廣松渉は『相対性理論の哲学』のなかで、次のように述べていた。「アインシュタインには、弁証法的な否定性の論理や対話性の論理が欠けていることなどを指摘するまでもなく、これは体系構成法の外面的形式に関する一面に限られる。」これは貴重な見解に思えた。廣松渉の弁証法とわたしの弁証法を対照して展開できるのではないかと思えたのである。
『相対性理論の哲学』の優れた点は、アインシュタインの「原理」とカッシーラーの「函数」を結びつけたことである。しかし、かれは「函数」をアインシュタインの2つの原理(相対性原理と光速度一定の原理)ではなく、ローレンツ変換に見た。ローレンツ変換に「函数」を見る廣松弁証法を通して、2つの原理に「函数」を見る弁証法を展望する。
目次
廣松渉は相対性理論の哲学』のなかで、アインシュタインの1905年の論文「動く物体の電気力学」には、マルクスの『資本論』の展開と同じような弁証法があると指摘している。
この指摘は貴重なものに思えた。わたしもまた、相対性理論と弁証法の関係を展開しようと考えていたからである。
廣松渉の『弁証法の論理』は、わたしには読みにくい本である。しかし、かれが関連させたアインシュタインの思考過程と弁証法の関係を逆にたどることによって、これまでつかめなかった廣松弁証法のいくつかの点がわかるようになってきた。
『弁証法の論理』と『相対性理論の哲学』を突き合わせて、廣松弁証法を検討してみようと思った。
廣松渉は弁証法の体系構成法として「原始函数の整型と充当」という考え方を提出している。「原始函数」とは、体系の「原理」を比喩的に表わしたもので、函数という命名はカッシーラーの『実体概念と関数概念』で提出してある関数(=函数)概念をとりこんだものである。原始函数の整型とは、その原理を形成することである。原始函数の充当とは、具体的に体系を構成していくことである。廣松渉は「原始函数の整型と充当」によって、体系構成法の一つのタイプを表現しているのである。
原始函数の整型と充当という体系構成法を体現しているのは、『資本論』である。
『資本論』は次のように始まる。
資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。
ここで商品の構造(価値と使用価値)が「原始函数」にあたる。商品――貨幣――資本へと展開していくのが「原始函数の充当」にあたる。
原始函数の整型と充当の考え方を理解するために、簡単な例を取りあげてみよう。
男(aα)と女(aβ)から人間を抽象する過程と人間から男と女へ具象化する過程を考えてみる。
ふつうの考えでは、男性(α)と女性(β)の違いを捨象して、人間(a)を抽象する。人間(a)は男(aα)と女(aβ)の共通部分である。人間(a)は、普遍的・一般的な概念である。しかし、人間(a)は、男(aα)の男性(α)がない分、また女(aβ)の女性(β)がない分、内容が貧しくなっている。
人間(a)から男(aα)と女(aβ)にもどるのは、男性(α)と女性(β)を付け加えることになる。しかし、人間(a)では、構造が壊れているために、具体化するときに困難が生じる。例えば、男(aα)や女(aβ)という積の形となるとは限らず、男(a+α)や女(a+β)という和の形になる可能性がある。
このような抽象と具象の考え方は、実際の思惟の活動ではないと疑問を投げかけたのが、ロッツェやカッシーラーである。
男(aα)と女(aβ)から人間を抽象するとき、共通部分(a)へ直接に移行するのではない。男性(α)と女性(β)を変数xで補完して、男(aα)と女(aβ)という構造を壊すことなく、人間(ax)を抽象する。人間(ax)は、普遍的・一般的概念である。男性(α)や女性(β)はなく抽象的だが、内容は両性を導く可能性をもっていて、内容は貧しくなっていない。より豊かになっている。xにαやβを代入することによって、男(aα)と女(aβ)を展開できるのである。
原始函数とは、人間(ax)のことである。原始函数の整型とは、男(aα)と女(aβ)から、α と β を x で置換して、人間(ax)を導くことである。また、原始函数の充当とは、人間(ax)のxに、α や β を代入して、具体的な男(aα)と女(aβ)を獲得することである。
以上は、簡単な例(2元1次)を挙げて、原始函数の整型と充当という考え方を説明したものである。一般的に確認しておこう。『実体概念と関数概念』から、2箇所引用する。男と女の例より複雑(多元多次)だが、構造はまったく同じである。
〔概念形成の〕規則は、異なった種では異なっている徴標p1p2 , q1q2の単なる〈省略〉より成るのではなく、省略された特殊的規定のところに、その個々の種がp1p2 , q1q2であるような普遍的徴標 P , Q がつねに代入されなけれはならない。これに反して単なる否定の手続きは、ついにはすべての規定性一般の無をもたらし、したがってわれわれの思惟は、その概念がそのとき意味している論理的無から具体的な特殊的諸事例への〈帰路〉をまったく見出すことができないことになる。
規定性というものが、不変な徴標、つまり、事物とその諸性質のなかに尽くされていると思い込む場合には、たしかに、あらゆる概念的一般化が、同時に概念的内容の貧困化を意味するかのように見える。しかし、概念が事物的存在からいわば解放されるに応じて、他方では、それのもつ固有の関数的能作が浮び上ってくる。固定的諸性質が、可能的諸規定の全系列を一度に見渡すことのできる一般的規則で補完されるのであり、この変換、論理学的「存在」の新しい形式へのこの置き換えが、抽象本来の積極的な能作をなしているのだ。われわれは、ひとつの系列 aα1β1 , aα2β2 , aα3β3…からその共通〈成分〉aへと直接に移行するのではなく、個別の項 α の全体がある可変的表現 x で、項 β の全体がある可変的表現 y で与えられていると考えるのである。こうしてわれわれは、全体系を axy というひとつの表現にまとめあげ、その表現に連続的変化を施すことによって、系列項の具体的全体を導くことができ、このようにして、その総体の構築と論理的分節化とが充分な根拠をもって表わされるのである。
原始函数の整型とは、「ひとつの系列 aα1β1 , aα2β2 , aα3β3 …からその共通〈成分〉a へと直接に移行するのではなく」、「個別の項 α の全体」を「ある可変的表現 x 」で、また、「項 β の全体」を「ある可変的表現 y 」で与えられていると考え、「全体系」を「axy」というひとつの表現にまとめあげることである。ひとつの系列の固定的諸性質を基礎にして、「一度に見渡すことのできる一般的規則」を想定して、〈論理学的「存在」の新しい形式〉へ置き換えることである。 また、その充当とは、「axy」に、「連続的変化を施すことによって、系列項の具体的全体を導くこと」である。例えば、商品―貨幣―資本を、axy(=aα1β1)―aα2β2 ― aα3β3と捉えることである。
廣松渉は、アインシュタインの1905年の論文「動いている物体の電気力学」に、『資本論』と同じような原始函数の整型と充当の構造があることを指摘している。つまり相対性理論のなかに弁証法を見ているのである。
茲では、ロッツェ・カッシーラーの「函数概念」そのことの解説に立入る遑はないが、アインシュタインが抽象的・一般的な単純態の相で立てる「原理」(アルケー)は、マルクスの「上向法」的展開の「端初」(アルケー)とも同様、具体的な諸事態をそれの特殊態(特殊・具体的な"値"で"変項"を"充当"した形」として統括するごとき、或る基本的"函数態"の構制になっている。この「原理」="基本函数"の"変項"を逐次的に"充当"していくことによって「原理から流出する諸帰結の展開」がおこなわれるのである。 畢竟するに、アインシュタインは「原理」として、原始的・基本的″函数″態を措定し、この″函数″の″充当的展開″の手法を採ることにおいて、彼の思念する″演繹的展開″を成就しているのである。
原始函数の整型と充当という構造は、アインシュタインの「原理」を読み替えることによって、生成しているものである。
アインシュタインの「原理」は、論文の冒頭にある2つの原理(相対性原理と光速度一定の原理)である。一方、廣松の「原理」は、「ローレンツ変換」である。この読み替えによって、廣松は、相対性理論と弁証法を結びつけている。
アインシュタイン本人が「理論家の活動は二つの部分に分かれる。第一に、原理を探求すること、第二に当の原理から流出する諸帰結を展開すること」と称するのも十分の謂われがある。われわれは、先には、彼の謂う「原理」を「相対性原理」「光速度一定の原理」、或いはまた、「等価原理」という次元で解釈したのであった。そのかぎりでは、これらの原理からの当座の展開は「演繹」ではなく、むしろ当該「原理的事態」の″可能性の条件″の確定になっていることが指摘されねばならなかった。だが、当の条件の「確定」の場面までを「原理の探求」とみなす場合には話が別になる。今、特殊相対論に即していえば、両原理から出発しつつ、光速度一定という制約条件のもとで相対性原理の成立を可能ならしめる「同型的に変換される運動系」の在り方を確定する場面、要言すれば「変換則」の確定の場面までを「原理の探求」とみなし、「変換則」をこそ「原理」だと解すれば、この場合には慥かに、アインシュタインは「第一部」で「原理の探求」をおこない「第二部」で「当の原理から流出する帰結を展開」してみせていると認めることが出来る。因みに、一九〇五年の論文『運動物体の電気力学のために』は「一、運動学の部」と「二、電気力学の部」との二部から成っており、第一部の末尾で「われわれは以上で、運動学の理論の要請的法則を示したのであるが、次には電気力学に対するその応用例を導くことにしよう」と述べて、第二部に移っている。アインシュタイン本人の用語法では、「原理」という言葉が当初の両原理の謂いになっていることを承知のうえで、第三者的に彼の体系構制をみるさいには、「第一部」の全体を「原理の探求」に位置づけ、当の「原理」からの第二部的展開が″演繹的″におこなわれていると解することも許され得る道理である。
「理論家の活動は二つの部分に分かれる。第一に、原理を探求すること、第二に当の原理から流出する諸帰結を展開すること」というのは、「プロシャ科学アカデミーにおける就任講演」(1914 )にあるものである。
廣松の指摘なかでの特徴的なことは、第1部「運動学」と第2部「電気力学」の論理展開に違いを強調していることである。第1部は、「演繹」ではなく、「原理的事態」の″可能性の条件″の確定である。これに対して、第2部は、″演繹的″である。そして、第1部を原理の探究、第2部を原理から流出する諸帰結の展開と捉えている。
このような展開が可能になっているのは、廣松渉がアインシュタイン自身の「原理」に対する見解を排して、カッシーラーの函数概念で、アインシュタインの「原理」を解釈したことによっている。
アインシュタインの「原理」は、本人の建前はどうであれ、カッシーラー流にみれば、「個々の観測から抽き出された経験的命題ではなく」「物理学的概念形成のための一つの規則 (Vorschrift 指針 )にすぎない。
この「展開」の論理構制をみるためには、「端初」=原理なるものの性格を顧みておかねばならない。―― アインシュタインは「原理」は論理必然的な手続で措定されるものではないこと、それは帰納的手続によって取出されるものですらないことを自覚していた。「研究者は、経験事実の厖大な複合体に即して、確然と定式化されうる一定の普遍的徴標を観取することによって、普遍的原理を、謂うなれば自然から偸聴(ablauschen)〈廣松は、「偸聴」に「ぬすみぎき」とルビをふっている。―引用者注〉しなければならない」と彼は言う。そして、このようにして「観取」(erschauen)される「原理」は、「経験的事態を一般化して定式化したもの」にほかならない、とも言う。
問題は、この「一般化して定式化」されたものであるが、それが普通の意味での経験的諸事実の現相的記述とは次元を異にする事は更めて言うまでもない。この原理定立の場面での構制をアインシュタイン本人は明識しなかったかぎりで、一方では帰納法的な抽出ではないとネガティヴに述べ、他方では「観取」「偸聴」という比喩的な言い方に止めているが、われわれ第三者の見地からみれば、それは 「概念形成」(Begriffsbildung)の機制に関して、ヘルマン・ロッツエやエルンスト・カッシーラーが夙に説いている方式での 「補完的」(ersetzend)「函数概念化的」な一般化的定式にほかならない筈である。
アインシュタインの「原理」をカッシーラーの函数概念によって解釈し、ローレンツ変換に「原理」を見ること、そして、「原理の探究」と「その原理から流出する諸帰結」を、第1部「運動学」と第2部「電気力学」に対応させることによって、相対性理論のなかに廣松弁証法が生成していると考えることができる。
アインシュタインの「原理」を、カッシーラーの函数概念で解釈することによって、相対性理論のなかに廣松弁証法が生成する。
アインシュタインの「原理」をカッシーラーの函数概念で捉えることは、ある意味で正しい。しかし、これを2つの原理ではなく、ローレンツ変換にみることは間違っているのではないだろうか。
廣松渉は『弁証法の論理』のなかで、次のように述べている。
"原始函数"の整型は、いかに周到におこなわるべきだとしても、所詮は論理必然的な定立ではなく、マルクス式にいえば、「学の体系的方法」の内部には属しません。それにひきかえ、原基として整型・定立された"原始函数"から出発して、それの充当的な展開としておこなわれる体系的論述は、まさに体系構成そのものであり、方法論的に整備されることが是非とも要求されます。
原始函数の整型は論理必然的な定立ではないと断定しているのである。しかし、廣松は『相対性理論の哲学』では、これをすっかり忘れている。
廣松は、第1部「運動学の部」(2つの原理からローレンツ変換の定式を導く)を「原理の探究」つまり「原始函数の整型」と考えている。『弁証法の論理』では、原始函数の整型は論理必然的な定立ではないと述べているから、これと突き合わせてみると、廣松は第1部「運動学の部」を論理必然的でないもと捉えていることになる。これは間違っている。2つの原理(相対性原理と光速度一定の原理)からローレンツ変換を導いていく過程は、論理必然的だと考えられるからである。
「原理」をローレンツ変換にみることはできないのである。
相対性理論における廣松弁証法を支えているのは、「原理」の定立の「二義的二重性」である。廣松は、「原始函数の整型は論理必然的な定立ではない」ことを忘れているから、自信をもって、「二義的二重性」について述べている。しかし、「われわれ第三者の見地からみれば」、不安の現われとみることができる。
「原理」の意味を、アインシュタインの2つの原理からローレンツ変換へと転換することは、理に反している。しかし、この背理を推進しなければ、「原始函数の整形の充当」という弁証法を相対性理論のなかにみることはできないと思われたのである。なんとしても、廣松はアインシュタインの2つの原理と自身が想定する原理(ローレンツ変換)を一体化しなければならない。
畢竟するに、アインシュタインは「原理」として、原始的・基本的″函数″態を措定し、この″函数″の″充当的展開″の手法を採ることにおいて、彼の思念する″演繹的展開″を成就しているのである。が、このさい、「原理」の定立が二義的二重性を帯びる所以となる。彼が「経験的事実の厖大な複合体に即して、確然と定式化されうる一定の普遍的徴標を観取」し、それを「一般化して定式化」するかぎりでの「原理」措定、つまり、特殊相対論における両原理の提示、この第一段は、謂うなれば経験的事態の現相論的記述に類するものである。この直接的な措定では、よしんばミニマルなエンドクサの追認と称され得ようとも、まだ″函数態″の相で確然と定式化されるには到っていない。そこで、当の「経験的事実の一般化的定式」が表現する「事態」について、その「可能性の条件」を確定していく手続を介して、それの存立構造を″函数態″の相で明示的に「確然と定式化」する。この規定を俟って、即自態にあった「端初」(原理)が対自態となり、この″原始的・基本的"″函数〃 の提示が第二段の「原理定立」を意味する次第なのである。
我田引水の譏りを憚らずに言えば、右にみるごとき「端初」(原理)の定立、ならびに、当の″原始的・基本的″″函数″態の″充当″的展開は、筆者が別稿「弁証法における体系構成法」において詳論した構制とまさに照応するかたちになっている。
第1段階がアインシュタインの2つの「原理」であり、廣松は「経験的事態の現相論的記述に類するもの」・「ミニマルなエンドクサの追認」と捉えている。第2段階が、廣松渉がいう「原理」(ローレンツ変換式)で、″函数態″の相で「確然と定式化」と捉えている。第1段階(「即自」)・第2段階(「対自」)という関係を想定することによって、アインシュタインの2つの原理を、カッシーラーの函数概念で包摂しているのである。
「端初」(原理)の定立とは、「原理」をカッシーラーの函数概念でとらえ、アインシュタインの2つの原理をローレンツ変換まで引き延ばす一方で、第1部の終りのローレンツ変換を冒頭の2つの原理まで遡らせることである。まさに、〈「端初」(原理)の定立〉である。原理のアコーデオン構造である。
″原始的・基本的″″函数″態の″充当″的展開とは、第2部のマックスウェルの電気力学がローレンツ変換を満たしていることを指している。すなわち、マックスウェルの電気力学(aα2β2 )が、ローレンツ変換axy(=aα1β1 )と同じ構造の異なった現われであることを指している。廣松がアインシュタインに見る「弁証法における体系構成法」の内実は、たんに「マックスウェルの電気力学がローレンツ変換を満たしていること」だけである。廣松は充当過程を具体的に展開していない。その意味では、廣松は体系構成法としての弁証法を、アインシュタインの論理展開と関係させることなく、提起しているにすぎないのである。それを廣松は感じていたのではないかと思われるのだ。廣松自身が論点を縮小していくのである。
さきに引用した「我田引水」は次のように続いている。
我田引水の譏りを憚らずに言えば、右にみるごとき「端初」(原理)の定立、ならびに、当の″原始的・基本的″″函数″態の″充当″的展開は、筆者が別稿「弁証法における体系構成法」において詳論した構制とまさに照応するかたちになっている。――筆者としては、勿論、アインシュタインの体系構制が十全に弁証法的であると強弁する心算もなければ、況んやアインシュタインが当の構制法を自覚的に採っていると誣いる趣意もない。しかし、第三者的・結果的にみるとき、相対性理論の論理的構制が、筆者がマルクスの「上向法」を推及するかたちで謂う「弁証法的体系構成法」と、或る一定の射影において、構図的・図式的には、吻合する一面をもつことまでは逸せないように思う。
廣松渉の「原始函数の整型と充当」は、マルクスの「下向と上向」に対応する。原始函数の整型は下向に対応する。また、その充当は上向に対応する。
廣松弁証法は上向の過程に関心をもっている。いいかえれば弁証法の体系構成法を問題にしている。
廣松は『弁証法の論理』のなかで次のように述べていた。
"原始函数"の整型は、いかに周到におこなわるべきだとしても、所詮は論理必然的な定立ではなく、マルクス式にいえば、「学の体系的方法」の内部には属しません。それにひきかえ、原基として整型・定立された"原始函数"から出発して、それの充当的な展開としておこなわれる体系的論述は、まさに体系構成そのものであり、方法論的に整備されることが是非とも要求されます。
これは、われわれの弁証法的展開の論理にもほかなりませんし、そこでは「当事主体」と「われわれ」、それに「著者」と「読者」といった契機を絡めた対話的構制が問題になり、遡っては、そもそも論理とは何ぞやということの省察から必要になります。
弁証法的展開は上向の過程で想定されているのである。対話も上向の過程で問題になっている。
「当事主体」と「われわれ」、「著者」と「読者」といった契機を絡めた対話的構制は、ヘーゲルの Nachdenken (結果論的思考)にもとづいた考え方だろう。『弁証法の論理』の展開がわずらわしいのは、このような対話的構制が文体として反映されているからである。上向の過程において、このような対話的構制を扱う必要なく、形骸化した認識の現われであると考える。
一方、わたしの想定する弁証法は、下向の過程に核心を置いている。対話も下向の過程で扱うのである。わたしの弁証法は、体系構成法とはまったく違っている。体系構成(上向の過程)に、わたしが見るものは、形式的な論理過程だけである。
廣松渉は、前節の末尾で引用した〈しかし、第三者的・結果的にみるとき、相対性理論の論理的構制が、筆者がマルクスの「上向法」を推及するかたちで謂う「弁証法的体系構成法」と、或る一定の射影において、構図的・図式的には、吻合する一面をもつことまでは逸せないように思う。〉の「一面をもつこと」に傍点をふり、次のような注を付けている。
アインシュタインには、弁証法的な否定性の論理や対話性の論理が欠けていることなどを指摘するまでもなく、これは体系構成法の外面的形式に関する一面に限られる。
廣松のいう体系構成法の外面的形式に関する一面とは、「原始函数の整型と充当」のことだろう。
廣松は、アインシュタインに「弁証法的な否定性の論理や対話性の論理が欠けていること」を、弁証法として、否定的に見ている。反対に、わたしは弁証法として肯定的に捉えるのである。上向の過程には、形式的な論理過程があるだけで、「弁証法的な否定性の論理や対話性の論理」は必要ないと考えるからである。
『相対性理論の哲学』の優れた点は、アインシュタインの「原理」とカッシーラーの「函数」を結びつけたことである。
問題は、この「一般化して定式化」されたものであるが、それが普通の意味での経験的諸事実の現相的記述とは次元を異にする事は更めて言うまでもない。この原理定立の場面での構制をアインシュタイン本人は明識しなかったかぎりで、一方では帰納法的な抽出ではないとネガティヴに述べ、他方では「観取」「偸聴」という比喩的な言い方に止めているが、われわれ第三者の見地からみれば、それは 「概念形成」(Begriffsbildung)の機制に関して、ヘルマン・ロッツエやエルンスト・カッシーラーが夙に説いている方式での「補完的」(ersetzend)「函数概念化的」な一般化的定式にほかならない筈である。
ただ、廣松は、ローレンツ変換にそれを見た。そして背理に陥ったのである。〈「補完的」・「函数概念化的」な一般化的定式〉をどこで見ればよかったのかと言えば、アインシュタインが冒頭で取りあげている2つの原理(相対性原理と光速度一定の原理)である。
廣松渉は、アインシュタインの「原理の探究」と「その原理から流出する諸帰結」を、「動く物体の電気力学」の第1部「運動学」と第2部「電気力学」に対応させていた。わたしの場合、「原理の探究」は「動く物体の電気力学」を書く前に行われたということになる。また、「その原理から流出する諸帰結」は「動く物体の電気力学」の全体(第1部と第2部)ということになる。
アインシュタインの2つの原理(相対性原理と光速度一定の原理)は、「弁証法的な否定性の論理や対話性の論理」によって、「補完的」・「函数概念化的」に、定式化されたというのが、わたしの見解である。
ひとつの弁証法が消え、ひとつの弁証法が生まれようとしている。
参考文献
アインシュタイン/内山龍雄訳『相対性理論』岩波文庫1988
廣松渉『弁証法の論理』青土社 1980
廣松渉・勝守真『相対性理論の哲学』勁草書房 1986
カッシーラー/山本義隆訳『実体概念と函数概念』みすず書房1979
金子務編『未知への旅立ち』小学館 1991
湯川監修『アインシュタイン選集』3 共立出版 1971