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ひらがな弁証法 2010

 ひらがな弁証法 目次

 まえがき

 第1章 端緒――弁証法と複素過程論

    1 複素過程論――認識の表出論

    2 弁証法と「媒介の論理」

    3 「媒介の論理」と「論理的なものの三側面」 

 第2章 進展1――「対話」と「対立物の統一」

    1 指針

    2 「対話」の問題点

    3 「対立物の統一」の問題点

    4 「試行錯誤」の問題点

 第3章 進展2――弁証法の理論

    1 2つの条件の確認

    2 対話のモデル

    3 対話をモデルにした思考方法

    4 弁証法の複素数モデル

    5 認識における対立物の統一

 第4章 終局――ひらがな弁証法

    1 弁証法の共時的構造と通時的構造

    2 弁証法の図解

    3 マクスウェルの弁証法

    4 正々反合

    5 ひらがな弁証法

    あとがき

    参考文献

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まえがき

 ここ10年ほど、弁証法の考え方について、新しい可能性があるのではないかと思い、その理論化にとりくんできた。このごろ、やっと、形が整ったのではないかと思えるようになった。弁証法は、対話をモデルにした思考方法で、認識における対立物を統一する技術であると主張したいと思う。

 これを「ひらがな弁証法」と名づけたのは、ヘーゲル弁証法が「あれもこれも」、キルケゴールの弁証法が「あれかこれか」といわれているのに対抗して、弁証法を「あれとこれと」と特徴づけたことにはじまっている。 

 わたしたちが提起する弁証法は、選択と統一の弁証法である。それは、次のようにひらがなで表すことができる。

    あれとこれと
    むすんで
    ひらいて  
    ふたつを
    ひとつに
    つなぐわざ

 「対話をモデルにした思考方法」は、中埜肇氏が『弁証法』で主張していた考え方である。一方、「認識における対立物の統一」は、上山春平氏が『弁証法の系譜』で主張していた考えである。

 数多くある弁証法の考え方のなかから、この二つの理論を選択したのには二つの理由がある。一つは、「対話をモデルにした思考方法」と「認識における対立物の統一」という弁証法の核心をついたすぐれた考え方が提起してあったからである。もう一つは、それにもかかわらず、ヘーゲル弁証法に制約されていて、弁証法の核心が十分に展開されていないように思えたからである。

 ヘーゲル弁証法の制約とは、二人の理論において、「論理的なものの三側面」の規定が絶対的な基準となっているということである。

 「論理的なものの三側面」は、『小論理学』で提起されているもので、論理的なものには、次の三つの側面があるという考え方である。

 1 抽象的側面あるいは悟性的側面(悟性としての思惟は固定した規定性とこの規定性の他の規定性に対する区別とに立ちどまっており、このような制限された抽象的なものがそれだけで成立すると考えている。)
 
 2 弁証法的側面あるいは否定的理性の側面(弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である。)
 
 3 思弁的側面あるいは肯定的理性の側面 (思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは対立した二つの規定の統一 、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する。)かっこ内はヘーゲルの説明である。

 この規定は、弁証法的な矛盾の論理を表現したもので、いわゆる正反合の図式の根拠となっているものである。

 「対話をモデルにした思考方法」と「認識における対立物の統一」という考え方は、わたしたちには「論理的なものの三側面」の規定と対応しているとは思えなかった。二つの理論から「論理的なものの三側面」の規定を切り離し、ヘーゲルとは異なった「論理的なもの」の構造を想定することによって、わたしたちは、「対話をモデルにした思考方法」と「認識における対立物の統一」を、完全に展開していくことを試みたのである。

 ヘーゲルは弁証法的論理学を形式論理学よりも高度なものと想定した。ヘーゲルは『小論理学』で次のように述べている。

 思弁的な論理学は単なる悟性の論理学を含んでいるから、前者から後者を作り出すのは、わけのないことである。それには前者から弁証法的なものと理性的なものとを取去りさえすればいい。

 ヘーゲルは悟性の論理学の上に、それと整合的に思弁的な論理学を構築していると考えている。しかし、「有限な諸規定の自己揚棄」と「反対の諸規定への移行」に問題があるとしたら、思弁的な論理学は不安定な基礎の上に構築されていることになる。

 わたしたちは、弁証法的なもの (弁証法的側面あるいは否定的理性の側面)と理性的なもの(思弁的側面あるいは肯定的理性の側面)を取り去ることによって、悟性の論理学までもどり、そこから出発したのである。

 ひらがな弁証法の特徴のひとつは、弁証法のモデルを提示していることである。大雑把にいえば、わたしたちは弁証法を複素数のかけ算で表すことができると考えているのである。

 また、弁証法を思考する主体に結びつけていることも、特徴のひとつである。

 ニュートンによる万有引力の発見やマクスウェルによる電磁波の存在の予言は、ひらがな弁証法と対応する側面をもっているのである。

 ニュートンの場合、「あれ」はガリレイの落下理論、「これ」はケプラーの法則である。マクスウェルの場合、「あれ」はアンペールの法則(エールステッドの法則)であり、「これ」はファラデーの法則である。二人とも、あれとこれと、ひらいてつないで、ふたつをひとつにむすんだと考えられるのである。

 すなわち、ニュートンによる万有引力の発見やマクスウェルによる電磁波の存在の予言は、わたしたちの弁証法の例として意義をもっている。

 提起する弁証法の理論と弁証法の理論をつくっていく過程は一体となっていることに注意をうながしておきたいと思う。わたしたちにとって、中埜肇氏の『弁証法』と上山春平氏の『弁証法の系譜』は、「あれ」と「これ」なのである。

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第1章 端緒――弁証法と複素過程論


1 複素過程論――認識の表出論

 わたしたちは『もうひとつのパスカルの原理』のなかで、複素過程論(注1)を提起した。それは複素数のかけ算をモデルにした創造活動の理論で、認識の構造として自己表出と指示表出を想定していることに特徴がある。自己表出と指示表出は吉本隆明氏が言語の構造として提起していたもので、わたしたちはそれを認識論に応用しようと考えたのである。

 新しい弁証法の考え方を展開しようとしたとき、基礎になると考えたのは、この認識の自己表出と指示表出という構造だった。これを「論理的なもの」の構造と想定することによって、弁証法の理論を構築できるのではないかと考えたのである。

 「論理的なもの」の語源はロゴスである。ロゴスは言葉とか理法という意味を持っているので、「論理的なもの」に言語と同じ自己表出と指示表出という構造を想定することはまちがった選択ではないだろう。

 認識の自己表出と指示表出について説明しておこう。

 認識には大きく分けて認識外の何らかのものと関係をもっている要素と、このような認識同士を結び付け統一する働きをもつ別の要素がある。これは記号に共通する分類である(注2)。

 前者を対象に対する指示を表出すると考えて、指示表出と呼ぶのである。後者は人間主体の対象に対する関係を表出すると考えて自己表出と呼ぶのである。簡潔にいえば、指示表出は指示の表出、自己表出は関係の表出である。

 例えば、周期律の法則を考える場合、具体的な原子の構造や性質の周期性が指示表出にあたり、個々の元素の構造や性質を関連させ、法則として統一させるもの(周期表やパウリの排他原理)が自己表出にあたる。

 武谷三段階論(注3)でいえば、現象論や実体論のうち構造に関する知識が指示表出にあたる。一方、実体論のなかの法則性に関連する知識や本質論は自己表出にあたる。例えば、ケプラーの法則でいうと、観測データや太陽系の構造が指示表出、楕円軌道・面積速度一定・公転周期の関係が自己表出にあたる。

 認識の自己表出と指示表出は、認識の形式と内容に対応するものである。自己表出は関係を表出し形式面を形成する。指示表出は指示を表出し内容面を形成する。自己表出と指示表出は一つの認識においては一体となっていて、切り離すことはできない。

 認識の表出論は言語の表出論を基礎にしている。自己表出が形式、指示表出が内容と対応することは共通している。しかし、わたしたちが独自に展開しているものがある。

 例えば、表出と様相性の関係を想定して、認識の指示表出は偶然性、自己表出は必然性に対応させている。

 また、カントの悟性と理性の違いに関連させ、自己表出と指示表出は、それぞれ理性と悟性を基礎にしていると考えている。なぜなら、悟性はカテゴリーと判断を通して現象界ににかかわるのに対して、理性はこの悟性の機能を統一するだけで現象界と直接かかわらないと想定されているからである。

 また、アインシュタインが良い理論の判定基準としてあげた「外からの検証」と「内からの完成」に関連させ、「外からの検証」は指示表出、「内からの完成」は自己表出と見ている。というのは、「外からの検証」とは、理論は経験事実と矛盾してはならないことを指すからである。一方、「内からの完成」とは観測資料との関係ではなく、理論そのものの諸前提(自然性や単純性、対称性など)にかかわるとされているからである(注4)。

 以上が認識の自己表出と指示表出の説明である。

 さて、このような自己表出と指示表出を基礎にした認識論を複素過程論と名づけたのは、認識と複素数の対応に着目したからである。

 認識は自己表出と指示表出の二つの側面をもつ一つの複合体である。これを表現するのに、複素数ほど適したものはないように思えた。なぜなら、複素数は実部と虚部の二つの側面をもつ一つの数で、これをモデルとすれば二つの側面を同時にあつかえるからである。

 認識の自己表出と指示表出という2側面を、複素数の実数部と虚数部に対応させて、認識や理論を複素数をモデルにして表示したのである。

   (認識)=(自己表出)+(指示表出)i

 ここで、自己表出と指示表出をアルファベットで表す。例えば、一つの認識をA=a+bi で、もう一つを A'=c+diで表す。ここでaとcは自己表出、bとdは指示表出である。

 このように表記し、複素数のかけ算を考えると、認識の媒介過程が見えてくるのである。

    A×A' =(a+bi)×(c+di)
        =(ac−bd)+(ad+bc)i
        =x+yi
        =B

 かけ算は、二つの異なる複素数から一つの複素数が出てくる過程を表している。これを二つの異なる認識から一つの認識が形成される過程を表していると解釈するのである。

 すなわち、二つの認識の自己表出と指示表出を出発点にして、その自己表出と指示表出が関連しあい組み合わされて、新しい自己表出(ac−bd)と指示表出(ad+bc)をもつ一つの認識が形成される過程を表していると見るのである。

 いいかえれば、複素数のかけ算は、これまで捉えられていた指示性と関係性を基礎にして、その組み換えが起こり、新しい指示性と関係性が形成される過程を表現していると解釈するのである。

 A=a+biとしてガリレイの落下理論、A'=c+diをケプラーの法則とした場合、複素数のかけ算は、ニュートンの創造活動と見ることができる。ガリレイの落体理論とケプラーの法則を構成している自己表出と指示表出がニュートンの頭のなかで関係を結び、これまでとは違った自己表出と指示表出をもつ運動法則が形成される過程を表していると考えられるのである(注5)。

注1  複素過程論とバイソシエーション

 複素過程論は創造活動の理論として提出したものである。わたしたちは複素過程論をケストラーのバイソシエーションと基本的に同じものだと考えている。バイソシエーションは、「創造性の三つの領域」(喜劇的微笑、科学的発見、詩的隠喩)をつらぬいている。これに対して、複素過程論は、科学的発見に照準を絞っているところが違っている。

 バイソシエーション(bisociation)は、「単一の論理領界内での定型的な思考(いわば単一平面での思考)」ではなく、「つねに二平面以上で働く創造的な精神活動」を明確にするために、ケストラーが作ったことばである。

 ケストラーが科学史のなかに示すバイソシエーションの例には、潮の干満と月の引力(ケプラー)・磁気と電気(エールステッド)・エネルギーと物質(アインシュタイン)などがある。ケストラーは次のように述べている。(『ホロン革命』) 
  「天球の音楽」を数式化したピタゴラス学派の学者から、空間と時間を一つの連続体に統合したその後継者にいたるまで、パターンはいつも同じだ。科学上の発見は無から有を生みだすものではない。それはもともと関連して存在していながらべつべつに取り扱われてきた概念、事実、脈絡など(つまり精神ホロン)を組み合わせ、関係づけ、統合するものである。この雑種交配(一個の頭脳のなかの自家受粉とも言える)こそ、創造性の本質なのだ。「バイソシエーション」という用語の意味もそこにある。「衝突」を引きおこすため、ユーモリストがいかにして対立する精神構造をバイソシエートさせるかは、すでに前章で述べた。一方、科学者が目指すものは統合であり、それまで無関係とされていた概念の統一である。ラテン語のcogito (考える)はcogitare(混ぜてよくふる)に語源がある。ユーモアにおけるバイソシエーションは、簡単に衝突しまた離れていく対立要素を一緒にしてふることであった。そして科学におけるバイソシエーションは、その時点まで関わりをもたなかった複数の認識のホロンを統合し、知識のヒエラルキーに新しいレベルを付加することだ。

 ケストラーの科学論は、「もともと関連して存在していながらべつべつに取り扱われてきた概念、事実、脈絡」の「組み合わせ」・「関係づけ」・「統合」である。ニュートンはリンゴの落下運動と月の周期的運動をバイソシエートし、知識のヒエラルキーに新しいレベルを付加したといえるだろう。

ところで、ケストラーは、科学的創造性を次のように特徴づけていた。

二と二を合わせて五をつくる──科学的創造性とはそんなものだろう。つまり、これまで関連することのなかったべつべつの精神構造を統合し、新しい統一体からインプットした以上のものをえる、それが科学的創造性である。このほんのちょっとした手品のからくりは、統合体はたんなる部分の和ではなく部分間の関係も表わすという事実にある。新しい統合は新しい関係を生む。それは精神ヒエラルキーの高位のレベルに、より複雑な認識のホロンを生みだす。

 二と二を合わせて五をつくる──わたしたちが着目した表現である。二たす二は四なのに、ケストラーは、あえて五といって、その虚偽性のなかに創造の性質を表現していた。その意味は、統合体が「インプットした以上のもの」であること、「たんなる部分の和ではなく部分間の関係」を表し、「新しい関係」を生むということである。しかし、二たす二は五にならないし、この表現では部分間の関係という側面が的確に表れていないと思われた。わたしたちは、もっと自然な例を数学のなかに求めた。

 それが複素数である。自然数ではなく複素数。たし算ではなくかけ算。自然数のたし算ではなく、複素数のかけ算を創造活動のモデルに選んだのである。

注2  沢田充茂氏の記号論

 沢田充茂氏は『現代論理学入門』のなかで、次のように述べている。

 まず大きくわけて記号には、記号外のなんらかのものと関係をもっているものと、このような記号同士を結びつける働きをする別の記号とがある。たとえば  「〈彼〉が〈信念〉と〈勇気〉とを〈もっている〉ならば〈彼〉は〈その仕事〉を〈なしとげる〉だろう」 という文章のなかで――(引用では〈〉)をそえている語、すなわち「彼」、「信念」、「勇気」、「もっている」、「その仕事」、「なしとげる」などという名詞や動詞は、ある人間やその性質、あるいは事物や出来事の種類、ある種の動作といったものを現わしている。これらはいずれも、それぞれ異なった仕方でではあるが言語以外のあるものとの関係をしめしている。しかし「が」、「と」、「を」、「ならば」、「は」、「だろう」などという言葉は、それが関係するようなどんな対象ももっていない。(中略)
これらの語の働きはむしろ、第一のグループに属する語を材料として(たとえば一つ一つのレンガのようなものとして)、これを意味のある情報あるいは知識(一定の構造をもった記号の配列)に組み立てるための接着剤の働きをしている。(中略)これらの接着剤はそれぞれ違った結合の働きをもっているので、これを規則通りに正しく使用しなければ情報(有意味な知識)をつくることはできない。たとえば
 「〈彼〉と〈信念〉を〈もっている〉が〈勇気〉とならば」
というような接着の仕方では何らの情報にもなっていない。

 沢田氏は記号を2つのグループに分ける。

  1 事物に関係する働きをもつ記号

  2 接着剤の働きをする記号(1の記号同士を結びつける働きをする別の記号)

 第1グループの記号は、記号外のなんらかのものと関係をもっているもの、第2グループの記号は、関係する対象をもたない記号である。第2グループの記号の働きは、「事物に関係する働きではなくて、特定の仕方、あるいは規則にしたがって他の記号と記号とをいろいろと結びつけること」である。

 第1のグループの記号は、「名詞」・「動詞」・「形容詞」などであり、第2のグループは「助詞」・「助動詞」・「接続詞」などである。このグループ分けは、時枝文法でいえば、「辞」と「詞」に対応すると思う。

 言語でも認識でも、第1のグループが指示表出であり、第2のグループが自己表出である。本文でとりあげた周期律の法則と関連させると、原子の構造や性質の周期性は、名詞や動詞に対応する。また法則として統一させる周期表やパウリの排他原理は接続詞や助詞に対応する。

 事物に関係する働きをするのが指示表出である。接着剤の働きをするのが自己表出である。

注3 武谷三段階論の定式

 武谷三段階論は、自然を認識していく過程には質の異なった三つの段階、現象論的段階・実体論的段階・本質論的段階があるという科学方法論として提出されたものである。

 武谷三段階論の定式を確認しておく。(「ニュートン力学の形成について」(『弁証法の諸問題』所収)のなかで次のように述べている。

 以上のことから自然認識が三つの段階をもっていることがわかる。すなわち第一段階として現象の記述、実験結果の記述が行なわれる。この段階は現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのではなく、ただ現象の知識を集める段階である。これは判断ということからすれば、ヘーゲルがその概念論で述べているように個別的判断に当たるものであって、すなわち Dasein の肯定的判断として、個別的な事実の記述の段階であり、 an sich である。これを現象論的段階と名づける。ティコの段階。
  第二、に現象が起こるべき実体的な構造を知り、この構造の知識によって現象の記述が整理されて法則性を得ることである。ただしこの法則的な知識は一つの事象に他の事象が続いて起こることを記するのみであって、必然的に一つの事象に他の事象が続いて起こらねばならぬということにはならない。すなわちこれは post hoc という言葉で特徴づけられるもので、これは概念論の言葉で言えば、特殊的判断と言えるものである。特殊な構造は特殊な事情において特殊な現象をもつことを述べるものである。 für sich の段階でその法則は実体との対応において実体の属性として意味をもつものである。これを実体論的段階と名づける。ケプケルの段階であり、論理はスピノザ的である。
 第三の段階においては、認識はこの実体論的段階を媒介として本質に深まる。これはさきのニュートンの例に示したように、諸実体の相互作用の法則の認識であり、この相互作用の下における実体の必然的な運動から現象の法則が媒介し説明しだされる。すなわちこの段階においては propter hoc という言葉で特徴づけられる。 an und für sich の段階であり、概念論でいえば普遍的判断であり、概念の判断である。すなわち任意の構造の実体は任意の条件の下にいかなる現象を起こすかということを明らかにするものである。これを本質論的段階と名づける。
注4 「外からの検証」と「内からの完成」

 アインシュタインは「自伝ノート」で、ある科学理論を批判し、新しい理論をつくるときの観点(基準)を二つ想定している。一つは「外からの検証」、もう一つは「内からの完成」である。アインシュタインは次のように述べている。

第一の観点は、明白なことで、すなわち、理論は経験事実と矛盾してはならないということである。この要請は一見、あまりに当たり前に思えるものの、その適用はきわめて微妙になる。なぜなら、理論の基盤に、人為的に仮定を付け加えて事実にあうようにしたものを、普遍的な基盤だと固執することは、しばしば起こるからである。いや、むしろひょっとすると常に起こりうるものといってもよいだろう。だが、いずれにせよ、この第一の観点は、実際にある経験データを使って理論の基盤を実証することに関わっている。
 二番目の観点は、観測データヘの関係に関わるのではなく、理論の前提そのもの、すなわち前提(基本概念やそれらの間の基礎的関係のことであるが)の「自然さ」とか「論理的単純性」とかいう、簡潔ではあるが明瞭ではない言葉であらわされるものに関わっている。このように、正確に表現することのきわめてむずかしい観点ではあるが、昔から理論を選択したり、評価したりする際に重要な役割を果たしてきたものだ。ここでたいせつなのは、単に、論理的に独立性をもつ前提(もしそのようなものがそもそも一義的に可能であったらの話であるが)を数えあげるようなことではなく、むしろ同一尺度でははかれない性質を相互に比較考量することなのである。さらに、同じように「単純な」基盤をもつ理論のうちでは、系自体に備わった性質をもっとも強く限定している(すなわち、もっとも明確な命題を含む)ものが、優れているとみなされるのである。

 第一の観点が「外からの検証」、第二の観点が「内からの完成」である。第一の観点が指示表出、第二の観点が自己表出である。

注5 複素過程論の例 中埜氏と上山氏の場合

 中埜肇氏の弁証法をA=a+bi で、上山春平氏の弁証法を A'=c+diで表す場合を示しておこう。

 中埜氏の指示表出(b)は、対話の分析、理想型の弁証法の提示、現実型の弁証法の要約などからなり、その自己表出(a)は、弁証法を「対話をモデルにした思考方法」と捉えていることを指す。  上山氏の指示表出(d)は、問題解決の過程の分析、「論理的なものの三側面」の歴史的・論理的な分析、止揚の位置づけなどから成り立ち、その自己表出(c)は、弁証法を「認識における対立物の統一」と捉えていることを指す。

 この場合の複素数のかけ算は、中埜肇氏の弁証法と上山春平氏の弁証法から、二つの弁証法を構成している自己表出と指示表出が関係を結び、これまでとは違った自己表出と指示表出をもつ弁証法が形成される過程を表すことになる。(わたしたちが、これから試みることである。)

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2 弁証法と「媒介の論理」

 弁証法の理論を探究しようと思った経緯について述べよう。

 わたしたちは吉本隆明氏の表現論を認識論に応用して、認識の形成過程のモデルを作った。二つの異なる認識の自己表出と指示表出が組み合わされて、新しい自己表出と指示表出が形成され、新しい一つの認識が生まれるというモデルである。

 しかし、このモデルは、複素数のかけ算が、二つの認識を外的に関係づけているだけであった。自己表出と指示表出を基礎にして内的に把握できていないように思っていたのである。 

 そこで、わたしたちは認識の形成過程をさらに分析していくために、価値形態論に手がかりを求めていた。すなわち、二つの商品(リンネルと上着)が対立するとき、それぞれの商品の価値と使用価値にどのような関係が新しく生まれてくるかという点に着目していた。二つの商品の価値と使用価値の関係が、二つの認識の自己表出と指示表出の関係に転移できないかどうかを模索していたのである。

 そのころ、許萬元氏の『弁証法の理論』を読む機会があったのである(注6)。許萬元氏は、弁証法を三つの法則 (「量から質への転化、またはその逆」・「対立物の相互浸透」・「否定の否定」)に集約する見方(唯物弁証法)や正反合の図式を批判し、弁証法の本質論として、内在主義・歴史主義・総体主義の三位一体論を提起していた。わたしたちは、これまでに見たことのなかったアプローチの仕方に興味をもった。

 許萬元氏は、その本のなかでヘーゲルの「媒介の論理」を紹介していた。それは、ヘーゲル弁証法の「端初―進展―終局」の進行の特徴を指摘するために、『法哲学』から引用されているものだった。この「媒介の論理」が端緒になった。

 まず、ヘーゲルの「媒介の論理」、次に許萬元氏による解説を取り上げる。それは次のようなものである。

 ヘーゲルの「媒介の論理」

 「対立関係に立って一方の極に位置を占める一定のモメントが、同時に、中間項となることによって、極であることをやめ、有機的なモメントとなるということは、もっとも重要な論理的洞察に属する。」
 許萬元氏のよる解説
 媒介者はあくまで対立関係の内部から生じなければならないが、それは対立のうち、一方が同時に媒介者の地位を獲得することによって生じる、とヘーゲルは説くのである。この媒介者こそは、両極の自立性を否定し、それらを自分のモメントとなすところの「主体」なのである。

 わたしたちはヘーゲルの媒介の論理を一面的で、順序が逆ではないかと思ったのである。それは 、媒介するのは対立する一方の極に位置を占めるモメントではなく、対立する両極に位置を占めるモメントが両方とも関係するのではないかと考えようとしていたからである。また、中間項になることによって極であることをやめるのではなく、極であることをやめることによって中間項になると考えようとしていたからである。

 ヘーゲルの「媒介の論理」は、わたしたちの試みを照らし出す「鏡」の役割をしていたのだと思う。

 ヘーゲルの「媒介の論理」の中にある「対立関係」や「極」ということばが、参考にしていた価値形態論を喚起したのだろう。「両極」には、相対的価値形態と等価形態の両極構造が対応していた。また、対立する両方の極に位置を占めるモメントには、異なる二つの認識が対応していたと思う。異なる二つの認識が、リンネルと上着と同じように、個別的に、偶然的に出会い対立している図が浮かんでいたのである。

 もちろん、このときヘーゲルとは異なる「媒介の論理」がはっきりと見えていたわけではない。ヘーゲルの「媒介の論理」を一面的な論理として否定的に見ているだけであった。

 しかし、大きく状況が変化した。わたしたちの課題と直接的な関連があるとは思えなかった「弁証法」が、探究の中心に位置しているのではないかという気がしたのである。複素過程論の「媒介の論理」を探究していくことが、弁証法の核心に通じていくのではないかという思いがしたのである。

 ヘーゲルは、両極の自立性を否定し両極を自分のモメントとする媒介の主体を、対立の一方の極に想定した。しかし、これとは違う「媒介の論理」があるのではないのか。いいかえれば弁証法の新しい可能性があるのではないかと思ったのである。

 わたしたちは弁証法に関する文献を参照し始めた。複素過程論を展開していくことと弁証法の新しい理論を提起することは同じ一つの試みになったのである。

注6 許萬元氏の弁証法の理論

 許萬元氏の弁証法の理論には次のような特徴がある。(ウキペディア参照 わたしたちが投稿した記事である)

1 弁証法の三大特色
 ヘーゲルが弁証法の創始者としてゼノン・ヘラクレイトス・プラトンをあげていること(『哲学史講義』)に着目して、ヘーゲルは出自の異なる三つの弁証法(内在的弁証法・生成の弁証法・総体性の弁証法)を一つに統一したと考え、弁証法の三大特色として、内在主義・歴史主義・総体主義を指摘した。
 内在主義とは対象を自己運動として把握すること、歴史主義とは過程・否定性に真理をみること、総体主義とは有機的体系・肯定性に真理をみることである。三つの特色はヘーゲルにもマルクスにも共通するが、内容は異なっている。
 
2 弁証法の二大機能
 「論理的なものの三側面」の規定(ヘーゲル『小論理学』)に着目して、弁証法の二大機能として、理性の否定作用と理性の肯定作用を指摘した。理性の否定作用が歴史主義の原理である。また、理性の肯定作用が総体性の原理である。
 
3 矛盾論 
 概念の自己運動と矛盾の同等性を主張し、矛盾に2種類あることを指摘した。否定的理性の必然性にもとづく「闘争矛盾」と肯定的理性の必然性にもとづく「調和矛盾」である。
 
4 ヘーゲルとマルクスの弁証法の違い
 ヘーゲルとマルクスの弁証法の違いは、観念論か唯物論かという前提だけでなく、内的な構造にも違いがあることを指摘した。前提の違いは、内在主義の内容の違いに対応する。内的構造の違いは、歴史主義と総体主義の統一の仕方の違いに対応する。 
 ヘーゲル弁証法の統一構造は、「論理的なものの三側面」に示され、「絶対的総体主義にもとづく歴史主義」である。これに対して、マルクスの弁証法は「絶対的歴史主義にもとづく総体主義」である。

 ヘーゲル弁証法の統一構造は、「論理的なものの三側面」である。しかし、許萬元氏は、マルクス弁証法の統一構造(「絶対的歴史主義にもとづく総体主義」)に対応する「論理的なものの構造」について、なにも展開していない。

 弁証法の内的構造の違いを「論理的なものの構造」の違いとして表現するという問題意識は許萬元氏にはないのである。

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3 「媒介の論理」と「論理的なものの三側面」

 許萬元氏は、ヘーゲル弁証法は「論理的なものの三側面」の規定に集約されることを強調していた。ここでヘーゲルの「論理的なものの三側面」の規定を確認しておこう。これは、『小論理学』の79節から82節にかけて展開されているものである。

 論理的なものは形式上三つの側面を持っている。(1)抽象的側面あるいは悟性的側面、(2)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面、(3)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面がそれである。
 これら三つの側面は、論理学の三つの部分をなすのではない。それらはあらゆる論理的存在の、すなわち、あらゆる概念あるいは真理のモメントである。
 
  (1)抽象的側面あるいは悟性的側面
 ―悟性としての思惟は固定した規定性とこの規定性の他の規定性に対する区別とに立ちどまっており、このような制限された抽象的なものがそれだけで成立すると考えている。
 
  (2)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面
 ―弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である。
 
  (3)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面
 ―思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは対立した二つの規定の統一 、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する。  

 ヘーゲルの「論理的なもの」の特徴は、三側面論がそのまま三段階論になっていることである。逆にいうと、進展の形式がそのまま「論理的なもの」の側面と想定されていることである。

 許萬元氏はヘーゲルの定式から弁証法の二大機能を読み取り、それを「否定の否定」と呼んでいる。これは(1)悟性的側面から弁証法的側面への移行と(2)弁証法的側面から思弁的側面への移行に着目したもので、1 理性の否定作用と2 理性の肯定作用を指している。

 許萬元氏は次のように述べている。

 以上に見るように、「弁証法」は「悟性」や「思弁」と不可分的に結びついているのであって、それだけが自立的にとり出されることは不可能なのである。しかも重要なことは、「弁証法」はそれら両者への関係にしたがって、二大機能をもっている、という点なのである。
 この「弁証法」の二大機能を、われわれは「否定の否定」と呼ぶことができる。なぜなら、「弁証法」の二大機能とは、二重の否定作用を意味しているからである。まず第一の否定作用はあらゆる「悟性的なもの」にたいする否定作用であり、第二の否定作用はその否定作用そのものの否定、すなわち、「弁証法」の「思弁的側面」への自己止揚である。

 また、「端初→進展→終局」(「思弁的方法のモメント」)と結びつけて、次のように述べている。

 かくして今や、弁証法の二大機能は次のように定式化されうる。すなわち、「弁証法」の第一の機能は、あらゆる悟性的「端初」をたえず「進展」の過程のうちへ否定していくことであり、第二の機能は、「進展」の過程そのものを否定して、その肯定的成果を全面的に「総体性」として保存し組織せしめることである。

 許萬元氏が「論理的なものの三側面」の定式から、「否定の否定」を読み取ることは正しいと思う。しかし、ヘーゲルの定式と比べると、ずれが生じているのではないだろうか。許萬元氏は、「対立」を捨象していて、「対立」に言及していないのである。

 強調していえば、許萬元氏は「対立」ということばを注意深く避けているように見える。

 「悟性―弁証法」の関係においては、「反対の諸規定への移行」を回避していて、悟性が固定化する限界を内在的に否定していく過程として把握している。

 また、「弁証法―思弁」の関係においては、進展の否定的な過程を止揚して体系としてまとめあげられることを強調していて、「対立した二つの規定の統一」を避けている。

 おそらく、ヘーゲルの定式の正確な要約は、松村一人氏のものではないかと思われる。

 松村一人氏は、進展の形式を「対立する一項の内在的否定による進展」(『ヘーゲルの論理学』)と要約していた。そしてこの進展の原因は「矛盾」にあると見ていた。ここで矛盾とは論理学でいう矛盾ではなく、「或るもの(或る事物あるいは或る側面)が自分自身のうちにその自己否定、他のものを含んでいるということ」を指す。これはヘーゲルの特異な見方から導かれたものである(注7)。

 ヘーゲルの「媒介の論理」と「論理的なものの三側面」を読み比べているうちに、ヘーゲルの「媒介の論理」は、「対立する一項の内在的否定による進展」(松村一人)と正確に対応していると思われてきた。

 「対立する一項の内在的否定による進展」とは、「対立の一項のうちに他の項が即自的に存在していることを見いだして、これによって他の項に移り、さらに両者の統一を理解すること」を意味している。これは「対立関係に立って一方の極に位置を占める一定のモメントが、同時に中間項となり、極であることをやめること」、また「対立のうち、一方が同時に媒介者の地位を獲得することによって生じること」と重なっていると考えられるのである。

 「論理的なものの三側面」の要約としては、「対立」が入っている松村氏の「対立する一項の内在的否定による進展」の方が正しいと思う。しかし、「対立」を捨象する許氏の「否定の否定」も捨てがたいのである。なぜなら、ヘーゲルの「対立」から自由になっていて、別の「対立」を導入することができるからである。そして、それを複素過程論と関連づけることができるからである。

 許萬元氏はヘーゲルの「媒介の論理」を継承する。しかも、許氏は次のような媒介の可能性を否定して継承していたのである。 

 それは対立関係の関係そのものが媒介の役割を果たすという可能性である。また、媒介者は対立関係の関係そのものが自立化することによって生じるという可能性である。

 わたしたちにはこの可能性が、複素過程論の「媒介の論理」の核心ではないかと思われた。しかし、許萬元氏はこの可能性を指摘するが、すぐに否定していたのである。

 媒介者はあくまで対立関係の内部から生じなければならないが、それは対立のうち、一方が同時に媒介者の地位を獲得することによって生じる、とヘーゲルは説くのである。この媒介者こそは、両極の自立性を否定し、それらを自分のモメントとなすところの「主体」なのである。前に述べたように、「進展」は矛盾的な反省関係であり、判断であった。たしかに、そこにおいても媒介はあった。たとえば、対立関係においては関係そのもの、判断においてはコプラが媒介の役割を果たしている。だから、媒介者の出現は、その関係やコプラにあたるものが自立化し、両者を自分のモメントとして止揚することによって生じるともいいうるであろう。とはいえ、歴史的過程そのものにおける「闘争矛盾」の場合には、すでに述べたように、そうした媒介者は存在することができないであろう。だからこそ、マルクスは「現実の両極は相互に媒介されない。また何の媒介も必要としない。なぜなら、それらは対立する本質であるから」といったのである。だが、注目すべきことにその同じマルクスが、ブルジョワ的経済関係の体系的認識の立場に立ったときには、やはりヘーゲルと同じ媒介の論理を展開しているのである。

 この中の「闘争矛盾」というのは、許萬元が歴史過程の原動力として想定しているもので、否定的理性の必然性にもとづいた矛盾のことである。歴史主義である。

 許萬元氏が対立関係の関係そのものに媒介者を見る「媒介の論理」の可能性を指摘するだけで、その可能性を探究しなかったのは、歴史主義(理性の否定作用)と総体主義(理性の肯定作用)の捉え方によるものと思われる。すなわち、歴史主義(理性の否定作用)と総体主義(理性の肯定作用)を段階的に捉えていて、歴史主義(理性の否定作用)には止揚の役割を認めず、総体主義(理性の肯定作用)だけに止揚の役割を担わせているからである。(注8

 許萬元氏は過程には媒介者を想定していないのである。対立関係の関係そのものが自立化していく過程は、過程であるがゆえに、ここには媒介者の出現を認められないのである。 

 一方、わたしたちは、対立関係の関係そのものに媒介者をみる可能性に、複素過程論の「媒介の論理」の可能性を重ねた。対立関係の関係そのものを、両極の自立性を否定し両極を自分のモメントとする「主体」と捉えれば、ヘーゲルとは異なる「媒介の論理」が具体化していくのではないかと考えたのである。

 ヘーゲルの「媒介の論理」に対する疑問は、「論理的なものの三側面」の規定に対する疑問として明確になってきたのである。

注7 松村一人氏の矛盾論
 
 松村一人氏は『ヘーゲルの論理学』のなかで、ヘーゲル矛盾論の形成過程を提示している。紹介しておきたいと思う。その過程はおよそ次のようである。
 
  1 相関性と矛盾の混同
  2 混同を根拠にした対立から矛盾への移行
  3 新しい矛盾の提示
 
   1 相関性と矛盾の混同

 ヘーゲルは相関関係を矛盾に仕立てる。ヘーゲルは相関性にアリストテレスの矛盾律を適用する。そして相関性において矛盾律が破られているかのような展開をする。しかし、この展開は間違っていると松村氏は強調している。
  ――まず第一に指摘しなければならない点は、ヘーゲルが対立の相関性そのもののうちに論理的矛盾を見出しているということである。ヘーゲルが相関性を論理的矛盾に仕上げる手続きは、次のように行われている。
 相関性(ヘーゲルの言葉で言えば反照の関係)のうちにある二つの側面、例えば上下、左右などの各側面をとってみると、そこには一方は他方から区別され、しかも一方は他方なしに存在しないという関係がある。ヘーゲルはこれを次のようにして論理的矛盾につくりあげるのである(ヘーゲルはこれについて色々の言いかたをしているが、わたしはそのうちでもっとも簡単で明白なばあいを一つだけあげることにする)。
 
 「〔対立物の〕各々は、第一に、他方が存在するかぎりにおいて存在する、……第二に、それは他方が存在しないかぎりにおいて存在する。」(『大論理学』)
 
 右の文章のうちで、「他方が存在する」および「他方が存在しない」という表現をうっかり読むと、相関性においては矛盾律が破られているように見える。しかし、もっとよく考えてみると、このばあい二つはけっして「同じ意味で」は言われていないことがわかる。他方は存在し、また存在しないといわれるが、それはいったいどこに存在し、また存在しないのか。「存在する」と言われるばあい、それは右にたいして左が右の外に存在することを意味する。「存在しない」と言われるばあい、それは右が左のうちには存在しないこと、両者が空間的に区別されていることを意味する。ここに相関性についてのどんな独自の論理があろうとも、それは少なくとも論理的矛盾ではない。
   ここに誤解の発端があるのである。
 
   2 混同を根拠にした対立から矛盾への移行
 ――われわれはすでに、ヘーゲルが「対立」の各側面のうちにどのようにして論理的矛盾を見出してくるかを見た。そしてそこに見出されるとヘーゲルが考える論理的矛盾が、ヘーゲルにおいて「対立」から「矛盾」への橋渡しをなしているのである。
   対立の相関性と論理的矛盾との混同。不安定な基礎の上に矛盾論は築かれているのである。
 
   3 新しい矛盾の提示
 ――このヘーゲルの難解さは、一口に言えば、次の点にある。すなわち、一方ではヘーゲルは「対立」そのもののうちに「矛盾」を発見するのであるから、「対立」と「矛盾」とは同じものであるように見える。ところが他方ではヘーゲルは「矛盾」のうちで或る新しい事態について述べているようにも見える。つまりヘーゲルの「矛盾」は「対立」とちがっているようにも見える。
   この問題をときほぐしていくためには、われわれはまずヘーゲルが「矛盾」のもとでどういう事態を考えているかを、はっきり見定めなければならない。かれが「対立」と区別して「矛盾」のもとで新しく言おうとすることは何であろうか。
 それは、かんたんに言えば、或るもの(或る事物あるいは或る側面)が自分自身のうちにその自己否定、他のものを含んでいるということである。
 「対立」から「矛盾」への移行について言えば、ヘーゲルはまず右のような事態を「対立」の各側面のうちに見出し、そして今度は広くこのような事態そのものを「矛盾」という新しいカテゴリーとするのである。このようにするといまやヘーゲルはこの「矛盾」という事態を、相関の各側面にのみとどまらず、事物一般に適用することができるようになる。
 例えば、生あるものが死を自己のうちに含むというように理解することができるようになる。ヘーゲルが「すべて世界を動かすものは矛盾である」と言うばあい、ヘーゲルは「矛盾」という概念をそのような意味で用いているのである。かんたんに言えば「対立」においては二つのものが相互に向かいあっている事態が考えられていたのが、「矛盾」においては、自己のうちにその否定が内在するという事態が考えられてくるのである。
 
 以上が、松村一人氏が指摘しているヘーゲル矛盾論の形成過程である。
注8 歴史主義と総体主義のつながり方
 
 歴史主義と総体主義が分断されているのではないかという疑問は、島崎隆『ヘーゲル弁証法と近代認識』の中にも見ることができる。氏は次のように述べている。〈ただし許氏にも、〈悟性―弁証法〉と〈弁証法―思弁〉が切れているという印象が残らないわけではない。というのは「歴史主義の原理」としても、三側面すべてが関わるからである〉。
 
 つまり、歴史主義は悟性的段階から弁証法的段階で確立するのではなく、思弁的段階へ進むことによってはじめて成立すると島崎隆氏は考えている。また、総体主義も弁証法的段階から思弁的段階で確立するのではなく、悟性的段階から始まり弁証法的否定を媒介して思弁的段階で成立すると考えている。
 
 いいかえれば、許萬元氏が歴史主義を〈悟性―弁証法〉と捉え、また総体主義を〈弁証法―思弁〉と分断して捉えているのに対して、島崎隆氏は、歴史主義も総体主義も〈悟性―弁証法―思弁〉と一貫して捉えるべきであると主張しているのである。
 
 最初に歴史的、次に総体的という順序ではなく、最初から歴史性と総体性が、同時的に進行していくという方向を示唆していて、妥当な指摘だと考える。

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第2章  進展1 「対話」と「対立物の統一」


 1 指針

 弁証法に関連する文献を読んでいくうちに、次の三つの理論に照準を合わせればよいと思われた。

   1 中埜肇『弁証法』

   2 上山春平『弁証法の系譜』

   3 ポパー「弁証法とは何か」(『推測と反駁』所収)

 中埜肇氏は弁証法が「対話をモデルにした思考方法」であること、上山春平氏は弁証法が「認識における対立物の統一」の過程であることを提示していた。また、ポパーは弁証法に「試行錯誤の理論」を対置していた。

 わたしたちは複素過程論の「媒介の論理」を、「対話をモデルにした思考方法」と「認識における対立物の統一」に見出したのである。しかし、中埜肇氏と上山春平氏においては、「対話をモデルにした思考方法」と「認識における対立物の統一」は、「論理的なものの三側面」の規定と結ばれていた。

 わたしたちは「対話をモデルにした思考方法」と「認識における対立物の統一」を、「論理的なものの三側面」の規定から分離し、自己表出と指示表出に結びつけることによって、新しい弁証法の理論を「試行錯誤の理論」のなかで展開できるのではないか考えたのである。

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 2 「対話」の問題点

 中埜肇氏は、弁証法を「対話をモデルにした思考方法」と捉えている。

私は弁証法というものを単なる「技術」から一歩進めて「方法」として、しかも「思考の方法」としてとらえるべきであると考える。すなわち弁証法は論理でもなければ、法則でもなくて、ひとつの「思考方法」なのである。しかも「弁証法」の語源は「対話」であった。さらにこの場合に、語源とはただ弁証法の言語的・歴史的な起源を示すだけでなくて、実はむしろそれの本質的な始元、言い換えればその意味内容の原点を示すものであると私は考えた。したがって弁証法は「対話をモデルにした思考」、すなわち本質的・根源的に「対話的思考」だということになる。これが弁証法を考察する場合の私の出発点である。

 中埜氏が弁証法は論理でもなければ、法則でもないといったとき、スコラ的な弁証法的論理学や唯物弁証法の三大法則(量質または質量の転化・対立物の相互浸透・否定の否定)が念頭にあったのだと思う。中埜氏はマルクス主義の偏向した弁証法の理論ではなく、弁証法の原点に立ち返り、一つの思考方法として弁証法を捉える姿勢を示していると考える。

 中埜氏が依拠している「対話」の意味内容は、〈参加者が話題を分割し、相互に相手の立場を理解しあいながらテーマを共同して追求し、これを深めてゆくような語り合い〉である。これはギリシア語のディアレクティケー(対話)の接頭辞ディアが「分割・区別・分離という意味のほかに、完全な遂行とか競争とか、ある事柄に多数のひとが参加するという観念を含む」ことを考慮したものだという(注9)。

 弁証法を「対話をモデルにした思考方法」とする中埜肇氏と同じ出発点に立ち、わたしたちの弁証法を展望していこう。

 中埜肇氏は、弁証法は「対話をモデルにした思考方法」であるという立場から、対話の構造的特徴と弁証法の思想的な構造をそれぞれ分析し、両者を比較している。その分析をたどり、問題点を出して、「対話」がもたなければならない特徴をまとめてみることにする。

注9 接頭辞ディア

 弁証法に関連するのは、ギリシア語のディアレクティケー(形容詞)、ディアロゴス(名詞)、ディアレゲイン、ディアレゲスタイ(動詞)である。  接頭語ディア(分かつ、区別する)が共通している 。ディアについて、茅野良男氏は『弁証法入門』のなかで次のように紹介している。「ディアという接頭語は、もともと二つの間に、という意味で、英語のスルーとかデュアリングとかの意義をもち、したがって、分かつ、弁別するという意義をもちます。フーリキエは、ディアはこの場合、相互または交換という意義であると説明します。」  わたしたちの試みは、ディアの持つ可能性を引き出すことといえると思う。それは「分かつ、区別する」を基礎において、「完全な遂行」、「二つの間に」、「相互または交換」という意義を把握しようとするものである。

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 (1) 対話の特徴

 まず、対話の構造的特徴を見ていこう。

 中埜肇氏は対話の構造として、次のような10個の特徴をあげている。

     1 二個の主体
     2 共通の話題
     3 対立と否定
     4 媒介性と相補性
     5 一致和解
     6 時間性と連続性
     7 発展
     8 真理発見の方法
     9 分析と総合
     10 目的性と必然性

 このうちいくつかを見ておく。

    1・2(「二個の主体」「共通の話題」)
 対話はTという共通の話題について、AとBとの二人が行う二つの発言TaとTbとの間に初めて成り立つ。ここでTは本質的に多義的であり、発言TaとTbは一義的である。
 
 
    3(「対立と否定」)
 対話が成り立つためには、TaとTbとの間に、時間的な継起(前後)関係とならんで、一定の必然的な内容的連関が必要である。Taは有限であるから、みずからのなかに否定性(欠陥)を含む。その否定性が断定によって明確化される。この明確化にともなって、Taをそのままでは承認せず、またそれを補うようなかたちで、Taに対立するTbが喚起される。しかもこの時、ほかならぬTaに、ほかならぬTbが否定的に対立するのであって、両者の対立関係は明確に一義的である。
 
    4(「媒介性と相補性」)
 TaとTbとは相互に否定し合いながら相互に肯定し合うというかたちで、対立の中で共存している。対立的共存の関係を相互媒介という。そして相互媒介の関係にあるものは、相互に補い合っている。対話するTaとTbとは相互媒介と相互補完においてある。
 
    5(「一致和解」)
 TaはTbによって否定されながらもTbと内容的に結びつき、TbもTaによって、内容的な働きかけを受け、両者は相互媒介によって総合されてTmとなる。TmはTaとTbよりも内容的にはいちだんと高められ、豊かになる。
 
 
    6(「時間性と連続性」)
 はじめにTaがある。次にそれからTbが喚起される。そしてTaとTbとの間に対立・媒介関係が生じ、そのあとで両者の一致和解としてTmが得られる。このような時間的な推移は対話にとって基本的な要素である。
 
 
    7(「発展」)
 Tmは多くの場合、究極的な結論ではなく、その場かぎりの暫定的なものである。

 中埜肇は台風の進路の例をあげている。

    Ta「次の台風は北西に進んでいる」
    Tb「しかし上空の偏西風のためにそれは進路を北に振るだろう」
    Tm「次の台風は偏西風の影響を受けて北北西に進路を変えるだろう」

 Taに対してTbが「しかし」で関係するとき、はじめて対話が成立するといっている。

 以上が、中埜肇があげている対話の特徴である。

 (2) 弁証法の思想構造

 次に、理想型としての弁証法の思想構造を見ておこう。

 ここで理想型は現実型と対比して用いられている。現実型とはヘラクレイトス、プラトン、ヘーゲルなど歴史上、実際に提出された弁証法の理論を指している(注10)。これに対して、理想型は対話の語源を考慮して、中埜肇氏が弁証法の本質と考えるものである。次の5点にまとめている。

 中埜肇氏は、理想型の弁証法を現実型のヘーゲル弁証法に近いものと考えていることがわかる。かれの指摘で特徴的なのは、「弁証法的側面」(否定的理性的側面)を強調していることである。とくに、aとbは「弁証法的・否定的理性的側面」そのままのように見える。

 注10 現実型の弁証法

 
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(3) 対話と弁証法の対応

 このように中埜肇氏は弁証法の理想型を5点に要約し、先の対話の10の特徴と比較する。

 私は弁証法の構造的な特徴はおおむね以上の5点に要約されると考える。そしてこの5点は対話の構造的な特徴として挙げた10点をすべて含んでいる。(詳しく見れば、aーeは3ー7に対応し、1と2とは対話が成立するための前提条件であり、8、9、10は構造というよりもむしろ内容的な特徴として、対話と弁証法に共通する。)こうして弁証法の理想型、つまりあるべき弁証法の具備する条件が確認されたことになる。

 しかし、カッコのなかを読めば、弁証法の5つの構造的な特徴は、「対話の構造的な特徴として挙げた10点をすべて含んで」いないと解釈してよいのではないかと思う。8真理発見の方法、9分析と総合、10目的性と必然性については問わない。

 ここで問題にしたいのは、1「二個の主体」、2「共通の話題」である。この二つは対話が成立するための前提条件という理由から、構造的な特徴としては取り上げられていない。弁証法の構造的な特徴から外されているのである。

 そして、3対立と否定、4媒介性と相補性、5一致和解、6時間性と連続性、7発展だけが構造的な特徴としてとりあげられている。

 しかし、対話が成立するための前提条件は、弁証法の構造的な特徴と関係しないのだろうか。中埜氏は関係しないと考えている。次のように強調しているからである。「最初から対立があるのではなく、対立はすべてのものの有限性・否定性から必然的に生じてくる」と。

 中埜肇氏は弁証法の理想型を予想しながら対話を分析している。このとき「弁証法的・否定的理性的側面」の規定が、対話の分析のなかに侵入してきたのではないだろうか。

 対話の特徴の3(「対立と否定」)が、それを証言しているように思える。確認しておこう。「Taは有限であるから、みずからのなかに否定性(欠陥)を含む。その否定性が断定によって明確化される。この明確化にともなって、Taをそのままでは承認せず、またそれを補うようなかたちで、Taに対立するTbが喚起される」。

 中埜肇氏の「対話」は、ヘーゲル弁証法をモデルにした「対話」になっていて、ヘーゲルから独立した「対話」ではないのである。

 中埜肇氏は対話の成立条件を二つあげている。

    (1) 時間的な継起(前後)関係

    (2) 一定の必然的な内容連関

 これはTaからTbへの展開に対して想定されているものである。しかし、これは「二個の主体」を対話の構造的な特徴から外しているために、要請された対話の成立条件ではないだろうか。「二個の主体」を対話の構造的な特徴として設定すると、対話の成立条件は中埜肇氏の条件とは正反対になると考える。

 (1)は同時であってかまわない、むしろ同時でなければならない。中埜肇氏は二つの発言が同時になされた場合、対話とはいえないと主張している。そして、その理由を「二人の語り手は双方とも全然相手の言うことを聞いていないし、聞くこともできないからである」と述べている。たしかに現実の生活のなかでの対話は指摘の通りであろう。しかし、二つの発言の同時性は日常のレベルではなく、本質的なレベルで想定すべきだと考える。

 また、(2)は偶然でかまわない、むしろ最初は偶然でなければならないと考える。

 対話の成立条件は次の二つである。

    (1) 同時性

    (2) 偶然性

 TaとTbという「二個の主体」がはじめから一義的にあり、対立するのである。TaとTbは、「しかし」で結ばれている必要はないのである。TaとTbの間に一定の必然的な内容連関が生じてくるのは、TaとTbの対立のあとからなのである。

 台風の進路の例にそろえておこう。「しかし」がなくても成立すると思われる。

  Ta「次の台風は北西に進んでいる」
  Tb「次の台風は偏西風のため進路を北に振るだろう」
  Tm「次の台風は偏西風の影響を受けて北北西に進路を変えるだろう」

 有限だから否定性を内在していて、対立が生まれてくるのではない。逆である。対立するから有限となり、否定性が生まれてくるのである。

 中埜肇氏はヘーゲル弁証法に対話の構造を読みとっていることになる。しかし、ヘーゲル弁証法に対話をみる研究者は少ないのではないだろうか。

 廣松渉氏は『弁証法の論理』のなかで、ヘーゲルの弁証法を「対話なき弁証法」だといっている。確認しておこう。

  「肯定・否定ということは間主観的な場面で、謂わば"対話的"な構制の場において成立するものの筈です。(ところが、普通には、それが物象化されて、しばしば対象そのものの自存的な内的な契機であるかのように見立てられており、このことから悲喜劇的な混乱が各方面で起こっている次第です)。」
「一者が命題Aを主張し、他者が命題Bを主張するという対立、この相違・対立を両者が自覚するところから、相互に相手の主張の「否定」ということが生ずるのではないでしょうか。」
 

 これらは、中埜肇氏ではなく、わたしたちの立場を支持していると思う。対話の成立条件は、 時間的な継起(前後)関係ではなく同時性、一定の必然的な内容連関ではなく偶然性である。

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 (4) 理想型の対話

 「二個の主体」・「共通の話題」は、弁証法の構造的な特徴として絶対に必要な設定である。弁証法の構造に組み入れる理想型の対話を抽出しておこう。

 これは中埜肇氏が示した対話の構造のうち、3対立と否定・6時間性と連続性を削除して、1二個の主体・2共通の話題・4媒介性と相補性・5一致和解を取り上げるものである。

 ◎理想型の対話

 1(「二個の主体」「共通な話題」)
   対話はTという共通の話題について、AとBとの二人が行う二つの発言TaとTbとの間に初めて成り立つ。
 
 2(「媒介性と相補性」)
   TaとTbとは相互に否定し合いながら相互に肯定し合うというかたちで、対立の中で共存している。対立的共存の関係を相互媒介という。そして相互媒介の関係にあるものは、相互に補い合っている。対話するTaとTbとは相互媒介と相互補完においてある。
 
 3(「一致和解」)
   TaはTbによって否定されながらもTbと内容的に結びつき、TbもTaによって、内容的な働きかけを受け、両者は相互媒介によって総合されてTmとなる。TmはTaとTbよりも内容的にはいちだんと高められ、豊かになる。

 最後に、中埜肇氏の「論理的なものの三側面」の捉え方を確認し、わたしたちの立場を対置しておこう。

 簡単にいえば、「同一→対立」が(狭義の)弁証法的プロセスであり、「対立→統一」が思弁的プロセスであって、この二つのプロセスを結びつけたものが広義の弁証法的プロセスであると見ることができるであろう。ところが第二のプロセス「対立→統一」だけをヘーゲル弁証法と考えるひとびとがかなり多い。つまりヘーゲルの弁証法とは「対立の統一」という考え方だというわけである。しかしこういう観方がまったく不充分であるということは、ヘーゲル自身が上に紹介したように、「同一→対立」という第一のプロセスこそを「弁証法的」と呼んでいることからも明らかであろう。つまり広義の弁証法においてもっとも重要な要素は狭義の弁証法的側面なのである。言い換えると自己がみずからを否定して他者となり、同一が対立に転ずることが(広義の)弁証法の核心である。そしてこの核心が拡大され、思弁的なプロセス全体がその名によってカバーされて弁証法と呼ばれるに至ったと解してよいであろう。(『弁証法』) 

 中埜肇氏は弁証法を狭義(「同一→対立」)と広義(「対立→統一」)に分け、狭義の弁証法的側面を弁証法の核心と見ている。これに対して、わたしたちは狭義の弁証法を特異な矛盾の解釈にもとづいたヘーゲル固有の弁証法であり、これは排除すべきであると考えているのである。そして、「弁証法的(否定的理性的)側面」のない広義の弁証法(「対立→統一」)に弁証法の核心があると見ているのである。

 狭義の弁証法を強調するのは、ヘーゲルの矛盾論を支持することと同じである。それは弁証法を「対話をモデルにした思考方法」と捉える立場とは対極にある立場だと思う。

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 3 「対立物の統一」の問題点

 上山春平氏は、問題解決の過程が弁証法の固有の研究対象ではないかと述べていた。この立場から、上山春平氏は次の二点を示していた。

   (ア)問題解決の過程は認識における「対立物の統一」の過程である。

   (イ)問題解決の過程は「論理的なものの三側面」と対応している。

 (ア)と(イ)から、上山春平氏は認識における「対立物の統一」の過程と「論理的なものの三側面」を対応させていることがわかる。

 次の順序で検討していく。

 まず、問題解決の過程は認識における「対立物の統一」の過程であるという指摘を確認する。次に、問題解決の過程と「論理的なものの三側面」の対応を検討し、問題点を指摘する。そして、「対立物の統一」の過程がもつべき認識の進行形式を抽出する。

 (1) 認識における「対立物の統一」

 上山春平氏は『弁証法の系譜』のなかで、次のように指摘している。  私は、マルクス主義論理学とプラグマティズム論理学という弁証法論理学の二つの発展形態によって解明された三段階の認識過程を、問題解決の過程としてとらえることができると思う。「問題解決」というと、いかにもプラグマティズム風にきこえるが、これをマルクス主義的にとらえなおすと、認識における「対立物の統一」の過程、として規定することができる。なぜなら、「問題」とは認識過程における対立もしくは矛盾をさし、その「解決」とは対立の統一もしくは矛盾の解消をさすからだ。(中略)認識における「対立物の統一」の過程としての問題解決の過程こそ弁証法論理学の固有の研究対象ではないかと考えるのである。

 上山春平氏は問題解決の過程を簡潔に規定していると思う。「問題」は、認識過程における対立もしくは矛盾である。「問題解決」は「対立物の統一」もしくは「矛盾の解消」である。上山氏は「対立物の統一」を「矛盾」ではなく、「止揚」と考えていることがわかる。妥当な理解だと思う。(注11)  

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 (2) 「論理的なものの三側面」との対応

 上山春平氏は「問題解決の過程」と「論理的なものの三側面」を次のように対応させている。

     
表1 (上山春平『弁証法の系譜』より)
問題解決の過程弁証法的な論理のモメント
認識論的過程論理過程
(1) 問題のない段階定立命題(正)悟性的モメント
(2) 問題をもつ段階矛盾命題(正と反)否定的理性的モメント
(3) 問題の解決した段階 統合命題(合)肯定的理性的モメント
 ヘーゲルは、思想史の分析を手がかりとして、客観的思想の発展過程において、真理の諸モメント、すなわち、(1)悟性的モメント、(2)否定的理性的モメント、(3)肯定的理性的モメントが、順次にあらわになることを明らかにした。(1)は物ごとを限られた視野で切りとって一面的に普遍化し固定化してとらえる独断論的側面、(2)は独断的な一面的な規定のほころびを認めて、それと対立する規定を受けいれる懐疑的側面、(3)は「対立した二つの規定の統一」をとらえる思弁的側面、を意味する。
 これらの三つのモメントによって、客観的思想もしくは客観的実在の認識の発展段階を特徴づけるならば、三つのモメントは、それぞれ、(1)問題のない段階、(2)問題をもつ段階、(3)問題の解決した段階、に対応すると考えてよいと思う。また、第一の段階をテーゼ(正)の立てられる段階、第二の段階をテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)の対立させられる段階、第三の段階をジンテーゼ(合)の立てられる段階、と見ることもできる。こうした見地からすると、問題解決の過程は、第二段階から第三段階への移行過程、つまりテーゼとアンチテーゼの対立からジンテーゼへの移行過程として規定することができる。

 上山春平氏はヘーゲルの三つのモメントから認識の発展段階を読みとっている。そして、その進行を(1)問題のない段階・(2)問題をもつ段階・(3)問題の解決した段階と対応させている。

 上山春平氏による三つのモメントの解釈は、「対立する一項の内在的否定による進展」(松村一人氏)や狭義の弁証法(「弁証法的(否定的理性的)側面」)を強調する中埜肇氏と比べると、ゆるやかな解釈に見える。悟性的モメントに独断論的側面、また否定的理性的モメントに懐疑的側面を外的に対応させているだけのように見えるのである。

 しかし、この外的な対応をわたしたちは否定的に見ているのではない。むしろ三つのモメントの新たな可能性を示唆するものとして肯定的に見るべきだと考えているのである。

 ところが、上山春平氏はヘーゲルの規定を自由に解釈する一方で、ヘーゲルの三つのモメントに束縛されている。それは「悟性的モメント」を「問題のない段階」として設定して、形式を整えていることに現れている。

 立ち入ってみよう。

 問題解決の過程と3つのモメントの対応において、特徴的なことは二つある。一つは、悟性的モメント(第一段階)を「問題のない段階」として空白にしていることである。(表2参照)これは、上山春平氏が「論理的なものの三側面」(三段階論)を絶対的な基準と考えていることを示しているのである。

 
表2 (上山春平『弁証法の系譜』より)
問題解決の過程プラグマティズム論理学マルクス主義論理学ヘーゲル論理学
探究の過程認識の過程理念の過程
(1) 問題のない段階         
(2) 問題をもつ段階1) 問題    
2) 仮説1)アブダクション1) 感性的認識1) 直観1) 生命
3) 推論2)ディダクション2) 理性的認識2) 思考2) 理論的理念
4) テスト3)インダクション3) 実践3) 実践3) 実践的理念
(3) 問題の解決した段階5) 言明   4) 絶対的理念
(上山)(デューイ)(パース)(毛沢東)(レーニン)(ヘーゲル)

 もう一つは、否定的理性的モメント(第二段階)に、対立するテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)を位置づけて、ここに問題解決の過程の出発点を設定していることである。

 わたしたちには、問題解決の過程と「論理的なものの三側面」(三段階論)は整合していないように見える。わたしたちは問題解決の過程を基準として、「論理的なものの三側面」(三段階論)を否定していくべきだと考える。問題解決の過程は「テーゼとアンチテーゼの対立からジンテーゼへの移行過程」である。しかし、この過程は「第二段階から第三段階への移行過程」ではないと考えるのである。

 悟性的モメントが問題解決の過程の第一段階であるような認識の進行形式を想定する。否定的理性的モメント(第二段階)で位置づけられている「正」と「反」の対立を、悟性的モメント(第一段階)として捉え直すのである。テーゼ(正)とアンチテーゼ(反)の対立が、悟性的モメント(第一段階)であり、しかも問題解決の過程の出発点であるような進行形式を探究していくのである。  

 この異なる進行形式について整理しておこう。まず、表1から核心だけを取り出しておこう。

     
 問題のない段階悟性的モメント(正)
 問題をもつ段階否定的理性的モメント(正と反)
 問題の解決した段階 肯定的理性的モメント(合)

 これは問題解決の三つの段階と論理的モメントとの最も単純な対応表である。これを検討しよう。

 上山春平氏は正反合の論理形式に着目して、次のように述べている。

 私たちは右の規定(三つのモメントに関するヘーゲルの規定――引用者注)から容易に正→反→合という例の図式を引き出すことができる。はじめに制限された固定的な規定がある。これが「正」である。それはいうまでもなく肯定命題の形をとり、一般に普遍命題の形をとる。つまり、全称肯定命題の形をとるわけだ。つぎに、はじめの規定が反対の規定に移行する。これが「反」である。それは、はじめの命題に対する矛盾命題であり、論理形式としては特称否定命題の形をとる。さいごに二つの矛盾する命題は一つの論理空間において両立することはできないから、二つの命題を統一する命題は、新たな論理空間を前提とする。この新たな論理空間においては、かつての「正」と「反」とは一応姿を消し、「合」に内包される要素として新しい世界によみがえる。このばあい「合」は、「正」と同様、全称肯定命題の形式をとる。したがって、正→反→合は、論理形式に着目すれば、全称肯定命題→特称否定命題→全称肯定命題という形になり、「合」は、新たな「正」に転化するわけである。

 つまり、「正」と「合」は同じ論理形式をもっていると説明している。それならば、「問題の解決した段階」を肯定的理性的モメントと対応させることは間違いで、これは悟性的モメントに対応させなければならないことになるだろう。

 訂正してみよう。まず、「問題の解決した段階」を「悟性的モメント」と対応させる。一方、「肯定的理性的モメント」は「問題をもつ段階」に位置づける。すなわち、「問題をもつ段階」は「否定的理性的モメント」と「肯定的理性的モメント」の両方に対応させる。表示すれば次のようになる。

 問題のない段階悟性的モメント
 問題をもつ段階否定的理性的モメント
肯定的理性的モメント
 問題の解決した段階 悟性的モメント

 「正」と「合」は、上山春平の指摘するように同じ形式をもつべきである。「合」は新たな「正」だからである。

 段階として区別できるのは、悟性的モメントと理性的モメントの間だけである。否定的理性的モメントと肯定的理性的モメントは二つの段階として区別できるものではなく、否定的理性的モメントと肯定的理性的モメントは一体となって一つの理性的段階を構成していると考えるのである。

 否定的理性的モメントと肯定的理性的モメントは、理性の否定作用と理性の肯定作用という二つの機能である。この二つの機能は、弁証法の機能(許萬元)ではなく、あくまでも思考の機能である(注12)。

 はじめに否定があり、次に否定の否定(肯定)があるのではない。はじめから、否定と肯定が一体となって進行していくのである。独立した理性の否定作用と肯定作用が、問題解決のすべての過程をつらぬいていると想定するのである。

 問題の発生は「悟性―理性」の過程と把握できる。そして、問題の解決は「理性―悟性」の過程で把握できる。

   悟性―理性……理性―悟性

 前の「悟性―理性」が問題の発生である。後の「理性―悟性」は問題の解決である。中央の「理性……理性」は問題を解いている過程である。

 「悟性―理性」の過程では、理性が悟性よりも優位にある。ここでは矛盾は許容される。しかし、「理性―悟性」の過程では、悟性が理性より優位にある。ここでは矛盾は許容されない。もう一度、規定に普遍性の形式を与えなければならないのである。

 とくに「理性―悟性」の関係は、弁証法と矛盾律の関係を明確にする上で重要である。ヘーゲルは悟性に対する理性の優位を指摘するだけにとどまっているからである。これは問題の発生に対応する見方であって、問題の解決に対応していないのである。

 悟性に対する理性の一方的な優位の主張が、弁証法と矛盾律の関係をあいまいする原因になっていたのではないだろうか。理性に対して悟性が優位になる局面を設定することによって、弁証法は矛盾律の上で流動していることが明確になると思う。

 問題解決の過程において矛盾がなかったら、どのような方向にも展開可能である。しかし、矛盾があったら、その矛盾を解消する方向だけに展開されるのである。

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(3) 「対立物の統一」における認識の進行形式

 これまでに検討した「問題解決の過程」がもつべき認識の進行形式を整理しておこう。

 ◎「対立物の統一」における認識の進行形式

 これが弁証法に組み入れる認識の進行形式である。

注11 「対立物の統一」の矛盾説と止揚説

 「対立物の統一」の解釈は矛盾と止揚に二分されている。

 「対立物の統一」を矛盾と捉えるのはマルクス主義の研究者に見られる。例えば島崎隆氏がいる。

弁証法的な論理を考えるさい、私は「対立物の統一」という規定を重視した。対立している者同士は同一的な基盤から発生しつつ、分裂し対立するのであり、「対立物の統一」とは相互依存性と相互反発性の両立であり、その意味で矛盾そのものである。このとき、弁証法を抽象的な論理とみる場合、私はレーニン『哲学ノート』のヘーゲル読解法とかれの弁証法理解に大きな影響を受けたといえよう。(中略)レーニンはそこで、「本来の意味においては、弁証法は、対象の本質そのものにおける矛盾の研究である」、と指摘しさらに、「簡単にいえば、弁証法は対立物の統一に関する学説と定義できる」と規定した。ここで結果的に、対立物の統一=矛盾となっている。

 一方、「対立物の統一」を止揚と捉えるのは、非マルクス主義の研究者である。上山氏のほかに、例えば、茅野良男氏(『弁証法入門』)、岩崎武雄氏(『弁証法』)、中埜肇氏(『弁証法』)がいる。

 このような見解の違いは、「対立関係」の違いに由来している。例えば、磁石の北極と南極が対立関係と考えられている一方で、光の粒子説と波動説が対立関係と考えられている。つまり、対立関係は相関関係から二つの異なる認識の関係まで範囲がある。

注12 思考の二大機能

 わたしたちは理性の否定作用と肯定作用を弁証法の二大機能とみるのではなく、思考の二大機能とみるだけである。理性の否定作用とは、否定的判断や否定的推論を指す。また理性の肯定作用とは、肯定的判断や肯定的推論を指す。

 また、そのつながり方も、直列ではなく、並列と考えるべきだと思う。並列というのは、理性の否定作用と肯定作用を独立した作用としてみる見方である。肯定は肯定、否定は否定である。

 理性の否定作用と肯定作用を弁証法の二大機能とみることは、認識と弁証法を全体的に対応させることになる。この対応こそ弁証法が肥大化した原因だったと考えられる。認識がすべて弁証法と関連づけられてしまったのである。実際には、弁証法とは関係のない認識の領域が幅広く存在するのである。

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  4 「試行錯誤」の問題点

 ポパーは弁証法を正反合と捉え、この弁証法を批判し、弁証法そのものを拒否する。そして、ポパーが弁証法に対置するのは試行錯誤の理論である。

 一方、わたしたちは正反合の図式を克服して、新しい弁証法の理論を提起する。ここで試行錯誤の理論と弁証法の関連について整理しておこう。

 まず、ポパーがどのように弁証法を捉えているかを確認しておこう。(「弁証法とは何か」『推測と反駁』所収)

 弁証法(近代的意味での、つまり、特にヘーゲルが用いた言葉の意味での弁証法)は、あるもの――とりわけ人間の思考――がテーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼという弁証法的三幅対と呼ばれるものによって特徴づけられる仕方で発展すると主張する理論である。
 まず最初に「テーゼ」と呼びうるようなある観念または理論または運動が存在する。そのようなテーゼは、この世界におけるほとんどの事物と同じように、おそらく限られた価値しかなく、またさまざまな弱点をもつであろうから、しばしば対立物を生み出すであろう。この対立する観念や運動は、最初のもの、つまり、テーゼに反対しているので、「アンチテーゼ」と呼ばれる。テーゼとアンチテーゼとの闘争は、ある解決に達するまで続くが、この解決は、テーゼとアンチテーゼのそれぞれの価値を認めることにより、またそれらのもろもろの長所を保存し、しかも両者を制約しているもろもろの弱みをなくそうと努めることによって、ある意味で、テーゼとアンチテーゼのいずれをも超越している。第三の段階であるこの解決は、ジンテーゼと呼ばれる。

 ポパーは、上山春平氏や中埜肇氏と同じ構造の弁証法を見ているといってよいだろう。「論理的なものの三側面」の影響は、弁証法を支持する側にも批判する側にも共通に見られるのである。

 試行錯誤の理論と弁証法の新しい理論との共通点は、次の二点である。

   (ア)矛盾を認めないこと
   (イ)複数の理論の存在を認めること

 (ア)矛盾を認めないこと

 ポパーは次のように主張している。

 「弁証法論者たちは、矛盾は進歩にとって実り豊かであり、多産的であり、生産的であるという。われわれも、これがある意味では真実であると認めた。だが、それが真実であるのは、われわれが矛盾を許さず、矛盾を含む理論はすべてこれを変更すると―― いいかえれば、矛盾を決して容認しないと――決意する限りにおいてのみである。批判、つまり矛盾の指摘がわれわれに理論を変更させ、それによって進歩を生じさせるのは、もっぱらわれわれのこの〔矛盾を容認しないという〕決意に発するのである。」

 ポパーが弁証法を批判する理由の一つは、弁証法が矛盾を許容しているということである。ポパーは、「論理的なものの三側面」によってヘーゲルが矛盾の新しい意味を提起していることにはまったく関心をもっておらず、ヘーゲルの矛盾とアリストテレスの矛盾を同一視し、単純化している。しかし、ヘーゲルは矛盾律に対して挑戦する姿勢で弁証法を構想したことを考慮すれば、ポパーの一刀両断は妥当なものといえるだろう。

 「一切の論理的推論は、ヘーゲル以前であれ以後であれ、また科学においてであれ数学においてであれ、あるいはいかなる真に合理的な哲学においてであれ、常に矛盾律にもとづいているものである。」

 わたしたちの弁証法においても、一切の論理的推論は矛盾律にもとづいていて、矛盾を容認しないのである。また、「論理的なものの三側面」の規定も使わないし、「対立物の統一」を矛盾ではなく止揚と考えているので、わたしたちの弁証法は「矛盾」とはまったく関係ないのである。

 (イ)複数の理論の存在を認めること

 ポパーは次のように試行錯誤の方法の基礎を確認している。

 「したがって、試行錯誤の方法の見地からの解釈は、弁証法の見地からの解釈よりも、いささか広いものだといえよう。それは、ただ一つだけの理論がまず当初に提出されるといった事態に限定されず、それゆえ、そもそもの最初から多くの異なったテーゼが、相互に独立に、しかも一つのものが他の一つのものに対立するといった仕方だけでなく、提出される事態にも容易に適用できる。」

 ただ一つの理論の存在からはじめることより、はじめから複数の理論の存在を想定することの方が、現実的である。また、複数の理論が対立するといった仕方だけでなく、相互に独立に存在しているという指摘も現実的である。 

 ところで、中埜肇氏や上山春平氏の弁証法の理論は、ポパーの「弁証法」批判を踏まえて構想されている。両者の理論は矛盾を認めない点(一切の論理的推論は矛盾律にもとづいているという点)に関していえば、ポパーの弁証法批判をクリアしているといってよい。しかし、はじめから複数の理論の存在を認めることに関しては、両者の弁証法はポパーの批判を克服できていないといえると思う。
 なぜなら、両者とも「論理的なものの三側面」に制約されて一つのテーゼから出発しているからである。中埜肇氏の場合は発言Taから始めている。 上山春平氏の場合は「問題のない段階」のテーゼ(正)から始めている。

 ポパーは弁証法そのものを拒否する。一方、わたしたちは新しい弁証法の可能性を探究する。複数の理論の存在は、複素過程論の前提でもあるからである。

 ポパーが弁証法に対置したのは試行錯誤の理論である。その核心は次の問題解決図式によって表されるだろう。

         P1―TT―EE―P2

 ここでP1(problem1)は問題状況を表している。そして、TT(tentative theory)は提案される問題解決案や理論を表す。EE(error elimination)は、案や理論に対するエラー排除の過程である。P2(problem2)は新しい問題状況である。

 ポパーは次のように述べている。「もろもろの理論が試みに打ち出され、厳重に検査される。テストの結果、その理論が誤っていることが明らかにされれば、その理論は排除される。試行錯誤の方法は、本質的に、排除の方法である」。

 試行錯誤の理論では、多くの理論が提出される。しかも多様に提出される。そしてそれぞれの理論がテストされ、その理論が誤っていれば、排除されると考えられている。そして次の理論が試みられる。このようにして最適の理論が残ると考えられている。

 一方、ポパーは弁証法において、最適な理論は「テーゼとアンチテーゼの両方のもろもろの最良点を保存した理論」と考えている。そして、これをテストや排除を経ていないものと見ているのである。弁証法的三幅対には検証過程が欠けているという考えが、試行錯誤の理論を対置する要因になっている。

 ちなみに、上山春平氏は弁証法に検証の過程を見ている。というのは、かれは「問題をもつ段階」の中に、デューイでいえば、問題・仮説・推論・テストを位置づけているからである。またパースでいえば、アブダクション(仮説定立)・ディダクション(推論)・インダクション(検証)を位置づけているからである。(表2参照)

 おそらく、これはポパーの弁証法批判を考慮して、弁証法にテストや検証を導入したものではないかと思う。

 しかし、これは弁証法に対する過大な要求である。弁証法はもっと限定した領域で展開した方がよいと考える。これはポパーにも当てはまるのである。

 問題解決図式は妥当なものである。それは新しい弁証法の成立基盤といってもよいのである。弁証法は問題解決図式の全体と対応するものではない。弁証法はこの図式の内部にあるのである。

 すなわち、弁証法はP1(problem1)とTT(tentative theory)の間に位置する。排除の過程は弁証法とは無関係である。わたしたちも、試行錯誤の理論と同じように、不十分な見解は反駁され排除されると主張するのである。

 弁証法は認識の発展の形式というよりは、発想にかかわるのである。弁証法はTTを形成する方法に関連するのである。もちろん、TTのすべてが弁証法によって提出されるわけではない。弁証法は、問題解決の方法の一つなのである(注13)。

 ポパーは光の理論の変遷(粒子説→波動説→両者)を弁証法的図式にぴったりあてはまる例としてあげている。しかし、わたしたちの立場から見れば、これは弁証法の例ではない。光の粒子性と波動性を統一的に把握しようとする量子力学の試みが、弁証法の例なのである。弁証法は「発展を叙述する一方法」(ポパー)ではなく、「発見的思考」(伊藤俊太郎)なのである。

 伊東俊太郎氏は、「科学的発見の論理」(『科学と現実』所収)のなかで、「発見の論理」を探究している。かれは「発見的思考」を、A帰納(induction)・B演繹(deduction)・C発想(abduction)の三つの思考方式に大きく分けている。そして、発想のなかを、さらに1類推によるもの・2普遍化によるもの・3極限化によるもの・4システム化によるものと細分している。弁証法はこの分類でいえば、「発想」の中の「普遍化」に位置づくのである。 

 「発見的思考」の分類 ( 伊東俊太郎『科学と歴史』より)
発見的思考
A帰納ボイルの法則、スネルの法則
B演繹ニュートンの逆自乗の法則
C発想 1類推ダーウィンの自然選択説、ドゥ・ブロイの波動力学、気体分子運動論、ファント・ホッフの浸透圧の理論、長岡・ラザフォードの原子模型、湯川の中間子理論
2普遍化ニュートン力学、アインシュタインの相対性理論
3極限化ガリレイの「慣性の法則」・「自由落下の第一法則」
4システム化メンデレーエフの周期律
 

 わたしたちの弁証法が対象とする領域はヘーゲルに比べて極端に小さくなる。

 まず、弁証法を存在と認識を貫くものとしてではなく、認識に限定するものである。しかも、認識のすべての領域にあてはまるものでもない。弁証法は認識に限定され、しかもある特定の領域に限定されるのである。

 あえていえば、ヘーゲルの弁証法が恐竜ならば、わたしたちの弁証法はネズミである。この比喩は大きさの比較だけではない。一方は爬虫類、他方は哺乳類であることに着目してもらいたいと思う。わたしたちの弁証法の方が進化しているのである。

注13 板倉聖宣氏の弁証法

 板倉聖宣氏の弁証法は、次の二点において、わたしたちの弁証法のさきがけである。

  (1) 矛盾律を前提にした弁証法(矛盾の実在を否定する弁証法)
  (2) 発想法としての弁証法

 板倉氏は、次のように考えている。

 (1) 矛盾は、認識の論理にかかわるもので、自然や社会には実在しない。

 それなら、ある人々のいうように、「矛盾は実在する」といっていいのでしょうか。私はそうは考えません。「運動は、静止の論理にこだわって表現しようとすると、どうしても矛盾した表現を必要とする」というのと、「運動そのものが矛盾している」というのとは違います。「矛盾」という概念は、もともと人間の認識の論理にかかわるものなので、人間の認識とは独立な自然や社会そのものに矛盾があるはずはないのです。
 ところが、「人間の認識は自然や社会の反映なのだから、人間の認識に(矛盾)という概念が必要だということは、自然や社会そのものに矛盾が実在していると考えるべきではないか」という人がいるので注意する必要があります。「人間の認識上で必要になったものは、みな自然の中に実在するとは限らない」のです。何度もいうように、人間が静止の論理でもって無理に表現しようとしなければ、矛盾など問題にならないからです。(『新哲学入門』)

 (2) 弁証法は、科学的な真理ではなく、ことわざのような発想法である。

 実は、弁証法というのはことわざと同じように、「社会や自然の見忘れがちな側面に注意するように教えてくれる」という意味では真実ではありえても、「科学的な真理」とはいえないのです。つまり、弁証法というのは言葉の厳密な意味では科学ではないのです。「それなら、弁証法はデタラメか」というと、そうではありません。弁証法を文字どおりの科学と考えると間違いではあっても、そこには自然や社会を見る優れた視点があり、私たちの発想を豊かにしてくれるものがたくさん含まれていることは間違いありません。つまり、弁証法は一つの発想法というべきものなのです。(『発想法かるた』)

板倉聖宣氏は認識を「予想・仮説―実験」という過程において把握しているから、弁証法をわたしたちと同じように、P1(problem1)とTT(tentative theory)の間に位置づけていると思われる。

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第3章 進展2  弁証法の理論


 1 2つの条件の確認

 複素過程論を弁証法の理論へと展開していく上で、満たさなければならないのは次の二つの条件である。

    (ア)対話をモデルとした思考方法であること
    (イ)認識における対立物の統一であること

 (ア)は中埜肇氏から引き継いだ条件である。しかし、弁証法のモデルとなる対話は中埜氏とは異なっていた。わたしたちが抽出した「理想型の対話」は次のようなものだった。

 ◎理想型の対話

 1(「二個の主体」「共通な話題」)
   対話はTという共通の話題について、AとBとの二人が行う二つの発言TaとTbとの間に初めて成り立つ。
 
 2(「媒介性と相補性」)
   TaとTbとは相互に否定し合いながら相互に肯定し合うというかたちで、対立の中で共存している。対立的共存の関係を相互媒介という。そして相互媒介の関係にあるものは、相互に補い合っている。対話するTaとTbとは相互媒介と相互補完においてある。
 
 3(「一致和解」)
   TaはTbによって否定されながらもTbと内容的に結びつき、TbもTaによって、内容的な働きかけを受け、両者は相互媒介によって総合されてTmとなる。TmはTaとTbよりも内容的にはいちだんと高められ、豊かになる。

 また、(イ)は上山春平氏から引き継いだ条件である。しかし、認識の進行形式は上山氏とは異なっていた。わたしたちが抽出した認識の進行形式は次のようなものだった。

 ◎「対立物の統一」における認識の進行形式

   この二つの条件(アとイ)が、複素過程論に取りこまなければならないものである。

 2 対話のモデル

 対話のモデルを作っていくことにする。参考にするのは価値形態論である(『資本論』第一章第三節)。その「単純な、個別的な、または偶然的な価値形態」の二つの商品、リンネルと上着の関係に着目する。ここには、最も単純な対立関係と両極構造があるからである。

 リンネルと上着を「二個の主体」と見て、対話のモデルを読みとっていくのである。価値と使用価値の関係に着目する。

 マルクスは価値関係を通して出現する関係が、商品だけでなく人間にもあてはまると指摘し、次のように続けている。

 人間は、鏡をもって生まれてくるものでも、フィヒテ流の哲学者として、我は我であるといって生まれてくるものでもないのであるから、まず他の人間のなかに、自分を照し出すのである。ペーテルという人間は、パウルという人間にたいして、自身に等しいものとして相関係することによって、初めて、自分自身に人間として相関係する。

 このように価値関係から出現する関係には、人間関係にもあてはまる側面があるので、リンネルと上着の関係から対話のモデルを読みとろうとする試みは、まったく根拠がないわけではないと思われる。

 さて、はじめはリンネルが相対的価値形態にある場合を考える。

 ここでリンネルは相対的価値形態にあり、積極的に自分の価値を表現する。これに対して、上着は等価形態にあり、価値表現において受動的な役割をする。その結果、リンネルの価値は上着の使用価値で表現される。そのとき、上着の使用価値は価値表現の材料になっている。

 このリンネルと上着の「価値と使用価値」の関係を捉える図式を提出しておこう(注14)。

 まず、対立するリンネルと上着を、次のように図示する。

「リンネルの使用価値」 +「リンネルの価値」
  
「上着の価値」+「上着の使用価値」

 矢印が価値を表現しようとする働きかけである。矢印の起点を相対的価値形態と考え、矢印の終点を等価形態と考える。

 リンネルはその価値を上着で表現する。このとき、上着はこの価値表現の材料の役をつとめている。この関係を次のように考えることにしよう。

 リンネルの価値が上着の使用価値で表現されることを、リンネルの価値に上着の使用価値が出現すると考える。すなわち、リンネルは自分に固有の価値と使用価値に加えて、第三の要素をもつようになると考える。「リンネルの価値」から右方向に矢印をひき、矢印の終点に「上着の使用価値」と表記することにする。

 これに対して、上着の使用価値が価値表現の材料になっていることは、上着の使用価値にリンネルの価値が出現すると考える。すなわち、上着は自分に固有の価値と使用価値に加えて、第三の要素をもつようになると考える。「上着の使用価値」から右方向に矢印をひき、「リンネルの価値」と表記する。次のようである。

「リンネルの使用価値」 +「リンネルの価値」「上着の使用価値」
    
「上着の価値」 +「上着の使用価値」「リンネルの価値」

 リンネルの働きかけによって、相対的価値形態と等価形態に第三の要素が出現する。つまり、リンネルに「上着の使用価値」が出現し、また上着に「リンネルの価値」が出現する。これが価値関係から出現する新しい局面である。単独ではありえない局面である。

 この第三の要素は、関係する前の「リンネルの価値」と「上着の使用価値」の相互移行によって実現すると考える。

 図で確認しておこう。相対的価値形態の「リンネルの価値」は矢印にそって、等価形態の「上着の使用価値」を経由して、等価形態に移行しているように見えるだろう。

 これに対して、等価形態の「上着の使用価値」は矢印を逆行し、相対的価値形態の「リンネルの価値」を経由して、相対的価値形態に移行しているように見えるだろう。

 以上が、リンネルと上着の関係を捉える図式の基礎である。

 これをもとに「媒介性と相補性」のモデルを考えていく。ここで「媒介性と相補性」とは、相互に否定すると同時に、相互に肯定するというかたちで共存している対立関係を指している。

 出現する二つの第三の要素をリンネルから見直してみる。

 上着に「リンネルの価値」が出現していることを、リンネルが上着に影響を与えていると考え、これをリンネルの「肯定」とみる。

 これに対して、リンネルに「上着の使用価値」が出現していることは、上着の影響を受けていることと考え、これをリンネルの「否定」とみる。

 このように第三の要素の出現を上着に影響を与えることの表現として、また、上着の影響を受けることの表現として捉え直してみるのである。すなわち、第三の要素の出現をリンネルの「肯定」と「否定」に対応していると考える。

 さて、これまでの展開ではリンネルが相対的価値形態に、上着が等価形態にあった。逆の場合がある。上着が相対的価値形態にあり、積極的に自分の価値を表現しようとする場合である。ここでも同じ展開が可能である。図示しておこう。

「上着の使用価値」 +「上着の価値」「リンネルの使用価値」
    
「リンネルの価値」 +「リンネルの使用価値」「上着の価値」

 上着の働きかけによって、相対的価値形態と等価形態に第三の要素が出現する。つまり、上着に「リンネルの使用価値」が出現する。また、リンネルに「上着の価値」が出現する。

 ここでは、リンネルに「上着の価値」が出現していることを上着の「肯定」、また、上着に「リンネルの使用価値」が出現していることを上着の「否定」と見ることができる。

 二つの図を統一する。リンネルと上着は同時に働きかける。いいかえれば、リンネルも上着も相対的価値形態にある。また、等価形態にある。矢印の起点と終点に着目しよう。リンネルも上着も矢印の起点と終点になっている。

「リンネルの使用価値」 +「リンネルの価値」
 
「上着の価値」+「上着の使用価値」

 第三の要素が出現する。「リンネルの価値」の働きかけによる第三の要素は、先と同じように、右側に出現する。しかし、「上着の価値」の働きかけによる第三の要素は、先とは逆に、左側に出現する。「上着の価値」からの矢印が、単独の場合と違って、ここでは下から上へとなっているからである。

 中央にリンネルと上着の固有の価値と使用価値があり、その両側に第三の要素が出現する。図示する。

「上着の価値」「リンネルの使用価値」 +「リンネルの価値」「上着の使用価値」
     
「リンネルの使用価値」「上着の価値」 +「上着の使用価値」「リンネルの価値」

 右側に、リンネルの「否定」と「肯定」が現れている。また、左側には、上着の「否定」と「肯定」が現れている。

 要点は、二つの商品の価値関係から出現する第三の要素に、相対的価値形態に位置する商品の「否定」と「肯定」を対応させていることである。

 これを対話のモデルとしよう。リンネルと上着の「二個の主体」が働きかけあった結果、左右両側に第3の要素が出現する。ここに、リンネルと上着の相互肯定と相互否定を見るのである。

 以上が、「二個の主体」の「 媒介性と相補性」のモデルである。すなわち、「二個の主体」が相互に否定すると同時に、相互に肯定するというかたちで共存している対立関係のモデルである。

注14 尼寺義弘氏の図式    

図式表現のきっかけは、尼寺義弘氏が『ヘーゲル推理論とマルクス価値形態論』のなかで提示していた図式である。

 リンネルの価値形態において等価物となる上着商品は、その商品体そのものがその反対物・価値の現象形態となる。(中略)すなわち上着商品の肉体は、本来、保温するとか、オシャレに用いるとか、の使用価値であるが、この関係においては直接に価値そのものの現象形態である。だから上着商品には自分が本来もっている二要因のほかに独自な形態が与えられる。上着商品は、「自分固有の価値」+「自分固有の使用価値」+「他商品の価値の現象形態」すなわち直接にリンネルの「価値そのもの」、といういわば三つの要因をもつことになるのである。第三の要因はリンネルとの価値関係から生まれたものであり、それが前景にでてくることになる。そして本来の使用価値は後景にしりぞく。上着商品の肉体は使用価値であって同時に価値の顕在形態であるという一見するときわめて奇妙な事態にわれわれを直面させるのである。ここに商品を一面的に考察した方法では把握できない重要な問題が浮かびでてくるのである。

上着が演じる「一つの新しい役割」とは、上着がその使用価値のままでリンネルの価値の現象形態になること、そしてリンネルとの直接的な交換可能性の形態に立つことである。ここで等置によって上着には自分固有の価値と使用価値に加えて第三の要因が出現して、

      「自分固有の価値」+「自分固有の使用価値」+「リンネルの価値そのもの」

という構造をもつことが指摘されている。この表現を基礎にして、図式を拡張する。

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3 対話をモデルにした思考方法 

 認識における対立物の統一の過程を構成していくことにする。ここから必要になるのは対話のモデルを基礎にして、問題解決の過程の第一段階を設定し、「一致和解」を取り入れていくことである。

 問題解決の第一段階では、悟性的モメントとして「正」と「反」が対立していた。

 また、「一致和解」とは次のようなものだった。「 TaはTbによって否定されながらもTbと内容的に結びつき、TbもTaによって、内容的な働きかけを受け、両者は相互媒介によって総合されてTmとなる」。

 まず、問題解決の過程の第一段階として、二つの「論理的なもの」の対立関係を設定しておこう。
 二つの「論理的なもの」の対立関係は、リンネルと上着の「対話のモデル」を基礎にして、次の置き換えをおこなえば設定できる。

 (1)リンネルと上着を、異なる二つの「論理的なもの」AとA'に置き換える。
 (2)価値と使用価値を、自己表出と指示表出に置き換える。

 結果は次のようになる。

「Aの指示表出」 +「Aの自己表出」
 
「A'の自己表出」+「A'の指示表出」

 ここが出発点になる。これはだれかの頭の中で、選択された二つの「論理的なもの」が対立している局面を表している。矢印は推論を表す。いいかえれば、独立した理性の否定作用と肯定作用の働きかけを表している。

 AとA'は相互に否定し、相互に肯定しあう。AとA'それぞれの自己表出と指示表出の相互移行によって第三の要素が出現する。

 次のようである。

「A'の自己表出」「Aの指示表出」 +「Aの自己表出」「A'の指示表出」
     
「Aの指示表出」「A'の自己表出」 +「A'の指示表出」「Aの自己表出」

 Aの自己表出には、A'の指示表出が出現する。A'の指示表出にはAの自己表出が出現する。これがAの否定と肯定である。右側の2つの第三の要素である。

 これに対して、 A'の自己表出には、Aの指示表出が出現する。Aの指示表出にはA'の自己表出が出現する。これがA'の否定と肯定である。左側の2つの第三の要素である。

 中央にある四つの要素(Aの自己表出、Aの指示表出、A'の自己表出、A'の指示表出)は、それぞれ媒介されることによって、両側に出現していることに着目しておこう。

 さて、吉本隆明氏は言語表現を自己表出から見るとき、価値が問題になるといっていた。また、指示表出から見るとき、意味が問題になると述べていた(注15)。自己表出と価値、また、指示表出と意味は密接に関係しているのである。ここから類推してみると、Aの自己表出にA'の指示表出が出現することは、Aが新しい意味をもちはじめると解釈できるだろう。これに対して、A'の指示表出にAの自己表出が出現することは、A'が新しい価値をもちはじめると解釈できるだろう。

 AとA'の対立関係から出現する局面は、AとA'がそれぞれ新しい意味と価値をもちはじめていることである。

わたしたちは「反対の規定への移行」を、一つの「論理的なもの」からもう一つの「論理的なもの」の間ではなく、2つの「論理的なもの」の自己表出と指示表出の間だけに適用している。図式の4隅に「反対の規定への移行」を制御することによって、「論理的なもの」の弁証法的側面を「矛盾」ではなく「対話」へと変換しているのである。

 ここで右側に出現した第三の要素どうしの結合を想定する。「Aの自己表出」+ 「A'の指示表出」のことである。そして、この結合を「TaはTbによって否定されながらもTbと内容的に結びついていること」の表現とみなす。

 また、同じように左側に出現した第三の要素どうしの結合を想定する。「A'の自己表出」+ 「Aの指示表出」である。そして、これを「TbはTaによって否定されながらもTaと内容的に結びついていること」の表現とみなす。

 図で確認しておこう。両側に出現した第三の要素どうしが+で結ばれる。

「A'の自己表出」「Aの指示表出」 +「Aの自己表出」「A'の指示表出」
+   +
「Aの指示表出」「A'の自己表出」 +「A'の指示表出」「Aの自己表出」

 右側の結合(「Aの自己表出」+ 「A'の指示表出」)と左側の結合(「A'の自己表出」+  「Aの指示表出」)が新しい局面である。

 「Aの自己表出」は、「Aの指示表出」ではなく「A'の指示表出」と結合している。また、「A'の自己表出」は、「A'の指示表出」ではなく「Aの指示表出」と結合している。

 左右両側の結合(「Aの自己表出」+ 「A'の指示表出」と「A'の自己表出」+ 「Aの指示表出」)は、混成することによって、新しい価値と意味を持っているのである。それはこれまでとは違った関係性と指示性をもっているのである。

 ここまでのところを、例をあげて説明しておこう。

 Aとしてガリレオの落下理論を考える。また、A'としてケプラーの惑星理論を考える。すなわち、ニュートンが万有引力の法則と運動法則を発見する過程を例にとってみる。

 ニュートンの前にあったのは、ガリレオの落下理論とケプラーの惑星理論である。ニュートンの思考のなかで、二つの理論は新しい意味と価値をもちはじめ、新しい指示性と関係性を形成しはじめる。

 ここでは実際の具体的な経緯には立ち入らない。自己表出と指示表出の関係がどのように推移していくかを理解してもらうのが目的なので、ここでは、リンゴと月の比喩を使って説明するだけにする。

 ガリレオの落下理論、すなわちガリレオがとらえた地上の法則を「落ちるリンゴ」と考える。そして、ガリレオの落下理論の自己表出を「リンゴ」、指示表出を「落ちる」とする。

 一方、ケプラーの惑星理論、すなわちケプラーがとらえた天上の法則を「落ちない月」と考える。そして、ケプラーの惑星理論の自己表出を「月」、指示表出を「落ちない」とする。

 はじめにあったのは、「落ちるリンゴ」と「落ちない月」である。二つを対立させることによって、これまでとは違った関係性と指示性が形成される。「落ちないリンゴ」と「落ちる月」という結合が形成されるのである。

 図を使って説明しておこう。

 はじめにあるのは、「落ちるリンゴ」と「落ちない月」である。この二つが対立している。それが次の図である。

落ちる +リンゴ
 
+落ちない

 これが出発点である。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て、なぜ月は落ちてこないのかと疑問をもったという。この疑問に対応するのがこの図である。

 「落ちるリンゴ」と「落ちない月」は相互に否定し、相互に肯定しあう。自己表出と指示表出の相互移行によって、第三の要素が出現する。

落ちる +リンゴ落ちない
     
落ちる +落ちないリンゴ

 「落ちるリンゴ」の「リンゴ」には、「落ちない月」の「落ちない」が出現する。また、 「落ちない月」の「落ちない」には、「落ちるリンゴ」の「リンゴ」が出現する。これが「落ちるリンゴ」の否定と肯定である。右側の第三の要素である。

 これに対して、「落ちない月」の「月」には、「落ちるリンゴ」の「落ちる」が出現する。また、「落ちるリンゴ」の「落ちる」には、「落ちない月」の「月」が出現する。これが「落ちない月」の否定と肯定である。左側の第三の要素である。

 そして、両側に出現した第三の要素どうしの結合を想定する。

落ちる +リンゴ落ちない
+   +
落ちる +落ちないリンゴ

 「落ちるリンゴ」に出現した「落ちない」と「落ちない月」に出現した「リンゴ」が結びついて、「落ちないリンゴ」の結合ができる。いいかえれば、ガリレオの落下運動の自己表出とケプラーの惑星理論の指示表出の結合ができる。地上の法則に天上の法則が入りこむのである。

 一方、「落ちない月」に出現した「落ちる」と「落ちるリンゴ」に出現した「月」が結びついて、「落ちる月」という結合ができる。いいかえれば、ケプラーの惑星理論の自己表出とガリレオの落下運動の指示表出の結合ができる。天上の法則に地上の法則が入りこむのである。

 これが新しい局面である。これまでに存在しなかった関係性と指示性が形成されているのである。

 「落ちないリンゴ」と「落ちる月」という第三の要素どうしの結合(混成)が、リンゴと月は万有引力の存在のもとで、同じ運動法則にしたがっているという発見になっていくのである。

注15 意味と価値

 吉本隆明氏は言語の意味と価値を次のように述べている。

 わたしのかんがえからは、言語の意味と価値との関係はつぎのようになる。つまり、言語の意味は第5図のaの径路で言語をかんがえることであり、言語の価値はbの径路で言語をかんがえることである。

aの径路でかんがえるとは、意識の指示表出から言語構造の全体の関係をみることを指している。またbの径路でかんがえるとは意識の自己表出からみることを指している。 

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4 弁証法の複素数モデル

 これまで述べてきたところを整理しておこう。

 ヘーゲルの弁証法は、矛盾(「有限な規定の自己揚棄、反対の諸規定への移行」)によって進展した。これに対して、わたしたちの弁証法は対話(「媒介性と相補性」)によって進展するのである。

 わたしたちは、対立関係の関係そのものが自立化することによって、媒介者が形成される過程をたどっているのである。

 こんどは、展望しやすいように、複素数のモデルを使って整理していくことにする。

 二つの「論理的なもの」が選択され、対立している局面は、次のようになる。ここで、 a はAの自己表出、bi はAの指示表出である。またc はA'の自己表出、di はA'の指示表出である。(第1章では、iの係数bやdを指示表出としていたが、ここではiをふくめたbiとdiを指示表出とする。)

bi +a
 
c+di

 また、第三の要素が出現した局面は次のようになる。

cbi +adi
     
bic +dia

 さらに、第三の要素の結合は次のようになる。

cbi +adi
+   +
bic +dia

 右側の a + di は、「Aの自己表出」と「A'の指示表出」の結合である。先の例でいうと「ガリレオの落下理論の自己表出」と「ケプラーの惑星理論の指示表出」の結合である。「落ちないリンゴ」である。

 また、左側の c + bi は、「A'の自己表出」と「Aの指示表出」の結合である。先の例でいえば、「 ケプラーの惑星理論の自己表出」と「ガリレオの落下理論の指示表出」の結合である。「落ちる月」である。

 a + di とc + bi は、異なる二つの「論理的なもの」の、一方の自己表出と他方の指示表出から構成されている。この異なる「論理的なもの」の違った「側面」が結合している点に着目して、a + di とc + bi を混成モメントと名づけることにする。

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5 認識における対立物の統一

 対立物の統一の過程において注意することは、選択された二つの「論理的なもの」AとA'は足場になるだけで、新しい「論理的なもの」は出現した第三の要素によって形成されるということである。

 図の中央部の bi + a と c + di が足場である。この二つはここで役割を終える。

 しかし、 bi + a と c + di の 四つの要素は、a + di(右側)と c + bi(左側) に保存されている。

 そして、a + di と c + bi は、モメントとして次の段階へと進む。

 この図のなかに、アウフヘーベン(Aufheben)の三つの意味 ――「保存する」・「廃棄する」・「持ちあげる」(注16)――を確認することができるだろう。

 「保存する」 ――中央部の bi + a と c + di は、両側の a + di と c + bi に保存される。いいかえれば、AとA'に固有の自己表出と指示表出は、一対の混成モメントの自己表出と指示表出として保存される。

 「廃棄する」 ――中央部にあるAとA'に固有の自己表出と指示表出 bi + a と c + di は、ここで廃棄される。

 「持ちあげる」――両側の混成モメント a + di と c + bi は次のステップへと持ちあげられる。

 アウフヘーベン(Aufheben)は、止揚と翻訳されているが、上手な訳といえるのではないかと思う。 bi + a と c + di はここで「止」まり、 a + di と c + bi は次の段階へ「揚」がるのである。あるいは揚棄とも訳されている。こちらは次のようにいっておこう。 a + di と c + bi を次の段階へ「揚」げるために、bi + a と c + di をここで「棄」てるのである(注17)。

 混成モメントどうしが対立している状態を次の図で表すことにする。

c di
+  +
bia

 これは、「足場」(中央部の bi + a と c + di )を取り除き、混成モメントの自己表出(a + di の a と c + bi の c )の働きかけを矢印で示したものである。

 混成モメントどうしの結合は、複素数のかけ算で表すことにする。

                
(a+di)×(c+bi)=(ac−bd)+(ab+cd)i
 =x+yi
 =B

 先の例でいうと、これがリンゴと月は万有引力の存在のもとで、同じ運動法則にしたがっているというニュートンの発見にあたるのである。

注16 中埜肇氏の止揚論

 中埜肇氏は「一致和解」について、次のような対応を想定している。

 いわゆる弁証法のことばをここで使ってしまえば、Taが定立(テーゼ)で、Tbが反定立(アンテイテーゼ)で、TmはTaとTbとの総合(ジユンテーゼ)であり、TaとTbの対立はTmへと止揚(アウフヘーベン)されたことになる。

 そして、止揚に次のような注を付けている。

 アウフヘーベン(aufheben)というドイツ語は、1持ちあげる、2保存する、3廃棄するという三つの意味を持つが、この三つがここに述べたプロセスのなかにみごとに生かされている。すなわちTaとTbとはTmのなかで廃棄されると同時に保存され、しかも内容的に高められているのである。

 中埜氏はヘーゲルの「止揚」を「否定の否定」(「論理的なものの三側面」)と対応させている。これに対して、わたしたちは「止揚」を「対話をモデルとした思考」のなかで捉えている。

注17 上山春平氏の止揚論

 上山春平氏は『弁証法の系譜』のなかで「Aufhebenの過程にかんする論理的分析は、ヘーゲルによって残された弁証法論理学の最大の課題」であったと述べている。

 狭義の問題解決の過程はここからはじまるわけである。それは新たな論理空間を生みだす創造のいとなみである。このいとなみを、ヘーゲルはAufhebenと名づけた。かれはこのことばの意味について、「Aufhebenということばは、一方では《除去する》《否定する》という意味をもっている。しかしそれはまた《保存する》という意味をもっている)と注意している。つまりAufhebenとは、否定すると同時に保存するいとなみに他ならない。ある論理空間の否定を媒介として新しい論理空間が形成されるばあい、もとの論理空間に属する要素が何らかの仕方で保存され、新たな空間の構成要素として再編成される、というプロセスをさすことばとしてそれを解することができるであろう。しかしこれは一箇の文学的表現にすぎない。Aufhebenの過程にかんする論理的分析は、ヘーゲルによって残された弁証法論理学の最大の課題であった。

 わたしたちの止揚の分析は、「文学的表現」より一歩進んでいるだろう。もとの論理空間に属する要素が「対話をモデルとした思考」によって保存され、新たな論理空間の構成要素として再編成される過程を図式化できていると思う。しかし、これはヘーゲル弁証法の止揚ではなく、新しい弁証法の止揚であることに注意してもらいたいと思う。

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第4章 終局  ひらがな弁証法

1 弁証法の共時的構造と通時的構造

 わたしたちは「論理的なもの」に、自己表出と指示表出という構造を想定した。そして、これを媒介にして、「対話をモデルとした思考方法」と「認識における対立物の統一」を統一したのである。

 「対話をモデルとした思考方法」を次のように表した。

cbi +adi
+   +
bic +dia

 これを「弁証法の共時的構造」と呼ぶことにする。弁証法の共時的構造は、対話をモデルにした思考方法を表すもので、選ばれた2つの「論理的なもの」の自己表出と指示表出(中央にある bi + a と c + di)から、混成モメント(両側の a + di と c + bi) が形成される構造を表現している。

 また、「認識における対立物の統一」は、次のように表した。

          A =a+bi
          A' =c+di
          A×A' =(a+bi)×(c+di)
              ≒(a+di)×(c+bi)
              =(ac−bd)+(ab+cd)i
              =x+yi
              =B  

 これを段階として区別しておこう。次の三段階である。

 1(選択)が悟性的段階である。また2(混成)が理性的段階である。そして3(統一)は悟性的段階である。

 1(選択)―2(混成)が悟性―理性に対応し、問題の発生である。また、2(混成)―3(統一)が理性―悟性に対応し、問題の解決である。そして、2(混成)が理性……理性に対応する。問題を解いている段階である。

 否定的理性的モメントと肯定的理性的モメントには、段階としての区別はない。否定的理性的モメントと肯定的理性的モメントは一体となって、理性的段階を構成している。

 複素数モデルにおいて、悟性的モメントと理性的モメントの区別は、乗法記号(×)の存在に着目すればわかりやすいと思う。乗法記号がない場合が悟性的モメントで、ある場合が理性的モメントである。つまり、1(選択) と3(統一) が悟性的モメント、2(混成) が理性的モメントである。

 1(選択)から2(混成)へ、2(混成)の内部、2(混成)から3(統一)への展開は、独立した理性の否定作用と肯定作用によって推進される。そして、それは矛盾律を前提におこなわれる。つまり、矛盾がなかったら、どのような方向にも展開が可能である。矛盾があれば、その矛盾を解消する方向だけに展開できるのである。

 まとめよう。

1(選択)A =a+bi
A' =c+di
2(混成)A×A' =(a+bi)×(c+di)
≒(a+di)×(c+bi)
3(統一)=(ac−bd)+(ab+cd)i
=x+yi
=B

 これを「弁証法の通時的構造」と呼ぶことにする。弁証法の通時的構造とは、認識における対立物の統一の過程を表すもので、二つの「論理的なもの」A =a+bi と A' =c+di を、複素数のかけ算をモデルにして、B=x+yi として統一する過程を表現している。「論理的なものの三側面」(いわゆる正反合の図式)に対置する過程である。

 共時的な構造の中央にある bi + a と c + di は、通時的な構造の2(混成)の上部( a + bi )×( c + di )に対応している。また、共時的な構造の両側の a + di と c + bi は、2(混成)の下部( a + di )×( c + bi )に対応している。

 混成の段階(a+bi)×(c+di)≒(a+di)×(c+bi)において、=ではなく≒で表記しているは、この過程が純粋な論理的な過程ではなく、何らかの形で飛躍を含んでいるからである。≒は、「およそ等しい」を表す記号である。選ばれた2つの「論理的なもの」とは違った関係性と指示性が形成されていること、また、新たな価値と意味が形成されていることを表している。

 また、混成モメント(a+di)×(c+bi)の後が、ふたたび=(等号)にもどるのは、この過程は論理的な過程だからである。

 共時的構造と混成の段階が弁証法の核心である。

cbi +adi
+   +
bic +dia

  と

           (a+bi)×(c+di)
            ≒(a+di)×(c+bi)

である。ここに「媒介性と相補性」が集約的に表現されている。

 わたしたちは「論理的なもの」に自己表出と指示表出という構造を想定することによって、「対話をモデルにした思考」と「認識における対立物の統一」を、弁証法の「共時的構造」と「通時的構造」に止揚したのである。

 弁証法の共時的構造と通時的構造が表現しているのは、複素過程論の「媒介の論理」であり、対話をモデルにした思考方法によって、認識における対立物が統一される過程である。

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2 弁証法の図解

 アインシュタインは思考のモデルを提示している。これは友人モーリス・ソロヴィーヌへの手紙(1952年)のなかで示されたものである。アインシュタインの思考モデルとは、次のようなものである。

 私のものの見方は、図式的には、次のようになります。

 アインシュタインは、EからJASをへてEに戻る循環過程を描いている。JASとEが関連づけられることによって、思考世界は意味や内容をもつが、これが確実ではないことを強調している。論理的なのはA―実線―Sの過程だけで、思考世界への入り口(E―J矢印―A)も、思考世界からの出口(E―S)も、論理的経路はなく「直観(直感)」に頼る「おぼつかない結びつき」である。

 アインシュタインの思考モデルに自己表出と指示表出の軸、「論理的なもの」を表示すれば、次のようになる。

    

 ホルトンはアインシュタインの思考モデルを高く評価し、EからAへの飛躍に着目している(「科学理論の形成に関するアインシュタインのモデル」『アインシュタイン』岩波書店 2005 所収)。ホルトンは、飛躍の成功の要因として、偶然のほかに、「正当性も虚偽性も立証できないが、まったく勝手でもない考え方の設定や使用が、たしかに存在する」と考え、このJ(飛躍)を導き方向づける考え方を「テマータ」と呼んでいる(注18)。

 ホルトンは例を挙げている。

 理論形成にあたってアインシュタインを導いたテマータとしては、つぎのようなものが認められる。形式的な(物質主義的でない)説明の優位、統一性(あるいは統一化)と宇宙論的な規模(諸法則の、経験の全領域にわたる平等な適用可能性)、論理的な倹約と必然性、対称性、単純性、因果性、完全性、連続性、それからもちろん、定値性と不変性がある。個々の場合にアインシュタインが、実験による検証が難しいとか入手不可能と思われるときでさえ、頑固にある方向の仕事を続けていった理由は、まさにこれらのテマータで説明されるのである。これはまた、テマータ的な前提条件が自分のものとは対立するような諸理論(たとえばボーア学派の量子力学)を、実験との相関はきわめてよいにもかかわらず、なぜ拒否したかをも説明する。

 そして、テマータの場所を図1(アインシュタインの思考モデル)に示している。

 こういう考え方も、EJASE過程にテマータの機能を明示するような修正をほどこすことによって、図1の図式に組み込むことができる(図7)。EからAへの飛躍にはいろいろありうるが、特定の理論家の採用した、あるいは思考過程にしみこんだテマータというフィルターを通るときに、一つか二つに濾過されてしまうのである。

 ホルトンが示した図は次のようなものである。θはテマータを表している。

       

 これを背景にして、わたしたちの弁証法を示そう。作図のポイントは、次の5点である。

 以上をもとに作図すると次のようになる。これが、わたしたちの弁証法の図解である。弁証法のアインシュタインモデルと呼ぶことにする。

       

  B' は(a+bi)×(c+di)、
  B" は(a+di)×(c+bi)、
  B は(ac−bd)+(ab+cd)i

と対応する。

 また、J(飛躍)の過程は、弁証法の共時的構造と対応する。
 すなわち、
cbi +adi
     
bic +dia
である。

 また、B" ― Bは、

                
(a+di)×(c+bi)=(ac−bd)+(ab+cd)i
 =x+yi
 =B
である。

 弁証法の過程は、B' ― J ― B" ― B と表示できる。縮めれば、B' ― B" ― Bである。これが「選択―混成―統一」に対応する。

注18 テマータ

 テマータは、themata と書くようである。(「パラダイム」から科学的探究の源泉としての「テマータ」へ From "Paradigm" to "Themata" as Origins of Scientific Thought 杉山 聖一郎 1愛媛大学法文学部 参照) themataは、thema(=theme)の複数形である。thema(=theme)は、テーマ(主題・主旋律など)のことである。しかし、認識の枠組みを意味する「パラダイム」が、語形変化の一覧表に基づいていることと対照すれば、テーマは、主題というよりも、語形変化において変化しない部分、すなわち「語幹」と捉えた方が根本的だと思われる。テマータ(themata)は「語幹群」である。

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3 マクスウェルの弁証法

 弁証法の例を一つだけ確認しておこう。

 マクスウェルによる電磁波の存在の予言は、物理学の歴史において感動的な事件の一つである。この過程を複素過程論と対応させておこう。マクスウェルの弁証法である。

 マクスウェルによる電磁波の存在の予言において、B'(AとA' )は「アンペールの法則」(電流は、回転的な磁場を作る)と「ファラデーの法則」(磁場の変動は、回路に電場を作る)である。マクスウェルの「あれ」と「これ」である。

 マクスウェルは「アンペールの法則」(電流は、回転的な磁場を作る)と「ファラデーの法則」(磁場の変動は、回路に電場を作る)を、回路ではなく、空間において対立させる。

 J(飛躍)の過程は次のようである。

 アンペールの法則の自己表出と指示表出は「回転的な場の出現」に関連するもの、一方、ファラデーの法則の自己表出と指示表出は「場の変化」に関連するものだったと考えられる。

 2つの法則の自己表出と指示表出が関連しあい、回転的な場の出現と場の変化の関係を構成する。

cbi +adi
+   +
bic +dia

 ここで、上の中央の bi + a をアンペールの法則としよう。下の中央の c + di がファラデーの法則である。
 右側の混成モメント di + a は、アンペールの法則の自己表出とファラデーの法則の指示表出から構成されている。これは、アンペールの自己表出(回転的な場の出現)とファラデーの指示表出(場の変化)とが結合する方向を示している。つまり、アンペールの法則の電流を、電場の変化として捉えなおすことを意味している。

 これが右側の混成モメント di + a に対応する式である。変化する電場は回転的な磁場を生み出すことを表している。「マクスウェル法則」(電場の変動は、回転的な磁場を作る)である。

 これに対して、左側の混成モメント c + bi は、ファラデーの法則の自己表出とアンペールの法則の指示表出から構成されている。つまり、ファラデーの法則の自己表出(場の変化)とアンペールの法則の指示表出(回転的な場の出現)とが結合する方向を示している。これが左側の混成モメント c + bi に対応する式である。これは変化する磁場は回転的な電場を生み出すことを表している。「ファラデーの法則」(磁場の変動は、回転的な電場を作る)である。

 B" が、この二つである。「マクスウェル法則」(電場の変動は、回転的な磁場を作る)と「ファラデーの法則」(磁場の変動は、回転的な電場を作る)である。この二つは、回路ではなく空間において、マクスウェルが「アンペールの法則」(電流は、回転的な磁場を作る)と「ファラデーの法則」(磁場の変動は、回路に電場を作る)を混成することによって形成したものと考えられる。

 また、B は「磁場のみが現れる式」(横波に対する波動方程式の形)と「電場のみが現れる式」(横波に対する波動方程式の形)である。これは、B"から数学的に(論理的に)導けるものである(注19)。

注19  マクスウェルの「連立」と複素過程論

 米沢富美子氏は『人物で語る物理入門』第5章 「電気と磁気の謎を追う」のなかで、「連立」ということばを2度使っている。この「連立」は複素過程論と共鳴する。

 最初は、マクスウェルが、アンペールの法則・ファラデーの法則・磁場に対するガウスの法則・電場に対するガウスの法則を「連立」させ、電場の変動が回転的な磁場を作るという考えを付け加える場面である。

 マクスウェルは、ファラデーの力線の考えを引き継ぎ、それを数学的に表現することで、電磁気理論の体系作りに成功します。電気力線と磁力線で満たされた空間を電磁場と呼び、次の四つの式が基礎になると考えました。
  • 1 「アンペールの法則」  電流は、回転的な磁場を作る
  • 2 「ファラデーの法則」  磁場の変動は、回路に電場を作る
  • 3 「磁場に対するガウスの法則」  閉じた曲面を出入りする磁力線の数の差し引きは、零になる
  • 4 「電場に対するガウスの法則」  閉じた曲面を出入りする電気力線の数の差し引きは、曲面の中にある電荷の総量になる

 しかし、これらの四つの式を連立させたとき、数学的表現が物理的事実と矛盾する場合があることに、マクスウェルは気づきます。この問題を解決するためにマクスウェルは、1のアンペールの法則を見直します。電場と磁場の相似性を保つためには、2のファラデーの法則からの類推で、「電場の変動」が回転的な磁場の発生に寄与すると考えるべきです。この点を考慮してマクスウェルは「電場の変動」の項を、1のアンペールの法則のなかの「電流」に加えます。こうすると、懸案だった矛盾が消えました。この項を加えた新しい1' 式は、「電場の変動と電流との和は、回転的な磁場を作る」と表わすことができます。この式は、「マクスウェル―アンペールの法則」と名付けられます。

 次は、4つのマクスウェルの方程式を「連立」させ、波動方程式を導く場面である。

 「マクスウェルの方程式」(1'234)を連立させると、電場を消去して「磁場のみが現れる式」を導いたり、磁場を消去して「電場のみが現れる式」を導いたりすることが可能になります。そのときに導かれた式は、磁場に関するものも、電場に関するものも、それぞれ、横波に対する「波動方程式」の形になります。
 この波の速度は、右に述べた「波動方程式」から理論的に求められ、電磁気的量で表わすことができます。その電磁気的量に測定値を入れて計算された「波の速度」は、「光の速度に対する観測値」とよい一致を示すことが、マクスウェルによって見いだされました。こうしてマクスウェルは、光の本質は電磁波であるという結論に至ったのです。

 最初の「連立」は、「選択―混成」と対応する。次の「連立」は「混成―統一」に対応するのである。

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4 正々反合

 弁証法の図式として「正反合」がある。正反合を「大辞林」は次のように説明している。

  〔専門〕 哲 ヘーゲルによって定式化された弁証法論理の三段階。ある判断(定立)と、それと矛盾する判断(反定立)と、正反二つの判断を統合したより高い判断(総合)のこと。

 島崎隆氏は〈哲学・思想の分野において、弁証法ほどオリジナルとその通説的理解がかけ離れたものはない。ヘーゲルは弁証法を「正・反・合」の単純な図式で説明などしていない〉と述べている(『ポスト・マルクス主義の思想と方法』こうち書房 1997)。たしかに、正反合はヘーゲル本人の定式ではない。

 しかし、弁証法理論の発展からいえば、正反合の図式を島崎隆氏のように否定的に捉えるのではなく、むしろ、肯定的に、また積極的に捉えたほうがいいのではないかと考える。わたしたちは、正反合の図式をヘーゲル弁証法の要約でもあり、ヘーゲル的でない弁証法への第一歩でもあると考えたほうがよいと思っているのである。

 田坂広志氏は『使える弁証法』(東洋新報社 2005年)のなかで、対話のなかに正反合を見ている。田坂氏の見方は正反合の過渡性を典型的に表していると思う。

 「正」「反」「合」を使って、ヘーゲル的でない弁証法を表現しておこう。

 田坂広志氏は『使える弁証法』のなかで、「弁証法」を「対立した意見の持ち主が対話を行うことによって、互いに、より深い思考に向かって行くための方法」と考え、その具体的方法は「正」「反」「合」による思考の深化であると述べている。

 すなわち、弁証法とは、「正」(テーゼ)「反」(アンチテーゼ)「合」(ジンテーゼ)というプロセスで思考を深めていく方法です。
   わかりやすくいえば、一人が語った意見(正)に対して、もう一人が、その反対の意見(反)を語り、それぞれの意見にもとづく対話を通じて、二人がともに、二つの意見を包含し、統合し、止揚した、さらに深い理解(合)に到達するという方法です。

 そして、次のような例を挙げている。

 例えば、子供の教育の問題について、ある人が、「教育においては優しさ必要だ」と述べたとします。それに対して、もう一人が、「いや、教育においては、厳しさが必要だ」と述べます。この段階では、互いに意見は、まったく対立し、矛盾している状態ですが、二人が真摯に対話をするならば、さらに理解が深まっていきます。
 
 例えば、「子供を叱らないということが、本当の優しさなのだろうか」という意見や、「ときに厳しく叱ることが、本当の優しさではないのだろうか」といった意見が出されます。また、一方で、「厳しさの背後に、叱る人間の怒りがあってはならないのではないか」という意見や「厳しさの奥に、その子供の可能性を深く信じる心がなければならない」といった意見が出されます。
 
 そして、こうした意見が交わされる中で、二人の思考は深まっていき、子供の教育について、優しさや厳しさということの本当の意味がわかってきます。そして、最終的には、単なる優しさでもなく、単なる厳しさでもない、それらを包含し、統合し、止揚した、さらに深いレベルでの教育のあり方に目が開かれていきます。
 
 これが、「対話の方法」としての「弁証法」です。

 「正」と「反」が対話を通じて「合」に到達するという説明をしている。

 挙げられている例でいえば、「正」は「教育においては優しさ必要だ」、「反」は「いや、教育においては、厳しさが必要だ」と対応する。また、「合」は「単なる優しさでもなく、単なる厳しさでもない、それらを包含し、統合し、止揚した、さらに深いレベルでの教育のあり方」と対応するだろう。しかし、次の過程は対応することばをもっているだろうか。

 「子供を叱らないということが、本当の優しさなのだろうか」という意見や、「ときに厳しく叱ることが、本当の優しさではないのだろうか」といった意見が出されます。また、一方で、「厳しさの背後に、叱る人間の怒りがあってはならないのではないか」という意見や「厳しさの奥に、その子供の可能性を深く信じる心がなければならない」といった意見が出されます。

 この「対話」の過程は、「反」と「合」の間に隠れているか、「合」に吸収されてしまい、独自の段階としては機能していないと思われる。わたしたちの弁証法では、この段階が、もっとも重要な段階で弁証法の核心である。しかし、正反合の図式では、ここには照明があたらないのである。

 田坂広志氏の例をわたしたちの弁証法の図式と対応させてみよう。

 対話の過程は、弁証法の共時的構造で説明できる。

cbi +adi
+   +
bic +dia

 田坂広志氏の「正」と「反」は、図の中央の bi + a と c + di とに対応させることができる。通説的な理解での「正」と「反」は、わたしたちにとっては、二つの「論理的なもの」(「正」と「正」)なのである。

 「反」の意味が変容する。 「反」は、図の左右にある二つの混成モメント c + bi (左側)と a + di (右側)である。

 この「反」が、「子供を叱らないということが、本当の優しさなのだろうか」という意見や、「ときに厳しく叱ることが、本当の優しさではないのだろうか」といった意見が出されます。また、一方で、「厳しさの背後に、叱る人間の怒りがあってはならないのではないか」という意見や「厳しさの奥に、その子供の可能性を深く信じる心がなければならない」といった意見が出されます。」と対応しているのである。

 このように、正反合の図式では、「合」に埋没し隠れている「対話」の過程が、わたしたちの弁証法においては、独自の段階として設定されているのである。

 わたしたちは弁証法の通時的構造を、選択・混成・統一の三段階で示した。これを正々・反・合と特徴づけておこう。この図式は、正反合と密接に関係していて、しかも選択・混成・統一より簡潔なところが重宝する。

 さて、正・反・合は、テーゼ thesis・アンチテーゼ antithesis・ジンテーゼ synthesis と呼ばれている。正々・反・合の呼び方を考えておこう。

 「正々」は、テーゼthesis とパラテーゼ parathesis である。パラテーゼ parathesis のパラ para は、パラレル parallel(平行・並行)のパラ para である。パラ paraは「 傍らに、並立していて、対立しているもの」という意味である。「正々」は、一言でいって、パラテーゼ parathesisである。「合」もジンテーゼ synthesis でよいと思う。

 問題は「反」である。「反」は、アンチ anti-ではない。わたしたちの「反」は、「対話」の核心と対応していて、テーゼとパラテーゼの肯定と否定を混成したものである。

 「反」の段階で混成モメントが形成される。これは平行線(paralel)がなんらかのきっかけで偶然交わると形容できるだろう。

 syn-と同じように、with 、together (「ともに」「いっしょに」)の意味を持っているが、syn-ほど緊密ではない。このような条件を満たす接頭語を探してみると、con-に突き当たる。

 con- は、次に続く文字によって、co- 、col- 、 com- 、con- 、cor- と変わる。 

 co-incide(一致する)、 col-laborate(協力する)、com-municate(連絡する)、con-nect(結合する)、cor-relate(関連する)。

 coincideは「一致」だが、強調すれば、「偶然の一致」である。syn- との違いがはっきりしている。

 正々反合は、パラテーゼ parathesis ―コンテーゼ conthesis― シンテーゼ synthesis と表現できる。

 正反合と正々反合を対照しておこう。

     
 正反合  正々反合
 テーゼ thesis  パラテーゼ parathesis
 アンチテーゼ antithesis  コンテーゼ conthesis
 ジンテーゼ synthesis  シンテーゼ synthesis

 パラ para ― コン con― シン syn 。 これが接頭語のレベルでのヘーゲル弁証法とわたしたちの弁証法の違いである。ひとつだけにしぼれば、アンチ anti とコン con の違いが、二つの弁証法の違いになる。

 コンテーゼ conthesis のコン con は、混成の「混」と同じ音である。「con-」と「混」。偶然の一致であろう。

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5 ひらがな弁証法

 最後に、ひらがなによる表現を提示しておこう。

 わたしたちが提起する弁証法は、共時的構造と通時的構造によって表すことができた。 

 共時的構造は、選んだ2つの「論理的なもの」を関連させ、2つの混成モメントを形成する過程を表している。選んだ2つの論理的なものを、「あれ」と「これ」で表そう。その2つを関連させ、混成モメントを形成する過程を、「むすんで、ひらいて」と表現しよう。そして、共時的構造を「ひろがるかたち」と表現する。

 ひろがるかたち

cbi +adi
+   +
bic +dia

  あれとこれと
  むすんで
  ひらいて

  2つの論理的なもの「あれ」と「これ」を選んで、
  関連させることによって、
  (混成モメントを形成する)

 また、通時的構造は、選んだ2つの「論理的なもの」を、1つの「論理的なもの」に統一する過程を表す。その過程を「ふたつをひとつにつなぐ」と表そう。そして、通時的構造を「つながるかたち」と表現しよう。

 つながるかたち

1(選択)A =a+bi
A' =c+di
2(混成)A×A' =(a+bi)×(c+di)
≒(a+di)×(c+bi)
3(統一)=(ac−bd)+(ab+cd)i
=x+yi
=B

  ふたつを
  ひとつに
  つなぐ

  2つの論理的なもの「あれ」と「これ」を選んで、
  1つの論理的なものに
  (統一する)

 弁証法の語源ディアレクティケーは、ディアレクティケー・テクネーのテクネー(技術)が省略されたものである。弁証法は科学ではなく技術なのである。このテクネー(技術)を復活させよう。

 わたしたちが提起する「ひらがな弁証法」は、「ひろがるかたち」と「つながるかたち」の二つの形をもっていて、次のようにひらがなで表すことができるのである。

    あれとこれと
    むすんで
    ひらいて
    ふたつを
    ひとつに
    つなぐわざ 

 ひらがな弁証法「あれとこれと」は、ヘーゲル弁証法「あれもこれも」とキルケゴール弁証法「あれかこれか」の「間」にあり、選択からはじまる弁証法である。

 わたしたちは「論理的なものの三側面」(ヘーゲル『小論理学』)の規定を解体し、「論理的なもの」の構造として自己表出と指示表出を仮定し、また否定的理性と肯定的理性の並列構造を想定することによって、「矛盾と止揚」ではなく「対話と止揚」の論理を表したのである。

 ひらがな弁証法を弁証法の新しい考え方として提起したいと思う。

(了)
 
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あとがき

 弁証法への関心は1970年代に始まる。そのころ弁証法といえば、もっぱら武谷三男氏の『弁証法の諸問題』だった。その中で「ニュートン力学の形成について」はとくに興味深く、武谷三段階論を方法にして、周期律の形成過程をたどってみようと考えるまでになった。わたしの思索の始まりになったように思う。

 1980年に「周期律の形成について」をまとめた。その過程で出てきた新しい認識論の可能性や創造性に関する問題が次の課題になった。わたしは複素過程論を作った。そして、それを1990年に「もうひとつのパスカルの原理」のタイトルでまとめた。

 この前半は雑誌「試行」(70 1991年、71 1992年)に載せてもらい、励みになった。

 複素過程論をさらに展開していく過程で、1995年に許萬元氏の『弁証法の理論』と出会い、弁証法の理論を構築する課題がつけ加わった。

 しかし、弁証法の理論は2000年までまったく出来なかった。なにより文献を読み理解するのに時間がかかった。ヘーゲルやマルクス主義の「矛盾論」に悩まされた。そして、複素過程論の不備もわかってきた。複素過程論を見直し再構築しなければ、弁証法を捉えられないと感じ、「もうひとつのパスカルの原理」の後半を全面的にやりなおした。2000年に「もうひとつのパスカルの原理」を改訂した。

 わたしは「論理的なものの三側面」に対して疑問をもっていた。しかし、2000年には、まだ「論理的なものの三側面」を克服していない。むしろ「論理的なものの三側面」に合わせるように複素過程論を定式化していたのである。それゆえ、2000年の時点で、わたしの弁証法は、自己表出・指示表出の構造をもつ認識と「反対の諸規定への移行」(弁証法的側面あるいは否定的理性の側面)が共存する過渡的な形をしていたのである。まだヘーゲル弁証法の掌中にあったといえよう。

 「論理的なものの三側面」と対照させて弁証法の理論を構築するという考えが明確になり、2003年に「弁証法試論」をまとめた。しかし、原型は出来たが、納得できるものではなかった。ホームページ「弁証法試論」とブログ「対話とモノローグ」を立ち上げて、弁証法に関する考察を続けてきた。

 九鬼周造氏の『偶然性の問題』がきっかけとなって、表出と様相性の関係の理解が進んだ。また、アインシュタインの認識論を検討することによって、認識における表出論が徐々に見えてくるようになった。

 今年(2010年)になって、沢田充茂氏の記号論を契機として、認識において、どのように自己表出と指示表出を位置づけなければならなかったのかがわかった。

 長い間、弁証法に関心を寄せてきたものだと思う。弁証法と縁があったのだろう。切りつめていえば、4人と出会ったいえる。

   1 武谷三男『弁証法の諸問題』
   2 許萬元『弁証法の理論』
   3 上山春平『弁証法の系譜』
   4 中埜肇『弁証法』

 4人と出会い、対話をすることによって、弁証法の理論が出来上がった。

 ひらがな弁証法と名づけたきっかけは、『ひらがな思考術』(関沢英彦著 ポプラ社 2005年)である。関沢英彦氏は「ひらがなで考えてみないか」と勧めていた。

 わたしはすでに自分の弁証法を「あれとこれと」と特徴づけていた。しかし、共時的構造や通時的構造はひらがなで表現していなかった。「あれとこれと」に続けて、新しい弁証法の理論(複素過程論)を「ひらがな」で表現してみようと思ったのである。

  あれとこれと
  むすんで
  ひらいて
  ふたつを
  ひとつに
  つなぐわざ

 弁証法の共時的構造を「ひろがるかたち」、通時的構造を「つながるかたち」と表して、ひらがな弁証法は出来上がった。

 この弁証法の理論は受け入れられるだろうか。

 わたしは、弁証法から矛盾を取り除き、対話を取り入れたのである。ひらがな弁証法は、ヘーゲルと対照すれば、矛盾と止揚ではなく、対話と止揚の弁証法であるといえると思う。

 ヘーゲル弁証法の「例」として、植物の生長があげられる。植物の生長を、種が否定されて芽、芽が否定されて茎や葉、茎や葉が否定されて花、花が否定されて種、という否定の過程として捉えるものである。

 しかし、これよりも、ニュートンの万有引力の発見の過程やマクスウェルの電磁波の予言を弁証法の例と見る方が、魅力的ではないだろうか。

 ひらがな弁証法は、複素過程論の「媒介の論理」として、「対話をモデルにした思考」(中埜肇氏)や「認識における対立物の統一」(上山春平氏)を組み入れたものである。

 わたしは「論理的なもの」の側面として「自己表出と指示表出」(吉本隆明氏)を想定した。これを基礎にして、弁証法の共時的構造と通時的構造を提起した。そして、この二つの構造を「論理的なものの三側面」に対置したのである。

 「論理的なもの」にヘーゲルとは異なる構造を対置して、弁証法の理論を構築する試みは、わたしの知るかぎり、これまでなかったと思う。

 「自己表出と指示表出」を基礎にしたひらがな弁証法と「論理的なものの三側面」に集約されるヘーゲル弁証法を比較してもらいたいと思う。

      2010年10月

      
嶋 喜一郎
 

参考文献

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