理論成立のキー・ポイントはエーテルを捨てることではなかったということを示した。したがって、実証主義的な立場がエーテルの放棄を可能にし、そのおかげで相対性理論ができたという説明で実証主義を称揚するのは、明らかに歴史上の事実に反するといわねばならない。また、光量子論はエーテルを捨てさせるという働きを通して相対性理論の成立に貢献したという武谷説も、同様の理由で維持されがたい。
広重は続けている。
しかし、だからといって私はアインシュタインの頭のなかで光量子論と相対論とが互いに無関係に併存していたと主張するわけではない。
この後、広重はアインシュタインが光量子論と相対論について述べた箇所を、2つ引用している。一つは、『自伝ノート』からである。安孫子誠也が「熱力学」ではなく「電磁気学」であると指摘したパラグラフ(1947年)。ちなみに、広重は、「力学も電磁気学も」ではなく、「力学も熱力学(極限の場合をのぞいて)」と引用している。
もう一つは、アインシュタインがカール・ゼーリッヒに答えた言葉である(1955年)。こちらは引用しておこう。「ローレンツ不変性がすべての物理理論にたいして一般的な条件を与えるであろうということも新しい認識であった。このことは私にとってとくに重要であった。というのは、私はすでに以前から、マクスウェル理論は放射の微細構造を表現せず、したがって普遍杓には保持できないということを認めていたからである。」
広重は、武谷とは違った光量子論と相対論の関係を模索したと思われる。しかし、アインシュタインの証言を指摘するだけに終わっている。光量子論と相対論の関係を展開しきれなかったのである。西尾成子は『相対論の形成 広重徹科学史論文集1』の解説のなかで、次のように述べていた。
この論文(「特殊相対性理論成立の要因」――引用者注)のおわりに、アインシュタイン自身は光量子説と相対論(=電磁場理論の完成)の矛盾をどう考えていたか、それが彼の以後の研究にどう反映したか、それらを明らかにする研究が必要であると書かれている。この問題は、ずっと広重氏の頭を離れなかったが、結局最後までとりくまれることはなかった。
おそらく、とりくんでもうまくいかなかったのではないだろうか。エーテルの放棄を相対論成立の要因から外し、空間・時間の概念の変更だけに限定することは、片方の手だけで拍手をしようとするようなものだからである。武谷説を「同様の理由」(相対性理論成立のキー・ポイントはエーテルを捨てることではなかったということ)で切り捨てた代償は大きかったのである。
さて、相対論の形成をめぐる武谷―広重の見解を検討するのと並行して、わたし自身の立場を模索してきた。
わたしの複合論と相性がいいのは、M・クラインの見解である(「アインシュタインの科学革命観」『アインシュタイン研究』所収)。クラインは「自伝ノート」でのアインシュタインの自己評価は、初期の論文を直接読んで得られる印象と一致していると述べている。わたしは「自伝ノート」をアインシュタインの発想を探る基礎にしているから、このような指摘はそれだけで勇気づけられる。2箇所引用する。1は「自伝ノート」におけるローレンツ電子論の位置づけとそれをクラインがどのように見ているかを述べている箇所である。2はそれを踏まえた光量子論と特殊相対論の関係の指摘である。
1
だが事態はそう簡単にはうまくいかなかった。アインシュタインが指摘したように、「場の導入によって始まったこの革命は、どのような策を講じても完成することはなかった」。電磁場理論では、物質粒子とその質量を説明することができなかったからである。この時期に最も大きな成功を収めたのは、力学的概念と電磁気的概念をともに同等の資格で必要とし、かつ利用したローレンツの電子論であった。ローレンツの理論は、ニュートンの方程式に従う粒子とマクスウェルの方程式に従う場を用いるとともに、それらの果たす本質的な役割を明確に分離した。電子論の有する明快さこそ(マクスウェルによる最初の定式化と比較しての)は、アインシュタインが物理学の基礎にひそむ「心を困惑させる二元論」(disturbing dualism )と名づけたものを強調するのに役立った。 わたしがこれまで引用してきた「自伝的覚書」で、アインシュタインは、物理学者としての彼自身の成長にとって、この不完全な革命がどれだけ重要な意味をもっていたかを強調した。彼はこの「心を困惑する二元論」が提起した問題を、彼自身の問題として受けとめた。こうして、物理学の基礎を統一し、それによってファラデーとマクスウェルによって始められた革命を成就しようとする努力が、彼の生涯を支配することになった。自分の業績に対するこのような態度について回顧的に説明したアインシュタインの言葉は、この中心的な問題について論じた彼の初期の論文を直接読んで得られる印象と完全に合致している。
2
これら二つの論文(物理学に光量子仮説と特殊相対性理論を導入した二つの論文のこと――引用者注)はともに、物理学の基礎にひそむ、あの心を困惑させる二元論に対する彼の関心から生まれたものである。両論文とも、本来、彼のこの関心が、形式的により美しい理論とか論理においてより経済的な理論への希求にもとづくものではなかったことを証明している。それは、むしろ、物理学におけるいくつかの最も深刻な未解決の問題が、力学と電磁気学という二つの異質な基本理論の非両立性に由来するものであるというアインシュタインの認識から生まれたものであった。これらの二つの理論は統合されねばならなかった。光量子仮説と特殊相対性理論はともに、この非両立性という問題に対するアインシュタインの部分的な解答であったのである。
「力学と電磁気学という二つの異質な基本理論の非両立性」、「心を困惑させる二元論」。光量子仮説では、粒子と波である。特殊相対性理論では、ガリレオの相対性原理とマクスウェルの理論が決めてしまう光速度cである。この二元論の統合。
このように二元を統合する試みとして光量子論と特殊相対性理論の関係をつかむことが、わたし自身が求めていた立場だったように思う。この立場からみていくと、二つの理論を分離する広重徹の見解だけでなく、エーテルでつなぐ武谷三男の見解も否定的なものに映るようになってきた。そして、両者とは違った見解を対置したいと思うようになったきた。
広重徹は、武谷が特殊相対論を「光量子という実体のkinematics(運動学)」と捉えていると考え、それに疑問を投げかけた。そして1905年の時点では、光量子論は相対論ときびしく矛盾するもので、特殊相対論は「“連続な”電磁場のkinematics(運動学)」であると捉えた。たしかに、広重の指摘のとおり、「両者の一応の統一は量子力学の成立以後にもちこされねばならなかったのである」。光量子( Lichtquant)は、光子(Photon)に成ることによって、はじめて統一された。
しかし、1905年の時点で、統一への手がかりはないのだろうか。
二人に光がどのように映っているかを検討しておこう。
武谷三男の頭のなかに走っている光は粒子である。
アインシュタインは、1900年にマックス・プランクが見いだした量子論の考え方を光にあてはめ、光は粒だとして理論をつくりあげ、光の現象を説明することに成功したのです。アインシュタインは光の粒が、ちょうど気体の分子のようにとびまわっている、いわば「光の気体」についての理論を展開して、光の本質を明らかにしたのでした。 こうなりますと、光はエーテルの振動だという考えは成り立たなくなってしまいます。宇宙空間は、エーテルで満たされているということはなくなり、ほんとの何もない真空になり、その真空を光の粒が飛んでいることになります。(「アインシュタインが相対性原理を発見するまで」『科学入門』所収)
他方、広重徹の頭のなかに走っている光は波である。
伝統的な時間・空間概念の変更ということは、じつは電磁場理論の根本的な要請である物理作用の有限速度による伝達ということからも要求されるものである。なぜなら、従来のままの時間・空間概念を保持するならば、適当な基準系をとることによって作用の伝達速度をどのような値にでも、無限大(つまり瞬間的伝達)にでもすることができるからである。アインシュタインはこのことを16歳の時以来1つのパラドックスとして気づいていた。そのパラドックスとは、光の放射を光速度cで追っかけたすると、どのような現象が観測されるかということである。ふつうの考え方をすると、その光は静止して空間的にのみ振動している電磁場として観測されねばなせない。しかしアインシュタインには、“そのような観測者が、すべては、地球に対して静止している観測者に対するのと同じ法則にしたがって生起すると判定するにちがいないことは、はじめから直観的に明らかなように思われた”。(「特殊相対性理論成立の要因」『相対論の形成 広重徹科学史論文集1』所収)
武谷の光は真空中を飛ぶ粒子である。広重の光は電磁的エーテルの波である。アインシュタインはといえば、粒子と波の間に引き裂かれたまま、波の像から粒子像(1909年の論文「輻射の本質および構成についての我々の観点の発展」)への移行過程にあったのである。
アインシュタインは1905年の時点において光は粒子であるとは言いきっていないようである。和田純夫の説明を見ておこう(『アインシュタイン26歳の奇蹟の三大業績』)。
ここでは(1905年の論文「発見法的観点からみた光の生成と転換について」(3月)――引用者注)アインシュタインは、電磁波が、気体と同様に粒子の集団である、とまでは主張しているわけではない。電磁波のなかでのエネルギー配分法をの場合の数を考えたとき、エネルギーは勝手に配分できるのではなく、hν単位で配分しなければならない、と主張しているのである。
アインシュタインは次第に光量子の背後には粒子があるという信念をもつようになった。1919年の手紙には、「私はまだこの確信に関して孤立していますが、放射量子の〈実在〉についてもはや疑いをもちません」と書いている。
アインシュタインは1905年の論文「運動物体の電気力学」(6月)において、エーテルを放棄した。光はどのようになったのだろうか。和田純夫は『アインシュタイン26歳の奇蹟の三大業績』)のなかで、次のように述べている。
エーテルがないとしたら、では光は何の波なのか。それとも何の波でもないのか。その疑問にはアインシュタインは具体的には答えていないが、相対論は、光そのものを何らかの実体と見なすという発想と相性がいい。彼はこの論文の数か月前に光量子仮説の論文を書いており、新しい光像に向かって一歩を踏み出している。
和田純夫が思い描く光像は、武谷三男の像によく似ているのではないだろうか。
「アプリオリな綜合」とは、バシュラールが『新しい科学的精神』(関根克彦訳)のなかで、ド・ブロイの物質波の発想を形容した言葉である。前後を含めて、引用しておこう。
だから、われわれにはこう思える。科学の一つの対象が消失しそれに代わって新しい実在性が確立されるまでの中間期には、非実在論的思考が生まれる余地がある、と。この思考は、自分自身の運動を支えとしている思考である。束の間の瞬間だ、と人は言うだろう。この中間期は、それを科学の周期とくらべるとき、すなわち知識の獲得から始まってそれが定着し、説明され、教えられるまでの年月とくらべるとき、ほとんど数えるに足りない短さである。しかしながら、この短い発見の瞬間こそ、科学的思考の決定的な転回をとらえるべき時なのである。これらの瞬間を教育のなかで復原してこそ、ダイナミックで弁証法的な科学的精神が育成できる。突然実験上の矛盾があらわになったり、公理の明証性にたいして懐疑が生まれるのも、このときである。また、あのアプリオリな綜合が実在を二重化しにやって来るのも、あの急激な思考の逆転が生じるのも、このときである。ルイ・ド・ブロイ氏の天才的な綜合が前者の例であり、アインシュタインの等価原理は、後者の最も明瞭な例の一つである。
実在の二重化とは、粒子と波動の二重性のことである。アインシュタインは波と考えられてきた光に粒子性をみた。反対に、ド・ブロイは、粒子と考えられていた電子に波動性をみたのである。「質点はもはや、空間のごく小さな領域にしか関心をもたない静的な存在とは考えられない。そうではなくて、自分をとりまく全領域にひろがった周期的現象の、中心と考えるべきものである」(ド・ブロイ「量子の新しい動力学」)。
わたしは、1905年の時点で、光には粒子と波の二重性が見られると考える。光量子論と光速度一定の原理を結びつけることによって、光を粒子と波に二重化するのである。
ここで示す光像はアインシュタインが意識的に描こうとしたものではない。1905年の時点において、アインシュタインが無意識のうちに把握していた光像として、わたしが構成するものである。この像は、相対論成立をめぐる武谷三男の見解と広重徹の見解を止揚する意義をもっていると考えている。
この光像が生まれたきっかけは、M・クラインのエーテルについての解説だった。
論文「運動物体の電気力学について」では、アインシュタインは、力学と場の理論の非両立性から生じるもう一つの問題を論じたが、そこでははなはだ異なるアプローチがとられた。マクスウェルの電磁気学においては、さらにはローレンツによってすっきりと整理された理論においてすらも、光エーテルの存在が仮定されていた。これは本来、電磁気的な現象がそのなかで生じる媒体として、とくに電磁波がその発生源の速度とは無関係な速度cで伝播する媒体として、考え出されたものであった。ローレンツの理論でも、エーテルは唯一の優先座標系として、相変わらず存在していた。そのため、一七世紀にすでにはっきりと理解されていた古典力学の相対性原理が、電磁場理論では成り立たなかった。この理論から、エーテル内で静止している観測者と、エーテル内で一様な速度で運動している観測者とを区別させるはずのさまざまな効果が予言されたが、これらの効果は一つとして観測されなかった。つまり光の速度は、媒質中を伝播する波動に期待されるように、理論的にはその発生源の速度と無関係であったのに対して、電磁的な現象は、実際には相対性原理と両立していたのである。アインシュタインはこの見かけの矛盾を、彼の相対論の最初の理論によって解決した。彼は熱力学をモデルとして、新しい原理の理論を創りあげることによって、それを解決したのである。熱力学が、本質的には永久運動機関の存在を許さないようにするためには、自然法則はどのように制限されねばならないか、という問いかけに対する解答であったのとまったく同様に、新理論たる特殊相対性理論は、特権的な観測者の存在を許さないようにするためには、自然法則はどのように制限されねばならないか、という問いかけに対する解答であった。アインシュタインのこの難問解決への鍵は、「時間が疑わしい」ことを認識したあとで彼の行なった、同時性に関する新たな分析にあった。
これまで、いくつかエーテルの説明を見てきたと思う。しかし、これほど、光速度一定の原理をほうふつさせる説明はなかったように思う。エーテルは「本来、電磁気的な現象がそのなかで生じる媒体として、とくに電磁波がその発生源の速度とは無関係な速度cで伝播する媒体として、考え出されたものであった」。くぎづけになった。
媒体としてのエーテルを否定して、なにもないところに、光速度一定の原理を要請する。そうするだけで、波動性は保存されるのではないだろうか。波と考えられていた光に粒子性を付け加えて二重化するのではない。これでは、エーテルを引きずる可能性がある。このような二重化ではない。ド・ブロイと方向は同じである。粒子に波動性を付け加えて二重化するのである。アインシュタインの「アプリオリな綜合」である。ド・ブロイの波動性は、電子の周期的運動から導かれた。ここでは波動性は、光速度の一定の原理から導かれる。エーテルを否定して、光量子を真空中に走らせる。その光量子に光速度一定の原理を想定するのである。光量子を光速度一定の原理で制約するのである。光量子という粒子は、その発生源の速度とは無関係な速度cで伝播する。いいかえれば、光は粒子と波動に二重化される。
光速度一定の原理は、エーテル理論を止揚し、光の波動性を保存しているのである。
光速度一定の原理は、相対論成立をめぐる武谷三男と広重徹の論争を止揚する中心に位置づいているのである。
クラインは、光量子仮説と特殊相対性理論は物理学の基礎にひそむ「心を困惑させる二元論」を克服する試みであると指摘した。1905年において、成功したのは、特殊相対性理論である。ガリレオの相対性原理とマクスウェルの理論が決めてしまう光速度cの二元は、相対性原理と光速度一定の原理となり、ローレンツ変換が導かれることによって、統合された。
一方、光量子論の方は、波としての光に粒子の可能性が指摘されるのにとどまった。粒子と波の二元は統合されなかったのである。
わたしは光量子論の光量子と特殊相対性理論の光速度一定の原理を結びつけることによって、1905年において光には粒子と波の二重性が見られることを指摘した。このアインシュタインが無意識のうちに捉えていた光像には、粒子と波の二元が統合されているのである。
光量子論と特殊相対性理論は、それぞれが「心を困惑させる二元論」を克服する試みである。わたしは光量子論の光量子と特殊相対性理論の光速度一定の原理を結合することによって、心を困惑させる二元論の止揚を試みるアインシュタインのもうひとつの姿を描いたのである。
「相対性原理」と対の「光速度一定の原理」は、アインシュタインが意識的に述べたもので、「運動学」の基礎になっているものである。そして、これまで、光速度一定の原理はこの方面だけが強調されてきたのではないだろうか。
「光量子」と対の「光速度一定の原理」は、「運動学」の基礎とは異なった意味をもっている。それは、存在の二重性(粒子性と波動性)の基礎として考えられるのである。
わたしは「論理的なもの」の構造として自己表出と指示表出を想定している。これは、言語の自己表出と指示表出(吉本隆明『言語にとって美とはなにか』)を手本としたもので、わたしなりに鍛えつづけているものである。
自分なりに進展したのではないかと考えているのは、次の3点においてである。
1 九鬼周造の『偶然性の問題』を契機にして、表出論と様相性の関係をつかんだこと。(弁証法と「偶然性の内面化」 ) 一言でいえば、自己表出と必然性、指示表出と偶然性を対応させたことである。
2 表出論とアインシュタインの思考モデルを対応させたこと。(アインシュタインの思考モデルと2つの基準・2つの基準の包摂) 一言でいえば、自己表出と「内的完全性」(「内における完成」)、指示表出と「外的実証性」(「外からの検証」)を対応させたことである。
3 『言語にとって美とはなにか』における「自己表出」の導入に、疑問を提出したこと。(表出論の形成と複合論 ) 吉本は「人間が何かを言わねばならないまでにいたった現実的な与件とその与件にうながされて自発的に言語を表出することとのあいだに存在する千里の径庭」を「言語の自己表出」と想定したが、「言語の自己表出」ではなく「言語の表出」が妥当ではないかと考えたことである。そして、この表出が自己表出と指示表出に二重化していると想定したことである。このように想定すれば、「ある時代の社会の言語水準」の展開と整合させることができるように思えたのである。
吉本隆明は次のように述べていた。ここで、「ある時代の社会の言語水準」の説明のなかに、「言語の本質の対自と対他の側面」という表現が出てくる。言語の本質の対自と対他の側面とは、それぞれ「言語の自己表出と指示表出」をさしている。すなわち、言語の本質の対自の側面とは自己表出を意味している。そして、言語本質の対他の側面とは指示表出をさしている。
ある時代の社会の言語水準は、ふたつの面からかんがえられる。言語は自己表出性において、わたしたちの意識の構造にある強さをあたえるから、各時代がもっている意識構造は言語が発生した時代からの急げきなまたゆるやかな累積そのものにほかならず、また、逆にある時代の言語は、意識の自己表出のつみかさなりをふくんでそれぞれの時代を生きるのである。しかし、指示表出としての言語は、あきらかにその時代の社会、生産体系、人間の諸関係そこからうみだされる幻想によって規定されるし、強いていえば、言語を表出する個々の人間の幼児から死までの個々の環境によっても決定的に影響される。また異なったニュアンスをもっている。このようにして言語の本質にまつわる永続性と時代性、または類としての同一性と個性としての差別性は、言語の本質の対自と対他の側面としてあらわれる。言語の表現である文学作品のなかにわたしたちがみるものは、ある時代に生きたある作者の生存とともにつかまえられて、死とともに滅んでしまう何かと、人類の発生とともに累積されてきたなにかの両面であり、本質としては、作者が優れているか凡庸であるかにかかわらないのである。(『吉本隆明著作集6 言語にとって美とはなにか(全)』勁草書房 1972年)
3つの進展が可能になったのは、「論理的なもの」の自己表出と指示表出という構造を、商品の価値と使用価値という構造に対応させていることだと考えている。すなわち、自己表出を価値(交換価値)、指示表出を使用価値に対応させることによって、進展は可能になったと考えている。そして、この対応は、吉本が『言語にとって美とはなにか』のなかで行った言語の構造と商品の構造との対応を継承していると考えてきた。
言語の価値と意味の関係を検討するさい、吉本は言語と商品を対応させて、次のように述べていたのである。
マルクスならば、わたしがここで経路として図示した言語の価値を、あたかも商品の価値についてのべたとおなじように指示表出価値と自己表出価値との二重性をあらわすと云うところかもしれない。 じじつ、指示表出からみられた言語の関係は、それがどれだけ云わんとする対象を鮮明に指示しえているかというところの有用性ではかることができるが、自己表出からみられた言語の関係は、自己表出力という抽象的な、しかし、意識発生いらいの連続的転化の性質をもつ等質な歴史的現存性の力を想定するほかはないのである。
こんど、『日本語のゆくえ』(吉本隆明著 光文社 2008年)を読んでいて、驚いてしまった。そこには、「使用価値が自己表出に当たり、交換価値が指示表出に相当する」と記されていたのである。
わたしは「論理的なもの」の自己表出と指示表出という構造を、商品の価値と使用価値という構造に対応させてきた。そしてこの立場を吉本隆明を引き継ぎものとして考えてきた。わたしは吉本が言語の自己表出と指示表出という構造を、商品の価値と使用価値という構造と対応させていると想定してきたのである。この吉本隆明の対応を手本として、「論理的なもの」の表出論を考えてきたのである。しかし、こちらの想定とはまったく逆の対応が述べられていたのである。
この使用価値と交換価値という概念は、ぼくの芸術言語論でいうと、自分なりに自分が納得できる言葉である「自己表出」と、コミュニケーションのための言葉である「指示表出」に対応します。
初めはそう考えて、使用価値に当たるのが「自己表出」で、交換価値に相当するのが「指示表出」であるとしておけばいいのではないかと思っていましたから、『言語にとって美とはなにか』でもそう書いたわけですが、しかし考えていくうちに、そこのところはもう少し詰めておいたほうがいいのではないかと思うようになりました。つまり、自己表出を縦糸とすれば指示表出は横糸で、この縦糸と横糸で織り上げられた織物が言語であると、どうもそういうふうに考えたほうがいいのではないかと思うようになりました。
『言語にとって美とはなにか』のなかで、吉本は、ほんとうに〈使用価値に当たるのが「自己表出」で、交換価値に相当するのが「指示表出」である〉と述べていたのだろうか。とても信じられない自己規定である。
〈使用価値に当たるのが「自己表出」で、交換価値に相当するのが「指示表出」である〉と考えていたのは、例えば、吉本が批判していた菅孝行の理解の仕方ではなかっただろうか。菅孝行は「言語観の転移は成就されたか」(雑誌『流動』)で次のように吉本を批判していたのである。
吉本が、指示表出に使用価値を、自己表出に交換価値を対応させるところまでくると、ここはもはやひとつの倒錯とみなさざるをえない
自己表出性が、言語主体の身体的直接性の表象と対応するならば、それは規範としての記号の抽象的兌換性をなによりも強く拒絶するものでなければならない
吉本は『言語にとって美とはなにか』で、まちがいなく、指示表出に使用価値を、自己表出に交換価値を対応させていたのである。菅孝行は、この対応を否定的に見ていた。わたしはこの対応を肯定的に見ようとしたのである。
以上は、商品の構造と言語の構造との対応に関する違和感(引用した前半の部分)である。引用の後半にも違和感がある。「自己表出を縦糸とすれば指示表出は横糸で、この縦糸と横糸で織り上げられた織物が言語である」といっていることに対してである。
吉本は「織物」という言い方について「自分でもちょっといい表現ではないかと思っています」といい、次のように述べている。
『言語にとって美とはなにか』のときにはまだ、この「織物」という考えはできていませんでしたから、要するに言葉は自己表出と指示表出に分離することができるというふうにいっていました。したがって「言語は織物である」というところが、ぼくが少しだけ進歩したところです。
これも信じられない自己規定である。『言語にとって美とはなにか』のときすでに「織物」という考えはできていたと思うからである。例えば、「品詞の構造」でも、「ある時代の社会の言語水準」でも、「言語の価値と意味」でも、自己表出を縦軸に、また指示表出を横軸にとり、言語の織物を提示していると思う。
ただ、進展3で述べたように、「人間が何かを言わねばならないまでにいたった現実的な与件とその与件にうながされて自発的に言語を表出することとのあいだに存在する千里の径庭」を「言語の表出」ではなく「言語の自己表出」と想定したために、自己表出と指示表出の対等性が損なわれ、自己表出と指示表出の織物としての構造があいまいになる傾向はあるとはいえると思う。
そして、このずれは、現在も、引き継がれていると思う。
ぼくはそういうふうに基本的な原則(言語は自己表出と指示表出の織物で、この二つは分離できないということ――引用者注)を決めました。
そう考えることによっていちばんの収穫は何かというと、言語表現における芸術性とは何かということについて、はっきりと「それは自己表出の問題だ」と答えられるようになること。それがひとつ。
もうひとつは――では、指示表出つまり人間の感覚にともなう表現は芸術性に関与しないのかといわれたら、それは関与する。どう関与するかといえば、指示性の起伏とそれがつくる空間が間接的に言葉の芸術性に関与する、ということになります。
ここを推し進めていくと、言語活動を芸術言語つまり文学・文芸までもっていく要素は簡単にいえば、次のようにいうことができます。
ひとつは、通常考えられる自己表出に自己表出をもっと継ぎ足すこと。
もうひとつは、通常考えられる自己表出に指示表出を継ぎ足して、そして自己表出に関与させること。
こうしたふたつの関与が言葉の芸術性をもたらす元になると考えることができます。
これは、自己表出に偏向した考え方ではないだろうか。ふたつの関与があるのではないと思う。吉本が別々に述べた二つの「継ぎ足し」は、まったく幻想的なものである。現実には、吉本が別々に述べた二つの「継ぎ足し」を「複合」した一つの「継ぎ足し」があるだけだと思う。それは次のようにいうことができる。
通常考えられる自己表出と指示表出に、異なる自己表出と指示表出を継ぎ足すこと。
このひとつの関与が言葉の芸術性をもたらす元であると考えられる。わたしの場合は、認識の創造性をもたらす元であると考えられるものである。
『日本語のゆくえ』のなかに、わたしが見るのは、吉本隆明の奇妙な自己規定である。吉本の「そこのところ」とは、いったい「どこのところ」だったのだろうか。
わたしの表出論はどこから来たのだろう。そして、どこへ行くのだろう。