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 補論 13 マルクスもうひとつの弁証法
       ――「貨幣の資本への転化」について

マルクスの「貨幣の資本への転化」は、リカードの労働価値説とヘーゲル弁証法を複合する試みとして読むことができる。この複合する試みそのものが弁証法である。マルクスがおこなった複合において、「貨幣の資本への転化」の全過程は、すこしだけ縮んでいる。ここにヘーゲル弁証法の制約をみることができる。矛盾の論理としての弁証法は否定されるべきである。

目次

  はじめに

  1 マルクスの問題設定と解答

  2 3つの誤りがある

  3 ヘーゲルとマルクスの弁証法

  4 流通部面は買いだけでよい

  5 資本は産業資本だけである

  6 剰余労働はいつでもあった

  7 「虚偽」について

  8 マルクスもうひとつの弁証法

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はじめに

 『マルクス経済学と現実 ――否定的役割を演じた弁証法』が、岐阜県図書館の閉架の中にあることを知り、この本を手にしたとき、最初に目についたのは、再生産の表式だった。著者の堀江忠男にはなんの知識もなかった。

 「正反合から正々反合へ」をやっていたころである。あとで再生産の表式を確認するつもりで借りてみたのである。

 思いがけない本だった。とくに関心をひいたのは第5章「"ここがロードス島だ!"―― 『資本論』における弁証法の過剰」と第17章「マルクス経済学におけるヘーゲル的「虚偽」」である。

 手元に置いておきたいと思い、古本屋で買った。しばらくして、さらに『弁証法経済学批判』も買った。

 堀江忠雄はマルクスの「貨幣の資本への転化」には、三つの誤りがあると指摘している。これがきっかけになった。「貨幣の資本への転化」(『資本論』)を検討してみようと思ったのである。

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1 マルクスの問題設定と解答

 「貨幣の資本への転化」は、リカードの労働価値説とヘーゲルの弁証法を複合する試みとして読むことができる。マルクスはリカードの労働価値説の限界の克服とヘーゲル弁証法の新たな展開をめざす。マルクスは、ヘーゲルの弁証法を引き寄せ、矛盾律に挑戦する立場を明確にしている。そして、次のように問題を設定したのである。

つまり、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通の中で発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。
 こうして、二重の結果が生じた。
 貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所有者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面で行なわなければならないし、また流通部面で行なわれてはならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ![Hic Rhodus,hic salta!](『資本論』第4章 大内兵衛・細川嘉六監訳 大月書店 1968年)

 この答えは次のようなものであった。

27シリングは30シリングになった。それは3シリングの剰余価値を生んだ。手品はついに成功した。貨幣は資本に転化されたのである。  問題の条件はすべて解決されており、しかも商品交換の法則は少しも侵害されていない。等価物が等価物と交換された。資本家は、買い手として、どの商品にも、綿花にも紡錘量にも労働力にも価値どおりに支払った。次に彼は商品の買い手がだれでもすることをした。彼はこれらの商品の使用価値を消費した。労働力の消費過程、それは同時に商品の生産過程でもあって、30シリングという価値のある20ポンドの糸という生産物を生みだした。そこで資本家は市場に帰ってきて、前には商品を買ったのだが、今度は商品を売る。彼は糸1ポンドを1シリング6ペンスで、つまりその価値よりも1ペニーも高くもなく安くもなく、売る。それでも、彼は、はじめに彼が流通に投げ入れたよりも3シリング多くそこから取り出すのである。流通の媒介によって、というのは、商品市場で労働力を買うことを条件とするからである。流通では行なわれない、というのは、流通は生産部面で行なわれる価値増殖過程をただ準備するだけだからである。

 『資本論の思想』のなかで、吉田憲夫は、27シリングが30シリングになった過程を、わかりやすく表にしているので、確認しておこう。ポンドを重量ポンドで表示してあるところがありがたい。 

価値形成の場合

 表1は、10重量ポンドの綿花と4分の1個の紡錘と6時間の労働によって、10重量ポンドの糸を生産する事例である。15シリング投下され、15シリング回収されている。剰余価値は生まれていない。価値形成過程の事例である。

価値増殖の場合

 表2は、同じ条件で、12時間労働する場合である。「綿花と紡錘と労働の量」(1)と「糸に対象化されている労働時間」(3)は2倍になる。しかし、投資額は2倍ではない。綿花と紡錘の価格は2倍になるが、労働力の日価値は3シリングのままだからである(2)。この場合、27シリング投資されて30シリング回収されている。3シリングの剰余価値が生じている。価値増殖過程の事例である。

 剰余価値が生まれるのは、「労働力に含まれている過去の労働と労働力がすることのできる生きている労働とは、つまり労働力の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である」という点にある。

 マルクスは労働力商品の価値と使用価値の相違に、剰余価値の根拠を見出したのである。そして、剰余価値の生産(貨幣の資本への転化)が、流通部面のなかで行なわれると同時に、流通部面で行われないものとして、いいかえれば、肯定であって同時に否定である弁証法的な展開によって実現するという答えを示したのである。

 吉田憲夫は、次のように述べている。

 貨幣の資本への転化の全過程は、貨幣所持者が商品市場で労働力を購入することを必須の条件とするわけであるから、それが「流通の媒介」を必要としているという意味では「流通部面のなかで行なわれる」、がしかし、視角を変えて言えば、流通は生産部面で行なわれる「労働日の延長」という価値増殖過程を「準備」するだけであるから、それは「流通では行なわれない」のである。
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2 3つの誤りがある

 堀江忠雄はマルクスの「貨幣の資本への転化」には、三つの誤りがあると指摘している。(「" ここがロードス島だ!"―― 『資本論』における弁証法の過剰」『マルクス経済学と現実 ――否定的役割を演じた弁証法』第5章 学文社 1979年)まず、堀江の指摘を確認しておこう。

1 前提条件と結果の混同、全体と部分があいまい

 一つは、前提条件と結論の混同、そして全体と部分があいまいになっていることである。
 前者は、労働力という商品を買うという貨幣の資本への転化の前提条件が貨幣の資本への転化そのものと等置されていることを指している。貨幣の資本への転化は、流通の媒介によってとはいえるが、流通部面において行われると言うのは強引ではないかということである。堀江は次のように述べている。「これは、たとえば、商品を仕入れたことは、それを売ってもうけたことに等しい、と論ずるのと同程度に無理な話である。」
 後者は、全体(貨幣の資本への転化)と部分(価値増殖過程)という二つのことがらが、一つのことがらのように論じられていることである。別々に、価値増殖は流通部面でにおいて準備され、生産部面で行われる。また、貨幣の資本への転化は流通部面と生産部面を通じて行われる、と言えばよいということである。このように考えれば「肯定であって同時に否定である(肯定が同時に否定の契機をはらむ)弁証法」とは無関係に転化の過程を把握できると指摘している。

2 問題設定と解答のずれ

 二つ目は、問題設定とその解決がずれていることである。
 最初に登場していたのは、商人(商業資本家)で、等価で買い、等価で売る。剰余価値はどこから、というのが問題設定だった。ところが、マルクスの説明を読むと、商人(商業資本家)ではなく、製糸業の産業資本家が出てきて、生産過程で剰余価値が生み出されるから、製品を売ったときには、剰余価値が発生しているという解答が示されている。  すなわち、商業資本家の問題の解答はなく、産業資本家の解答が示されているということである。「商業資本家に関するかぎり、彼がなぜ等価で買って等価で売りながら剰余価値を手に入れているかは説明されていない。」商業資本家から産業資本家への変更はマルクス自身も無意識に行ったものだろうと、堀江忠雄は推察している。

3 問題設定の誤り

 三つ目は、問題設定自体の誤りである。これはマルクスが資本主義以前の商品生産と流通において、剰余価値は存在しなかったと想定していることを指している。

 堀江忠男は次のように推測している。

 話の大きな筋は次のようなものだった。等価交換で・交換の当事者は損も得もしない・だれも剰余価値を手に入れるもののないところの・「商品生産および商品流通にもとづく取得法則または私的所有法則は、それ独自の・内的な・不可避的な・弁証法によって、それの正反対物(すなわち、剰余価値を生みだすところの資本制的取得の法則――堀江注)に転化する。」
 それならば、資本主義以前の商品生産と流通においては、剰余価値は存在しなかったのだろうか? マルクスは明らかにそう考えていたから右のように述べたのである。だから、彼は第一巻第四章第二節で次のように書いている。「商品所有者は、自分の労働によって価値を形成することはできるが、みずからを増殖する価値を形成することはできない。」

 そして、この推測を堀江忠男は、次のようにマルクスを引用して、確認している。

 「労働過程と価値形成過程との統一としては、生産過程は商品の生産過程である。労働過程と価値増殖過程との統一としては、それは資本制的生産過程であり、商品生産の資本制的形態である。」
 「価値形成過程と価値増殖過程とを比較するならば、価値増殖過程はある特定の点をこえて延長された価値形成過程にほかならない。もし後者が、資本によって支払われた労働力の価値が新たな等価物によって補填される点までしか続行されないならば、それは単純な価値形成過程である。価値形成過程がこの点をこえて続行されるならば、それは価値増殖過程となる。」

 
 この二つの引用文をあわせると、こうなる。資本主義社会では、労働者の労働は、「資本によって支払われた労働力の価値」つまり労賃分だけの価値を働いてつくりだすばかりでなく、さらにその点をこえて、価値を増やす、すなわち剰余価値をつくりだす。だが、資本主義以前の単純な商品生産社会の自立的な生産者、生産手段をみずから所有している手工業者や農民などの働きは、資本主義制度下の労働者にたとえれば、その労賃分(その生活維持費)だけの価値は作り出すが、それ以上の剰余はつくりださない。
 
「これが正しかったら、たいへんなことだ。封建時代の手工業者や農民の労働が、剰余分をつくりださなかったとしたら、封建的な支配階級はどうして生存しえたのだろう。また封建領主やその取巻連中のしぼりあげる剰余さえないとしたら、そこから資本主義が発生するだけの剰余がしぼりだせるわけがないではないか。」

 まちがいなく、資本主義以前にも、剰余価値は存在していたのである。それゆえ、堀江は次のように主張している。

剰余価値を生まない「商品生産および商品流通にもとづく取得法則」が、「それの反対物(剰余価値を生む資本制的取得法則)に転化する」(それ独自の・内的な・不可避な・弁証法」などというものの存在の余地は、ここには全くないのである。

 以上が堀江忠雄の指摘である。一つ目は、マルクスの問題設定と解答を認めたうえで、誤りを検討している。二つ目は、問題設定と解答がずれていると指摘している。三つ目は、問題設定自体が誤っていると主張している。これらを参考にして、「貨幣の資本への転化」の過程を検討していこう。

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3 ヘーゲルとマルクスの弁証法 

 「商品生産および商品流通とにもとづく取得の法則または私有の法則は、この法則自身の、内的な、不可避的な弁証法によって、その正反対物に一変するのである。」(『資本論』第22章)

 堀江忠雄がこれを取り上げていたことが、ありがたかった。こんなに簡潔な表現が『資本論』のなかにあるとは思っていなかったのである。ヘーゲルとマルクスが、結びついたのである。ヘーゲルの何と結びついたかといえば、「論理的なものの三側面」のうちの第2の側面(弁証法的・否定的理性的側面」と結びついたのである。

「 ――弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である。」(『小論理学』)

 マルクスの「この法則自身の、内的な、不可避的な弁証法によって、その正反対物に一変する」という規定は、ヘーゲルの弁証法的側面の正確な継承であると思う。

 マルクスの弁証法は、正統的な正反合(否定の否定)である。正統的とは、対話の方向に薄められた正反合(「正反合から正々反合へ」参照)ではなく、矛盾の論理として、「対立する一項の内在的否定による進展」(松村一人)を基礎にした展開であるということである。

 そしてマルクスは、「肯定であって同時に否定である(肯定が同時に否定の契機をはらむ」弁証法の過程を、「彼の蝶への成長は、流通部面で行なわなければならないし、また流通部面で行なわれてはならない」という「問題」に要約したのである。

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4 流通部面は買いだけでよい

 一つ目の誤りから検討していこう。

 労働力という商品を買うという貨幣の資本へ転化の前提条件を貨幣の資本への転化そのものと等置されていることについては、堀江の指摘どおりだと思う。また、貨幣の資本への転化と価値増殖過程を一つのことがらのように扱っているという点も堀江の指摘はあたっていると思う。

 堀江は、この誤りについて、「論述あいまいの虚偽」で説明しているようにように思える。

 要するに、「独自の・内的な・不可避的な弁証法」なるものの実態は、第一に、「あることの前提条件=そのこと自体」という誤り、第二に、「貨幣の資本のへの転化」(全運動)および「価値増殖過程」(その一部)という二つのことがらを、言葉の定義をはっきりさせないで、一つのことがらのように論ずるという誤り、この二重の誤りによって、「行なわれるのであり、行なわれるのではない」という言い方が正しいかのような錯覚を与えているだけのことである。

 初版は1965年だが、1973年に増補したとき、「論述あいまいの虚偽」について、次のような注をつけている。

 貨幣の資本への転化は「流通部面においておこなわれるのであり、おこなわれるのではない」というマルクスの命題は、本文で説明したように、ようするに「論述あいまいの虚偽、多義の虚偽」(fallacy of amphiboly, of equivocation)にすぎない。その点では、論理学の教科書によく見られる次のような虚偽と大差ない性質のものだ。
 「この本はヘーゲルの著書である。ヘーゲルのものはヘーゲルの所有物である。故にこの書物はヘーゲルの所有物である。」

 わたしは物足りなさを感じる。というのは、「論述あいまいの虚偽」を「言葉のアヤ」だけで説明していて、『資本論』の展開にそって説明がなされていないように思えるからである。なぜ、「あることの前提条件=そのこと自体」に短絡し、二つのことがらが一つのことがらのように混同されるのかの根拠が明確ではないように思えるのである。

 わたしは、次のように考えた方が、はっきりすると思う。

 マルクスが貨幣の資本への転化が行われると同時に行われないと考えた流通部面、すなわち貨幣の資本への転化の弁証法的な進展をみようとした流通部面は、前半の流通部面(買い)しか考慮されていない、と。

 流通部面は、生産部面で行われる価値増殖過程を「準備」するだけではない。それは価値増殖過程を「実現」するのである。マルクスが示している理由(商品市場で労働力を買うことを条件とする・生産部面で行なわれる価値増殖過程をただ準備するだけ)は、流通部面の前半(買い)にあてはまっているだけである。

 マルクスが問題のなかで、「彼の蝶への成長は、流通部面で行なわなければならないし、また流通部面で行なわれてはならない」と述べたとき、流通の全部が念頭にあっただろう。強調して言えば、流通の後半(売り)も想定されていただろう。しかし、解答のなかで「この全経過、彼の貨幣の資本への転化は、流通部面のなかで行なわれ、そしてまた、そこでは行なわれない」というときは、すでに、流通の後半は消えている。そして、その理由を述べるとき、つまり、次の「流通の媒介によって」の「流通」では、後半(売り)が捨てられ、前半(買い)に限定されているのである。

 さかのぼってみよう。マルクスはどこに剰余価値の可能性があるのか、次のようにアタリをつけている。この時点で、すでに流通の後半は視界から消えているのである。

資本に転化するべき貨幣の価値変化はこの貨幣そのものには起こりえない。なぜなら、購買手段としても支払い手段としても、貨幣はただ、それが買うかまたは支払う商品の価格を実現するだけであり、また、それ自身の形態にとどまっていれば、価値量の変わることのない化石に固まってしまうからである。同様に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じえない。なぜならば、この行為は商品をただ現物形態から貨幣形態に再転化させるだけだからである。そこで、変化は第一の行為G−Wで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかしその商品の価値に起きるのではない。というのは、等価物どうしが交換されるのであり、商品はその価値どおりに支払われるのだからである。だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるよりほかない。ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである。―― 労働能力または労働力に。

 リカードの労働価値説の克服にメドをつけた瞬間(の再現)といえるだろう。しかし、マルクスはどうして第二の流通行為を安易に、「この行為は商品をただ現物形態から貨幣形態に再転化させるだけだから」と述べたのだろう。命がけの飛躍が必要な場面だというのに。労働力の発見の裏面といえるのではないだろうか。強調していえば、後半を切り捨てることによって、労働力商品は発見されたのである。

 「貨幣の資本への転化は、流通部面のなかで行なわれ、そしてまた、そこでは行なわれない」という表現は、流通部面に買いと売りを含めたほうが、妥当であろう。

 全過程を、順序よくたどれば、次のようなことなのである。貨幣所有者がまず、商品(綿花、紡錘、労働力)を買う(流通部面1)。このとき労働力の買いが価値増殖の条件となる。次に、これらの商品を消費して、新しい商品(糸)を作る(生産部面)。このとき、価値増殖の可能性が生まれる。そして、できた商品を売る(流通部面2)。このとき、価値増殖が現実のものとなり、貨幣の資本の転化が完了する。

 あいまいなところは何もない。貨幣の資本への転化は流通部面(1と2)と生産部面を通して行われる。このいい方でもあいまいなところはない。しかし、生産部面ということばを避け、流通部面ということばだけを使って、「流通部面のなかで行われ、そしてまた、流通部面では行われない」という表現になると、ヘーゲル弁証法の展開のなかに、貨幣の資本への転化の全過程が縮むのである。

 マルクスは、流通部面の前半(買い)だけで、資本の貨幣への転化が行われる、強調していえば、流通の後半(売り)を忘れても、資本の貨幣への転化は成立していると想定しているのである。それは、価値増殖過程を実体的に捉えているからである。

 たんに可能性としてある価値増殖過程を、すでに現実化したものとして想定しているのである。これが、「あることの前提条件=そのこと自体」という誤り、「貨幣の資本のへの転化」(全運動)および「価値増殖過程」(その一部)という二つのことがらを、言葉の定義をはっきりさせないで、一つのことがらのように論ずるという誤りをもたらした根拠ではないだろうか。

 たんに可能性としてある価値増殖過程を、すでに現実化したものとして想定するのは、第一巻「資本の生産過程」では許されるのではないのか。なぜなら、流通過程は捨象してあるからである。しかし、その場合は、第二巻の「資本の流通過程」で流通がうまく具体化しているかぎりにおいてである。しかし、どうもうまくいっていないようなのだ。

 堀江は「心のおもしのとれた話」では次のように述べている。

『資本論』第一巻は「資本の生産過程」と名づけられている。その冒頭に出てくる1クォーターの小麦 = a ツェントネルの鉄 は、流通によって等価関係を確立している商品だ。しかし、第一巻の抽象の段階では、資本の生産過程だけが問題であるので、小麦と鉄の生産に投ぜられた労働だけがとりあげられ、流通に投ぜられた労働は捨象されている。ところが第二巻「資本の流通過程」で、流通に投ぜられた「過去の労働」と「生きた労働」とを問題にすべきところまで「後方の旅」が進んできたとき、マルクスは、流通労働がまだ度外視されていた抽象の段階でつくりあげられた「価値」の定義――価値とは商品に対象化された労働である――を流通労働に適用して、流通労働が使用価値、商品を生まないという理由で、流通労働は価値を生まないと規定し、流通に要する費用と利潤(c,v,m)はすべて、物質的生産部門の剰余価値から引き出される。という誤った命題を打ち立ててしまった。

   また、「第三次産業は“不生産的”か? “上向法”が閉めだしたもの」で次のように述べている。

 マルクスが、ここでほんとになすべきことはなんであったか? 第二巻六章で「流通費」を研究するときには、社会的な再生産は物質的な生産活動だけでは完結しない、同時に、売買、金融などの流通活動を必要とする、という前提条件になっているはずだ。つまり、抽象から具体への理論的「上向」過程が一歩進んだのである。したがって、ここでは、商品に対象化された生産労働と同時に商品に対象化されない流通労働を計量しなければならない。そのためには、マルクスがやったように、第一巻の抽象の段階で与えられた価値の定義によって、流通労働を価値から閉めだすことではなく、逆に、価値の定義そのものを、流通労働をも包含しうるように拡充することが必要だったのである。

 堀江とは、立場を異にする研究者の別の見解も見ておこう。須藤修は次のように述べている。

 マルクスは、「純粋な流通費」は一切商品の価値を形成するものではなく、剰余価値からの控除をなす、としていたのだが、このような認識は、ひとつには生産過程において使用価値物を生産し、価値形成する労働だけが資本家にとって生産的労働である、すなわち剰余価値を形成する労働であるという第一巻における「直接的生産過程」の考察を踏まえ、さらに「正常な経過」における流通過程では価値の形態転換があるだけで価値量の変化はありえない、という第二巻「資本の流通過程」分析の前提条件によってもたらされたものといえよう。
 しかしながらマルクスにあっては一方ではW′−G′を「命がけの飛躍」といい、流通の不確実性を重視する視角がある。だが、流通を取扱う際には流通の不確実性というファクターは等閑に付されている。マルクスは、流通期間に投下される「純粋な流通費」を資本家にとって「不生産的」な費用である、というのだが、筆者は、不確定性の強い流通期間をできるだけ確定的なものとするために投入される情報収集、市況調査、通信などの費用を含めた「純粋な流通費」は、直接的生産過程において使用価値物を生産するわけではないが、運輸費と同様に「社会的労働の物質代謝」の一環をなすものであり、社会的再生産過程をより円滑かつ迅速に編成するものであり、資本家にとっては、貨幣増殖をより円滑かつ迅速に遂行するために必要な「生産的」な費用と見做される、と考えている。「資本の循環・回転と資本流通のもたらす物神性」須藤修 『資本論を物象化論を視軸にして読む』廣松渉編

 ようするに、流通過程はうまく具体化していないのである。

 上向が違っていたのなら、下向の仕方が違っていたのである。マルクスは価値増殖過程を可能性としてではなく現実化したものとして捉えている。流通部面2いいかえれば流通過程の後半(売り)すなわち、命がけの飛躍は捨象されているのではなく、切り捨てられているのである。「商品を仕入れたことは、それを売ってもうけたことに等しい」ことになっているのである。それが、理由を述べるとき、流通部面の後半(売り)を忘れて前半(買い)だけに限定しても、疑問を感じなかった原因だったと思う。

 流通部面1(買い)に限定することは、肯定であると同時に否定であるヘーゲル弁証法を内在化するためには必要だったのだから、マルクスの上向と下向を制約したものは、ヘーゲル弁証法であるといえるだろう。ここでは、ヘーゲル弁証法は否定的に機能しているのである。

 違いを図解しておこう。G−W…P…W′−G′が、全過程である。ヘーゲル弁証法をまったく考慮しないときの健全な図式である。G−Wは、流通部面1(買い)である。 Pは生産部面である。W′−G′は、流通部面2(売り)である。

 マルクスの「貨幣の資本への転化」で着目しているのは、G−W(流通部面1)と…P…W′(生産部面)である。W′−G′(流通部面2)は、切り捨てられている。

 G−W…P…W′。マルクスの展開は、この図で表現できる。「流通部面のなかで行なわれ、そしてまた、そこでは行なわれない」の実態である。「貨幣の資本への転化」の全過程が、ヘーゲル弁証法の影響によって、縮んでいるのである。

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5 資本は産業資本だけである

 次に、二つ目に移ろう。

 「商業資本家に関するかぎり、彼がなぜ等価で買って等価で売りながら剰余価値を手に入れているかは説明されていない。」これは確かである。だが、マルクスの問題設定が初めは商業資本家だったというのは、無理があるのではないだろうか。マルクスは、貨幣所有者といっている。貨幣所有者が、産業資本家でもかまわないのである。商業資本家が産業資本家に代わったのではなく、貨幣所有者が産業資本家に代わったのである。そして産業資本家で解答することがマルクスの主題だった。

 マルクスは次のように述べている。

 売るために買うこと、もっと完全に言えば、より高く売るために買うこと、G−W−G′は、たしかに、ただ資本の一つの種類だけに、商人資本だけに、特有な形態のように見える。しかし、産業資本もまた、商品に転化し商品の販売によってより多くの貨幣に再転化する貨幣である。買いと売りとの中間で、すなわち流通部面の外で、行なわれるかもしれない行為は、この運動形態を少しも変えるものではない。最後に、利子生み資本では、流通G−W−G′は、短縮されて、媒介のないその結果として、いわば簡潔体で、G−G′として、より多くの貨幣に等しい貨幣、それ自身よりも大きい価値として、現われる。
 ようするに、実際に、G−W−G′は、直接に流通部面に現われているとおりの資本の一般的な定式なのである。

 この資本の一般的な定式の矛盾を整理したものが、マルクスの問題設定である。

 伊藤誠『『資本論』を読む』と柄谷行人『マルクスその可能性の中心』で補充しておこう。

 伊藤誠は、マルクスの問題を引用したあと、次のように説明している。

 最後の文章はイソップ物語からのもので、自分はロドス島では大きく跳べたというほら吹きが言われた言葉で、印象深くこの第二節で提示された問題を締めくくっている。その問題の核心は、等労働量交換としての価値法則にもとづき、流通を通じて貨幣が増殖されて資本となることが、どのようにして可能であるか、という論点に絞られているわけである。この問題は、次節の「労働力の売買」を経て、流通を通じ生産を組織する資本の運動に即して解明されてゆく。したがって、この文脈では、資本の「一般定式の矛盾」の問題設定を介して、さきに提示された商人資本、利子生み資本、産業資本の三形式のうち、結局はこれからみてゆくように、労働力商品を購入し使用して生産を組織する近代社会における産業資本のみが、原理的に可能な資本とみなされることになる。
 しかし、それでは、資本の概念が狭くなりすぎるのではないだろうか。資本の三形式のうち、商人資本にしても金貸し資本としての利子生み資本にしても、商品・貨幣流通にもとづき、貨幣を用いて貨幣を増殖する資本形式として、古くから市場経済のしくみのなかに出現するものである。マルクスは、ここでも「周知の大洪水(資本主義の発生期のこと)以前の資本の姿、商人資本と高利貸資本」の存在に言及するのであるが、それらは、商品流通に内在的な価値法則に照らして剰余価値を生むものでないとして「考慮の外におく」のである。

 柄谷行人は次のように述べている。(『マルクスその可能性の中心』1978年 講談社)

 商人資本、もっとも古代から存在する資本、G−W−G′という流通過程によって存立する資本について、マルクスは、ほとんど考察していない。「貨幣の資本への転化」についてのべるとき、彼が商人資本を軽視したのは、彼にとって、産業資本の秘密について語ることが大切であり、そのためには、商人資本が与える幻想、あたかも流通過程が剰余価値を生むかのような幻想を否定してかかる必要があったからである。この点で、彼は、重商主義の理論家に敵対して現われた古典経済学の態度に影響されている。

 商人資本について、マルクスは次のように述べている。

商業資本の全運動は流通部面のなかで行なわれる。しかし、貨幣の資本への転化、剰余価値の形成を流通そのものから説明することは不可能なのだから、商業資本は、等価物どうしが交換されるようになれば、不可能なものとして現われ、したがって、ただ、買う商品生産者と売る商品生産者との間に寄生的に割り込む商人によってこれらの生産者が両方ともだまし取られるということからのみ導き出されるものとして現われる。

 「寄生的に割り込む商人」。しかし、これは窮屈な考え方といわなければならない。マルクスは「考慮の外」におかざるをえなかったのである。柄谷行人は、買いと売りが場所的・時間的に断絶しているところに、資本の可能性を見ている。柔軟な考え方だと思う。

 だが、広い意味で商品交換以外に、剰余価値を生むものはないというべきである。生産過程も、商品所有者の「交換」において考えられねばならない。マルクスは、産業資本は流通過程から剰余価値を得るのではなく、生産過程から得るのだといおうとしているかにみえる。しかし、生産過程そのものは価値とは関係がないのであり、価値は、それゆえに剰余価値もまた、つねに交換過程からしか与えられないのである。産業資本も実はのちにのべるように、労働力という"商品"を購入しそれが実際に生産した商品を売るという過程にある差額「剰余価値」に依存するのだ。だから、商人資本に関する省察が、資本一般の性質を明らかにする。

 たしかに、堀江忠男の指摘のように、マルクスは商業資本による剰余価値の生産を説明していないが、視点を変えたのではなく、はじめから、「労働力商品を購入し使用して生産を組織する近代社会における産業資本」を見据えていたのである。

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6 剰余労働はいつでもあった

 マルクスの「それ独自の・内的な・不可避的な・弁証法」を逆にたどることによって、また、労働過程と価値形成過程・価値増殖過程との統一を比較することによって、堀江忠男は、次のように推測した。マルクスは資本主義以前の商品生産と流通において剰余価値は存在しなかったと想定していた、と。そして、堀江は次のように続けている。

 実は、マルクス自身も『資本論』第三巻第十章では、単純商品社会にも、剰余価値(に当たるもの)は当然なければならぬことを、次のようにはっきり認めているのである。
 「労働者たち自身がめいめいの生産手段を所有し、自分の商品を相互に交換しあうものとしよう。」その場合には、彼らは「彼らの日労働の生産物をなす諸商品において、第一に彼らの支出、すなわち消費された諸生産手段の、費用価格を埋め合わせるだろう。……第二に……新価値、すなわち、生産手段に付加された労働日を創造するだろう。この労働日は、彼らの労賃、プラス剰余価値、彼らの必然的諸欲望をこえる剰余労働、だがその成果は彼ら自身に属するをふくむだろう。」

 堀江は、「剰余価値(に当たるもの)」と言っている。堀江は剰余価値と剰余労働を等置しているのである。堀江が、マルクスは資本主義以前に剰余価値が存在していなかったと推測するとき、そのまま、堀江はマルクスが剰余労働まで存在していなかったと考えたと想定しているのである。――「これが正しかったら、たいへんなことだ。封建時代の手工業者や農民の労働が、剰余分をつくりださなかったとしたら、封建的な支配階級はどうして生存しえたのだろう。また封建領主やその取巻連中のしぼりあげる剰余さえないとしたら、そこから資本主義が発生するだけの剰余がしぼりだせるわけがないではないか。」

 資本主義以前に剰余価値は存在しなかった。しかし、剰余労働が存在しなかったわけではないのである。剰余価値と剰余労働は区別しなければならない。

 マルクスは次のように述べている。

 資本が剰余労働を発明したのではない。いつでも、社会の一部のものが生産手段の独占権を握っていれば、いつでも労働者は自由であろうと不自由であろうと、自分自身を維持するために必要な労働時間に余分な労働時間をつけ加えて、生産手段の所有者のために生活手段を生産しなければならない。この所有者がアテナイの貴族であろうとエトルリアの神政者であろうとローマの市民であろうとノルマンの領主であろうとアメリカの奴隷所有者であろうとワラキアのボヤールであろうと現代の大地主や資本家であろうと。(第8章第2節)

 最初、剰余価値は「最初の価値を超える超過分」として定義された。

それゆえ、この過程の完全な形態は、G−W−G′であって、ここで、G′=G+ΔGである。すなわち、G′は、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値を超える超過分を、私は剰余価値(surplus value)と呼ぶ。それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかでただ自分を保存するだけではなく、そのなかで自分の価値量を変え、剰余価値をつけ加えるのであり、言い換えれば自分を価値増殖するのである。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。

 この意味において、剰余価値は資本主義以前には存在しないのである。

 ローゼンベルクは剰余価値と剰余労働を区別して、次のように述べている。

 マルクスは増殖した価値――「最初の価値をこえる超過分」――を、剰余価値と名づけたが、このことによって彼は、それが、第一に、価値であり、対象化された労働であり、第二に、剰余価値、すなわち対象化された剰余労働であることを強調した。だがまさにそのことによって、価値と剰余価値との内的関連が強調されているのである。もし支出された労働が価値の形態をとらなければ、商品を生産したのでなければ、剰余労働は剰余価値としてあらわれはしないであろう。実際に、不払剰余労働は封建経済にも奴隷経済にも存在したが、それは剰余価値を生産しはしなかった。資本主義的生産は商品生産の基礎のうえにのみ発生しうるし、また発生するのである。(『資本論註解』副島種典訳 青木書店 1962年)

 マルクスが「貨幣の資本への転化」で問題にしたのは、〈剰余価値を生まない「商品生産および商品流通にもとづく取得法則」が、「それの反対物(剰余価値を生む資本制的取得法則)に転化する」(それ独自の・内的な・不可避な・弁証法」などというものの存在〉(堀江忠男)ではない。

 剰余労働は、あらゆる社会の存続・発展の基礎条件である。マルクスが「貨幣の資本への転化」で問題にしたのは、二重の意味で自由な労働者の存在を前提にして、資本主義社会ではどのようにして剰余労働が、剰余価値(ΔG)として生産されているのかだったのである。

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7 「虚偽」について

 三つ目の誤りの指摘は「虚偽」といってよいだろう。ここで「虚偽」とは、「うそいつわりとかペテンとかいう意味ではなく、論理学上の誤り、議論の妥当性を失わせる欠陥」ということである。(「マルクス経済学におけるヘーゲル的『虚偽』」参照)

 堀江は、マルクスの「貨幣の資本への転化」の展開を「論述あいまいの虚偽」と批判した。しかし、その堀江の批判がまた「論述あいまいの虚偽」なのである。

 堀江忠男は推測した。マルクスは資本主義以前の商品生産と流通において剰余価値は存在しなかった、と。表面的にはうなずけることも、その内容をみると、マルクスが剰余労働まで存在していなかったというのだから、「虚偽」というしかないだろう。

 堀江は『弁証法経済学批判――ヘーゲル・マルクス・宇野の「虚偽」』のなかで、次のように述べている。

同じ言葉に異なる内容をもたせて使えば、必ずまちがいがおこる。私の机の上には宇野弘蔵著『経済学方法論』がのっている。ある友人がそれをみてこういったとする。
 「それは宇野さんの本だね。宇野のさんのものは、早く宇野さんに返さなくちゃ。」
 宇野の「著書」であることと、宇野の「所有物」であることは、全くちがうのに、それを宇野の「もの」という言葉で同じように扱うと、こんな変な結論が出る。これを「多義の虚偽」(fallacy of equivocation)という。

 堀江忠男が指摘する三つ目の誤りは、「変な結論」なのである。

 堀江忠男における「虚偽」は、「商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への転化」の位置づけの誤りに起因している。

 堀江忠男は、商品の使用価値と価値に関するローゼンベルクの誤った解釈を取り上げ、批判したあと、次のように述べている。 

こんどはマルクス自身の重大な誤りを一つ示そう。
 ローゼンベルクは、先の使用価値と価値との話にすぐつづけて「もう一つの例をあげれば、形式論理学の方法によっては『商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への転化』(『資本論』第一巻、第二十二章を参照)を研究することは不可能である」と書いている。ローゼンベルクの言及している個所は『資本論』の次の文章のところである。
 
 「商品生産および商品流通にもとづく取得法則または私的所有法則は、それ独自の・内的な・不可避的な・弁証法によって、それの正反対物に転化する。」
 
 つまり、この話こそ、弁証法でなければ説明がつかない、とマルクス自身がいっていることがらだ。
 さて、これは『資本論』第一巻第四章および第五章で主として展開されている「貨幣の資本への転化」に関することなのだが、その「弁証法」的性格を示せば、次のとおりである。(後略)

 堀江は、「商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への転化」を「貨幣の資本への転化」と対応させ、マルクスの論述に三つの誤りを指摘したのである。

 堀江忠男は「商品生産および商品流通にもとづく取得法則または私的所有法則」を単純商品生産社会のものとして、また「それの正反対物(すなわち、剰余価値を生みだすところの資本制的取得の法則)」を資本主義的商品生産社会のものとして対応させている。この対応のさせ方が違っているのである。

 すなわち、堀江は「商品生産および商品流通にもとづく取得法則または私的所有法則は、それ独自の・内的な・不可避的な・弁証法によって、それの正反対物に転化する」の全体を「貨幣の資本への転化」(第一巻第四章および第五章)」と対応させている。しかし、「貨幣の資本への転化」と対応するのは、全体ではなく、前半の「商品生産および商品流通にもとづく取得法則または私的所有法則」だけなのである。

 マルクスは、「それ独自の・内的な・不可避的な・弁証法」を「貨幣の資本への転化」のために述べているわけではないのである。

 『資本論』第一巻第二十二章は、「剰余価値の資本への転化」である。第一節は 「拡大された規模での資本主義的生産過程 商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への変転」となっている。ここでは、どのようにして剰余価値が資本から生ずるかではなく、どのようにして資本が剰余価値から生ずるかが展開される。資本の蓄積(剰余価値の資本としての充用、剰余価値の資本への再転化)があつかわれているのである。

 「それ独自の・内的な・不可避的な・弁証法」のあとは、次のように続いている。

商品生産および商品流通とにもとづく取得の法則または私有の法則は、この法則自身の、内的な、不可避的な弁証法によって、その正反対物に一変するのである。最初の売買として現われた等価物どうしの交換は、一変して、ただ外観的に交換が行なわれるだけになる。なぜならば、第一に、労働力と交換される資本部分そのものが、等価なしで取得された他人の労働生産物の一部分にほかならないからであり、第二には、この資本部分は、その生産者である労働者によって、ただ補填されるだけではなく、新しい剰余を伴って補填されなければならないからである。こうして、資本家と労働者の間の交換という関係はただ流通過程に属する外観でしかなくなり、内容そのものとは無関係でただ内容を不可解にするだけの単なる形式になるのである。労働力の不断の売買は形式である。内容は、資本家が、絶えず等価なしで取得するすでに対象化されている他人の労働の一部分を、絶えず繰り返しそれよりも多量の生きている他人労働と取り替えるということである。

 正反対物への転化とは、資本家と労働者の間の交換が、等価から不等価に変化していくことを指している。堀江が「貨幣の資本への転化」と考えた「商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への転化」は、実は剰余価値が資本に再転化されていくとき法則に関するもので、単純商品生産社会から資本主義社会への転化とは無関係なのである。すなわち、正反対物とは、「剰余価値を生みだすところの資本制的取得の法則」ではないのである。

 文脈を切り捨て、ある部分を取り上げることは、わるいことではない。文脈そのままなら新しいものはなにも生まれてこないからである。むしろ創造のためには文脈を切り捨てる必要があるとさえいえる。この意味では、「それ独自の・内的な・不可避的な・弁証法」を「貨幣の資本への転化」と対応させていることはわるいわけではない。

 むしろ、「それ独自の・内的な・不可避的な・弁証法」を切り離し、これと「貨幣の資本への転化」を対応させることは、マルクスの試みを簡潔に表現するとさえいえるのである。剰余価値の発生を価値法則と関連づけて展開することは、「それ独自の・内的な・不可避的な・弁証法」と形容してよいからである。すなわち、順序よくいえば、

  1 商品交換に内在する法則(等価交換の法則)の確認
  2 資本の一般的定式の矛盾の規定 G−W−G′
  3 労働力の売買による解決の示唆
  4 剰余価値の源泉は流通過程ではなく生産過程にあるという規定

という過程は、「それ独自の・内的な・不可避的な・弁証法」によって、「正反対」ではないにしても、違った部面へと転化しているからである。流通過程から生産過程へ、あるいは等価から増殖へと。念のためにつけ加えておけば、ここで「弁証法」とは、たんに展開・進展というほどの意味である。

 正直にいえば、わたしは堀江忠男が示した「それ独自の・内的な・不可避的な・弁証法」と「貨幣の資本への転化」との対応に感動したのである。そしてヘーゲルとマルクスの接点を核心においてつかまえたように感じたのである。

 堀江が行なった「商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への転化」と「貨幣の資本への転化」との対応で特徴的なことは、「正反対物への転化」が極端に作用したことである。「それ独自の・内的な・不可避的な・弁証法」を逆にたどることによって、堀江は、マルクスが資本主義以前の商品生産と流通において剰余価値は存在しなかったと想定した。このとき、マルクスが剰余労働まで否定していると考えてしまったのである。

 「商品生産および商品流通にもとづく取得法則または私的所有法則」の位置づけの間違いが、「正反対物」の独特な解釈をもたらしたのである。これが堀江における「虚偽」のはじまりである。

 「商品所有者は、自分の労働によって価値を形成することはできるが、みずからを増殖する価値を形成することはできない」。堀江が「正反対物」の独特な解釈を正当化するものとして取り上げたものである。

 しかし、マルクスは、これを資本主義以前の商品生産と流通についてではなく、資本主義的商品社会の生産部面と流通部面について述べているのである。堀江はここでも文脈を切り捨てている。続きも含めて読みんでみよう。

商品所持者は、彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自分を増殖する価値を形成することはできない。彼がある商品の価値を高くすることができるのは、現にある価値に新たな労働によって新たな価値を付加することによってであり、たとえば革で長靴をつくることによってである。同じ素材がいまでは多くの価値をもつというのは、それがより大きな労働量を含んでいるからである。それゆえ、長靴は革よりも多くの価値をもっているが、しかし革の価値はもとのままである。革は価値を増殖したのではなく、長靴製造中に剰余価値を身につけたのではない。つまり、商品生産者が、流通部面の外で、他の商品所持者と接触することなしに、価値を増殖し、したがって貨幣または商品を資本に転化させると言うことは、不可能なのである。

 次に、堀江が『資本論』第五章第二節から引用した規定についてみておこう。

 第一の引用文

 「労働過程と価値形成過程との統一としては、生産過程は商品の生産過程である。労働過程と価値増殖過程との統一としては、それは資本制的生産過程であり、商品生産の資本制的形態である。」

 第二の引用文

 「価値形成過程と価値増殖過程とを比較するならば、価値増殖過程はある特定の点をこえて延長された価値形成過程にほかならない。もし後者が、資本によって支払われた労働力の価値が新たな等価物によって補填される点までしか続行されないならば、それは単純な価値形成過程である。価値形成過程がこの点をこえて続行されるならば、それは価値増殖過程となる。」

 堀江は二つの引用文を次のように図解し説明している。

    引用文の図解
 第二の引用文では、v しか生まない労働支出を単純価値形成過程と呼び、v と m とを生む労働支出を価値形成過程と呼んでいるので、第一の引用文の価値形成過程が、右のどちらに該当すのかがまぎらわしくなる。しかし、資本制生産過程と区別された商品生産過程とは、単純商品生産過程のことにほかならぬから、ここの価値形成過程は、v しか生まない単純価値形成過程を意味するほかない。

 こうして、左上の図をもって、マルクスが資本主義以前の商品生産と流通において剰余価値(=剰余労働)は存在しなかったと想定していたと念を押したのである。

 そして、「貨幣の資本への転化」の問題設定は、虚構であると考えたのである。

 堀江は第一の引用文をそのまま図解している。しかし、ここでの価値増殖過程は、単純価値形成過程を含んだものでなければならないだろう。m だけではなく、v + m である。第二の引用文では、価値形成過程が、価値増殖過程を含んでいる。第一の引用文では、反対に価値増殖過程が価値形成過程を含んでいるのである。

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8 マルクスもうひとつの弁証法

 堀江忠男は「“ ここがロードス島だ!”―― 『資本論』における弁証法の過剰」を、次のように終えている。

 労働力が商品となるのを契機として剰余価値が発生し、貨幣が資本に転化するという考え方は、商品の内包する、使用価値と価値の対立を出発点として資本主義の発生・発展・死滅を論ずる『資本論』の弁証法的理論構造の、不可欠な一環を構成するものである。それが、言葉のアヤ(1つ目の間違い―― 引用者注)と踊りの主役の無断変更(2つ目の間違い―― 引用者注)と、さらに舞台装置の間違い(3つ目の間違い―― 引用者注)から生じた錯覚であったということになれば、『資本論』は弁証法の模範的な適用である、という一般の評価、『資本論』は弁証法の論理学であるというレーニンの有名な言葉も、根底から考えなおしてみる必要があろう。

 ここで踊りの主役とか舞台装置というのは、堀江が Hic Rhodus,hic salta! を「ここがロードス島だ、ここで跳べ」ではなく、「ここがロードス島だ、ここで踊れ」という訳をとっていることに由来している。

 堀江が指摘した三つの誤りのうち、わたしが引き継ぐのは一番目の誤りだけである。二つ目の誤りは、最初の踊りの主役が商人だったというところに、無理があると思う。三つ目の誤りは、誤解から生まれた錯覚で、まったく問題にならない。それでも、弁証法を根底から考え直してみる必要はあると考える。矛盾の論理としての弁証法は成立するはずがないからである。 

 19世紀のロンドンで展開された弁証法は、モスクワを経由して、地球規模にまで広がりをみせた。それは20世紀の日本の岐阜にも届いたのである。しかし、マルクスが提示した弁証法は百年もたなかったといえるのではないだろうか。矛盾の論理としての弁証法は、「論述あいまいの虚偽」にもとづいた幻想であり、不安定な基礎の上に構築されているとわかってきたのである。

 流通部面1(買い)・生産部面・流通部面2(売り)と順序よくたどっていけば、価値増殖がどこで準備され、どこで可能性を持ち、どこで実現するのかは明確である。それを流通部面で行われると同時にそこでは行われないというのは、事態をあいまいにするだけで、まったく余分なことである。

 それは、速さ・時間・距離の関係が確立しているのに、運動を、ある場所にあると同時にないと考えるのと同じように、あいまいなことであり、余計なことなのである。

 マルクスの思想は、フランス社会主義・イギリス古典派経済学・ドイツ古典哲学を三つの源泉としている(レーニン『マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分』参照)。この考えは「貨幣の資本への転化」において、いわば微分的に確認することができる。「貨幣の資本への転化」は、マルクスが労働者(プロレタリア)の立場に立ち、リカードの労働価値説とヘーゲル弁証法を複合する試みであると考えられるからである。

 複合論の立場から、「貨幣の資本への転化」を見ておこう。

 マルクスは選択する。

 リカードの労働価値説とヘーゲル弁証法である。ここで、リカードの労働価値説とは、『経済学および課税の原理』の冒頭に掲げてある次の命題である。すなわち、「ある商品の価値、すなわちこの商品と交換される他のなんらかの商品の分量は、その生産に必要な相対的労働量に依存するのであって、その労働に対して支払われる対価の代償に依存するのではない。」という命題である。また、ヘーゲル弁証法とは、矛盾の論理すなわち「肯定は同時に否定」という命題である。

 マルクスは混成する。

 ヘーゲル弁証法の「肯定」と「否定」は、リカードの労働価値説と関係することにより、「流通部面で行なわれると同時、流通部面で行なわれるのではない」という表現に変わる。
 一方、リカードの労働価値説の「その生産に必要な相対的労働量」と「その労働に対して支払われる対価の代償」は、それぞれ、「労働力の使用価値」と「労働力の価値」に変わり、「労働力商品の価値と使用価値」という考えに要約される。そして、マルクスは、労働力商品の価値を流通部面に位置づける。また、労働力商品の使用価値を生産部面(流通部面ではない部面)に位置づける。

 マルクスは統一する。

 剰余価値の発生が労働力商品の使用価値そのものから、すなわち労働力商品の消費そのものから生ずる。

 この統一は、流通部面の前半(買い)に偏向した。それは、ヘーゲル弁証法の制約だったとみることができる。

 リカードの労働価値説とヘーゲル弁証法を複合する試みそのものが弁証法である。マルクスがそのなかで提示した矛盾の論理としての弁証法は否定されるべきだと考える。

(了)

参考文献

 堀江忠雄『マルクス経済学と現実』学文社 1979年
 堀江忠雄『弁証法経済学批判』早稲田大学出版部 1975年
 マルクス/大内兵衛・細川嘉六監訳 『資本論』大月書店 1968年
 吉田憲夫『資本論の思想』情況出版株式会社 1995年
 伊藤誠『『資本論』を読む』講談社学術文庫 2006年
 柄谷行人『マルクスその可能性の中心』講談社 1978年
 久留間鮫造ら『資本論辞典』青木書店 1966年
 廣松渉編『資本論を物象化論を視軸にして読む』岩波書店 1986年
 リカードウ/羽鳥・吉澤訳『経済学および課税の原理』岩波文庫 1987年
 ローゼンベルグ/副島種典・宇高基輔訳『資本論註解』青木書店 1962年

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