これまで弁証法の例をいくつか挙げている。ニュートン力学の形成過程や電磁波の存在の予言(マクスウェル)、オイラーの公式の成立過程などである。いずれの場合も、選ばれた2つの「論理的なもの」の自己表出と指示表出が対になって形成されるところが核心である。
一つの認識の形成過程において、どのような自己表出なのか、どのような指示表出なのかは、一般的には語りえない。それは、個別に考察されなければならない。それでも、自己表出と指示表出がどのように混成されていくのか一般論は成立する。これまで複素数のモデルを使って示しているが、伝わっているだろうか。もっとわかりやすい説明はないだろうか。日本語の特徴に着目して、「漢字」と「ひらがな」のモデルを考えてみた。
目次
茅野良男氏は『弁証法入門』のなかで、理性と悟性の違いを次のように述べていた。
理論的な認識の範囲は経験です。感性による直覚を通して与えられた多様な現象は、悟性概念つまりカテゴリーと判断力により、綜合され統一を与えられて、認識が成立します。悟性は思考し判断する能力ですが、感性のおよぶ範囲すなわち現象界の内部でのみ、資格と権利をもちます。
悟性を理性とくらべると、理性は原理の能力であり推論する能力であり、悟性のさまざまな規則を原理のもとに統一する能力であります。悟性はカテゴリーを通して現象にかかわり、統一を与えますが、理性はこの悟性の機能をいわば統治するだけであり、現象界と直接のかかわりはもちません。理性は悟性の働き方のすべてを、一つの絶対的な全体に綜合し包括します。
悟性は現象界と関わるが、理性はこの悟性の機能を統治するだけで現象界と直接の関わりをもたない。この違いの説明は、自己表出と指示表出の考え方に新しい一面を切り開いてくれるように思えた。
この悟性と理性の違いは、沢田充茂の記号論を思いおこさせたのである。(『現代論理学入門』)
まず大きくわけて記号には、記号外のなんらかのものと関係をもっているものと、このような記号同士を結びつける働きをする別の記号とがある。たとえば
「〈彼〉が〈信念〉と〈勇気〉とを〈もっている〉ならば〈彼〉は〈その仕事〉を〈なしとげる〉だろう」
という文章のなかで――(引用では〈〉)をそえている語、すなわち「彼」、「信念」、「勇気」、「もっている」、「その仕事」、「なしとげる」などという名詞や動詞は、ある人間やその性質、あるいは事物や出来事の種類、ある種の動作といったものを現わしている。これらはいずれも、それぞれ異なったしかたでではあるが言語以外のあるものとの関係をしめしている。しかし「が」、「と」、「を」、「ならば」、「は」、「だろう」などという言葉は、それが関係するようなどんな対象ももっていない。(中略)
これらの語の働きはむしろ、第一のグループに属する語を材料として(たとえば一つ一つのレンガのようなものとして)、これを意味のある情報あるいは知識(一定の構造をもった記号の配列)に組み立てるための接着剤の働きをしている。(中略)これらの接着剤はそれぞれ違った結合の働きをもっているので、これを規則通りに正しく使用しなければ情報(有意味な知識)をつくることはできない。たとえば
「〈彼〉と〈信念〉を〈もっている〉が〈勇気〉とならば」
というような接着の仕方では何らの情報にもなっていない。
沢田氏は記号を2つのグループに分ける。
1 事物に関係する働きをもつ記号(記号外のなんらかのものと関係をもっているもの)
2 接着剤の働きをする記号(記号同士を結びつける働きをする別の記号)
第1グループの記号は、記号外のなんらかのものと関係をもっているもの、第2グループの記号は、関係する対象をもたない記号である。第2グループの記号の働きは、「事物に関係する働きではなくて、特定の仕方、あるいは規則にしたがって他の記号と記号とをいろいろと結びつけること」である。
「悟性と理性」の違いと「記号の2つのグループ」との違いが正確に対応するように思えたのである。すなわち、悟性は第1のグループの記号と対応する。理性は第2のグループと対応する。
第1のグループの記号は、「名詞」・「動詞」・「形容詞」などであり、第2のグループは「助詞」・「助動詞」・「接続詞」などである。
このグループ分けは、時枝文法でいえば、「詞」と「辞」に対応すると思う。
理性と辞が対応する。悟性と詞が対応する。理性と悟性は自己表出と指示表出と対応しているから、自己表出は辞と対応する。指示表出は詞と対応する。
吉本隆明氏の品詞論は、すべての品詞について、強弱の違いはあるにせよ、自己表出と指示表出の側面を指摘するものである。

わたしは自己表出の側面がもっとも大きい品詞として、「感動詞」ではなく「接続詞」を想定したが、基本的に吉本氏の品詞論と同じような見解を示した。
しかし、わたしは自己表出語と指示表出語を区別しようと思う。厳密に区別できるわけではないので、これはあくまで傾向として述べている。
吉本氏の品詞論は、いわば表出の波動説である。一つの品詞のなかで自己表出と指示表出の2つの契機は並存していて、次の品詞の自己表出と指示表出の契機へとつながっていく。
「彼が信念と勇気とをもっているならば彼はその仕事をなしとげるだろう」
「彼」の自己表出と指示表出、「が」の自己表出と指示表出、「信念」の自己表出と指示表出、「と」の自己表出と指示表出を読んでいくことになる。自己表出の関係性と指示表出の指示性は、一つの品詞のなかで揺れながら、次の品詞へとつながっていく。自己表出を白色、指示表出を黒色とすれば、一つの品詞は、濃淡の差はあるが、灰色として表われ、一つの言明がなされることになる。
これに対して、自己表出語と指示表出語を区別する品詞論は、表出の粒子説ということができる。
「彼が信念と勇気とをもっているならば彼はその仕事をなしとげるだろう」
「彼」の指示表出、「が」の自己表出、「信念」の指示表出、「と」の自己表出を読んでいくことになる。一つ一つの品詞は、白、黒と識別できる。「彼」の指示性を読み、次に「が」の関係性を読む。また「信念」の指示性を読み、「と」の関係性を読む。このように表出の指示性と関係性は非連続的につながって、一つの言明がなされることになる。
波動の場合も粒子の場合も、一つの言明のなかの自己表出と指示表出の総量は同じである。
助詞、助動詞、接続詞など、「辞」を表わすには、「ひらがな」を使う場合が多い。名詞、動詞、形容詞など、「詞」を表わすときは、「漢字」を使う場合が多い。思い切って、「辞」は「ひらがな」、「詞」は「漢字」ということにしよう。
自己表出は関係の表出だが、これは「ひらがな」に表われる。指示表出は「指示」の表出だが、これは「漢字」に表われる。
「〈彼〉と〈信念〉を〈もっている〉が〈勇気〉とならば」。これはこのままでは意味は通じない。指示表出と自己表出が適切に結びついていないからである。
完成されていない認識(論理的なもの)は、すべてこのようなかたちをもっていると想定することができる。
自己表出は理性に基づいている。自己表出は関係の表出であり、「辞」に表われる。指示表出は悟性に基づいていて、指示の表出である。これは「詞」と関連している。助詞や助動詞、接続詞がひらがなで書かれることが多く、名詞、動詞、形容詞が漢字で書かれることが多いことに着目すれば、自己表出は「ひらがな」の表出ということができる。一方、指示表出は「漢字」の表出ということができる。
わたしは弁証法を「対話をモデルにした思考方法で、認識における対立物の統一する技術」であると考えている。これは中埜肇氏の弁証法と上山春平氏の弁証法「を統一したものである。
その具体的な過程はこれまでに提示してきたが、その中で行なわれた自己表出と指示表出の転換の過程をひらがなと漢字を使ったモデルで示したいと思う。
中埜肇氏は弁証法を「対話をモデルとした思考方法」と考え、上山春平氏は「認識における対立物の統一」と考えていた。
しかし、2人とも「論理的なものの三側面」の規定を踏襲していた。いいかえれば、中埜氏は「対話」を分析するさい、上山氏は「問題解決の過程」を分析するさいに、「論理的なものの三側面」の規定と対応させることになんの疑問も持っていないのであった。むしろ、「論理的なものの三側面」と対応させることに分析の成果を見ているのであった。ようするに、2人とも、ヘーゲル弁証法(「論理的なものの三側面」)に束縛されていたのである。
このような2人の弁証法の考えは過渡的なもので、指示表出と自己表出が適切に結びついていない理論と思われた。
わたしは、2人の弁証法の理論をそれぞれ次のように表示することにしよう。
中埜肇 〈対話〉における〈モデル〉の〈思考方法〉
上山春平 〈認識〉を〈対立物〉にした〈統一〉
「論理的なもの」、A =a+bi とA' =c+di である。
弁証法の共時的構造は、選ばれた2つの「論理的なもの」の自己表出と指示表出(中央にある bi + a と c + di)から、混成モメント(両側の a + di と c + bi) が形成される構造を表現している。「媒介性と相補性」を表わしたものである。
(を・にした) ← 〈対話〉における〈モデル〉の〈思考方法〉 → 〈認識〉・〈対立物〉・〈統一〉)+ ↑ ↓ +
(〈対話〉・〈モデル〉・〈思考方法〉)← 〈認識〉を〈対立物〉にした〈統一〉 → (における・の)
右と左で、自己表出と指示表出の混成が起こる。
右側では、diとaから、すなわち、di(〈認識〉・〈対立物〉・〈統一〉)と a(における・の)から、 a + di (〈認識〉における〈対立物〉の〈統一〉)の混成。
左側では、c と bi から 、すなわち、c (を・にした)と bi(〈対話〉・〈モデル〉・〈思考方法〉)から、c + bi (〈対話〉を〈モデル〉にした〈思考方法〉)の混成。
これは、実際には、a + di (「対立物の統一における認識の進行形式」)であり、c + bi (「理想型の対話」)のことである。
弁証法の通時的構造は、認識における対立物の統一の過程を表わしたものである。こちらも次のように表示しておこう。
| 1(選択) | A =〈対話〉における〈モデル〉の〈思考方法〉 |
| A' =〈認識〉を〈対立物〉にした〈統一〉 | |
| 2(混成) | A×A' =(〈対話〉における〈モデル〉の〈思考方法〉)×(〈認識〉を〈対立物〉にした〈統一〉) |
| ≒(〈認識〉における〈対立物〉の〈統一〉)× (〈対話〉を〈モデル〉にした〈思考方法〉) | |
| 3(統一) | = (弁証法は対話をモデルにした思考方法で、認識における対立物を統一する技術である) |