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弁証法を創作する 2009

 弁証法を創作する。このように書いてみると、わたしの試みを簡潔に表現しているような気になってくる。長い間、弁証法の理論に関心を寄せてきた。弁証法と縁があるといえるだろう。

 切りつめていえば、4人と出会った。

   1 武谷三男『弁証法の諸問題』
   2 許萬元『弁証法の理論』
   3 上山春平『弁証法の系譜』
   4 中埜肇『弁証法』

 1は、弁証法の新しい理論をつくる試みとは直接の関係はないが、弁証法への関心を持つきっかけになったものである。2と3と4の間を行き来しているうちに、弁証法をつくるという問題意識が芽生えてきたのだと思う。

 弁証法をつくる姿勢がよく表われている記事を8編えらび、「弁証法試論」への「まえがき」とする。(1と2は2006年、3は2007年、4と5と6と7と8は今年2009年の記事である。)

 目次      

   1 赤と白の『弁証法の系譜』

   2 弁証法の理想型と現実型

   3 悟性の二重性

   4 弁証法を形式化する試み

   5 止揚はヘーゲル弁証法の合理的核心である

   6 高校講座「弁証法」―― 「向日葵(ひまわり)の弁証法」から「光(ひかり)の弁証法」へ

   7 弁証法をつくる――PLDの複合

   8 表出論の系譜

1 赤と白の『弁証法の系譜』

 しばらく前に、岐阜県図書館の開架にある『弁証法の系譜』は、赤い表紙の未来社の本から、白いカバーのこぶし文庫の本に替わった。本も新陳代謝をしているのだと思った。

 赤の『弁証法の系譜』(未来社、1963年)をはじめて手にしたのは、およそ10年前のことである。そのころ、わたしは許萬元によって与えられた問題を解くのに参考になりそうな本を手当たりしだいに読んでいた。「論理的なものの三側面」はこれまでどのように研究されてきたのかが最大の関心だった。

 「論理的なものの三側面」とは、ヘーゲルが『小論理学』のなかで述べている規定で、論理的なものには、1 悟性的側面、2 否定的理性的側面、3 肯定的理性的側面 の三つの側面があるという見解である。

 「論理的なものの三側面」を批判的にとりあげてある本を踏み台にしたかったのである。しかし、「論理的なものの三側面」を取り上げている本は少なかった。あっても、たんにヘーゲルの規定を反復するだけのものだった。全面的に否定していたのは、見田石介だった(「ヘーゲル論理学と『資本論』」)。しかし、これは、あきらかな誤解に基づいているように思え、参考にはならなかった。再考を求める複素過程論、読みづらい廣松渉(『弁証法の論理』)、くりかえし読む許萬元(『弁証法の理論』)、このような中で、上山春平の『弁証法の系譜』を手にしたのである。

 上山春平の「論理的なもののの三側面」へのアプローチには、二種類あるように思えた。一つは、哲学史に関連したものである。ヘーゲルが分類した近代哲学思想の三つの真理観のタイプ(イ ドグマ的な「悟性的形而上学」、ロ 懐疑的もしくは反省的な啓蒙哲学、ハ 反省知をしりぞける直接知の哲学)を、次のように、論理的なものの三側面と対応させ、ヘーゲル哲学を位置づけるものである。

  1 悟性的モメント       (イ) と (ハ) 
  2 否定的理性的モメント     (ロ) 
  3 肯定的理性的モメント   ヘーゲル哲学

   (イ) のタイプの例として、「大陸合理論」(ライプニッツ、ヴォルフ、デカルト、スピノザ)があげられている。(ロ)は、イギリス経験論とカントの批判哲学である。また、(ハ) の例は、「ロマン主義哲学」(ヤコービやシェリング)である。

 もう一つは、問題解決の過程と「論理的なものの三側面」と対応させるものである。

  1 悟性的モメント       「問題のない段階」
  2 否定的理性的モメント   「問題をもつ段階」
  3 肯定的理性的モメント   「問題の解決した段階」

 わたしが関心をもったのは、後者である。複素過程論が「論理的なものの三側面」と関連し、弁証法へと展開していく方向をかいまみる思いがしたのである。

認識における「対立物の統一」の過程としての問題解決の過程こそ、弁証法論理学の固有の研究対象ではないか
Aufheben の過程にかんする論理的分析は、ヘーゲルによって残された弁証法論理学の最大の課題であった。

 これらの指摘は、わたしの試みを後押ししてくれるように思えた。

 しかし、上山春平は否定性を問題にしていないように思われた。すなわち、『弁証法の系譜』では、ヘーゲル弁証法の神秘性の原因である否定性が、問題になっていないように思われたのである。否定的理性的モメントの捉え方が、「対立する一項の内在的否定による進展」(松村一人)と内的に捉えられておらず、悟性的モメントに独断論的側面、また否定的理性的モメントに懐疑的側面を外的に対応させているだけのように思えたのである。

 わたしは、上山春平が考えを整理するために示した二つの図表に着目した。表1と表2である。

     
表1 (上山春平『弁証法の系譜』より)
問題解決の過程弁証法的な論理のモメント
認識論的過程論理過程
(1) 問題のない段階定立命題(正)悟性的モメント
(2) 問題をもつ段階矛盾命題(正と反)否定的理性的モメント
(3) 問題の解決した段階 統合命題(合)肯定的理性的モメント
 
表2 (上山春平『弁証法の系譜』より)
問題解決の過程プラグマティズム論理学マルクス主義論理学ヘーゲル論理学
探究の過程認識の過程理念の過程
(1) 問題のない段階         
(2) 問題をもつ段階1) 問題    
2) 仮説1)アブダクション1) 感性的認識1) 直観1) 生命
3) 推論2)ディダクション2) 理性的認識2) 思考2) 理論的理念
4) テスト3)インダクション3) 実践3) 実践3) 実践的理念
(3) 問題の解決した段階5) 言明   4) 絶対的理念
(上山)(デューイ)(パース)(毛沢東)(レーニン)(ヘーゲル)

 表1の「問題をもつ段階」において正と反を並立させていること、表2の「問題のない段階」が空白になっていることの意味( 表2´ )を考えつづけることになったのである。

 
表2´(上山春平『弁証法の系譜』より)
問題解決の過程プラグマティズム論理学マルクス主義論理学ヘーゲル論理学
探究の過程認識の過程理念の過程
(1) 問題のない段階      
(2) 問題をもつ段階1) 問題    
2) 仮説1)アブダクション1) 感性的認識1) 直観1) 生命
3) 推論2)ディダクション2) 理性的認識2) 思考2) 理論的理念
4) テスト3)インダクション3) 実践3) 実践3) 実践的理念
(3) 問題の解決した段階5) 言明   4) 絶対的理念
(上山)(デューイ)(パース)(毛沢東)(レーニン)(ヘーゲル)

 上山春平は、「問題解決の過程は、第二段階から第三段階への移行過程、つまりテーゼとアンチテーゼの対立からジンテーゼへの移行過程として規定することができる」と述べている。この「問題解決の過程」が、ヘーゲル弁証法の合理的核心である。これに対して、ヘーゲル弁証法の神秘的側面とは、「論理的なものの三側面」の三段階そのものである。わたしはこのように考えるようになった。いいかえれば、わたしは、表2にはヘーゲル弁証法の神秘性と合理的核心が混在しているのではないかと考えるようになったのである。

 「問題のない段階」(悟性的モメント)に空白を設定して、「論理的なものの三側面」の三段階の形式を整えているのは、上山春平が「論理的なものの三側面」(三段階論)を絶対的な基準と考えているからではないだろうか。

 これに対して、わたしは、「問題解決の過程」を基準にして、「論理的なものの三側面」(三段階論)を解体していく方向を選択した。ヘーゲルとは異なる認識の進行形式を模索していくようになったのである。

 白の『弁証法の系譜』(こぶし文庫、2005年)は、『上山春平著作集第1巻哲学の方法』(法藏館、1996年)所収の「弁証法の系譜」を底本にしている。

 この本で特徴的なことは、考えを整理した図表のうち、表1が削除されていること、また、表2も、「問題の解決した段階」の行と「ヘーゲル論理学」の列が交差する枠に位置していた「 4) 絶対的理念 」が削除され、「問題のない段階」だけでなく、「問題の解決した段階」の空白も目立つようになっていることである。

 「白」で提示してある表は縦書きだが、「赤」の表と同じ横書きで示せば、次のようである。

 
表2(白)(上山春平『弁証法の系譜』(こぶし書房)より)
問題解決プラグマティズムマルクス主義ヘーゲル
探究認識理念
(1) 問題のない段階         
(2) 問題をもつ段階1) 問題    
2) 仮説1)アブダクション1) 感性的認識1) 直観1) 生命
3) 推論2)ディダクション2) 理性的認識2) 思考2) 理論的理念
4) テスト3)インダクション3) 実践3) 実践3) 実践的理念
(3) 問題の解決した段階5) 言明    
(上山)(デューイ)(パース)(毛沢東)(レーニン)(ヘーゲル)

 空白を強調すれば、次のようである。

     
表2(白)´(上山春平『弁証法の系譜』(こぶし書房)より)
問題解決プラグマティズムマルクス主義ヘーゲル
探究認識理念
(1) 問題のない段階      
(2) 問題をもつ段階1) 問題    
2) 仮説1)アブダクション1) 感性的認識1) 直観1) 生命
3) 推論2)ディダクション2) 理性的認識2) 思考2) 理論的理念
4) テスト3)インダクション3) 実践3) 実践3) 実践的理念
(3) 問題の解決した段階 5) 言明     
(上山)(デューイ)(パース)(毛沢東)(レーニン)(ヘーゲル)

 これは、わたしには、「論理的なものの三側面」と「問題解決の過程」が対応していないことを示しているように思える。いいかえれば、「論理的なものの三側面」(三段階)が解体され、意味がなくなっていることを示しているように思えるのである。

 上山春平は『弁証法の系譜』(こぶし文庫、2005年)の「解題」で、次のように述べている。(法藏館、1996年 の「解題」をすこしだけ書き直したもの)

 以上を要約すると、『弁証法の系譜』のテーマは、マルクス主義とプラグマティズムにおけるヘーゲル哲学の解体作業を手がかりとしながら、弁証法を問題解決の論理としてとらえ直すことにあった、と言うことができる。

 正確な自己認識だと思う。

 しかし、上山春平は問題解決の過程を表2(白)として示している。すなわち、これは、上山がいまだに「論理的なものの三側面」に束縛されていることを表わしているのである。

 弁証法は、「論理的なものの三側面」から完全に解放されなければならないと思う。

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2 弁証法の理想型と現実型

 中埜肇は、弁証法を考察するさいに、理想型と現実型を区別した。(『弁証法』)

 弁証法の理想型とは、弁証法の語源である「対話」を、言語的・歴史的な起源としてだけでなく、本質的な始元・意味内容の原点としてとらえたもので、「対話をモデルとした思考」・「対話的思考」のことである。

 これに対して、弁証法の現実型とは、歴史に現れたさまざまな形態の弁証法のことである。

 複合論は、中埜肇の弁証法を引き継ぐものである。しかし、わたしの考える理想型は中埜とは違っている。

 中埜肇は対話の特徴として「二個の主体」を挙げたが、弁証法の構造的な特徴を整理するとき、「二個の主体」を捨てている。このために、中埜の理想型は対話的思考として十分に展開されず、ヘーゲルの正・反・合という三つ組(トリアーデ)形式と結びついてしまった。

 これは中埜肇の理想型の核心にある考えである。というのは、弁証法の歴史を概観して、弁証法とトリアーデは、歴史的には必然的・本質的な連関はないと強調する一方で、次のようにも述べているからである。

 「弁証法」ということばと正・反・合という三つ組(トリアーデ)形式とは歴史的にはヘーゲルにおいて初めて結びつくことになる。(ただし第一章で述べたように、対話の思想的構造を分析すれば、その本質上トリアーデ形式が必然的に導き出される。だからヘーゲル以前の弁証法の諸形態のなかで、「弁証法」がトリアーデと結びつけて考えられなかったことのほうがむしろ不思議なことだと言われなくもない。)

 わたしが考える弁証法の理想型は、「二個の主体」を弁証法の構造的特徴として取り入れたものである。

 理想型の内容は中埜肇のものとは違っている。それだけではない。弁証法の理想型と現実型の関係も違っているのである。

 中埜肇が取り上げた弁証法の現実型には、次のようなものがある(引用してある哲学事典を基にして作成)。

 中埜肇は、理想型と現実型の関係を次のように述べている。

 このような理想型がそのままのかたちで思想の歴史に登場したことはない。たとえば前に挙げた哲学事典に記されたさまざまの弁証法は、思想の歴史のなかに実際に登場したものであるが、それらはすべてここに私が構想した理想型から派生した誘導体である。あるいはこの理想型をテーマ旋律として、これにさまざまの作曲技法を加えることによってできあがった変奏曲であるということもできよう。しかもそこで加えられた技法がきわめて複雑なために、変奏曲のなかにはもとのテーマ旋律との間の共通性や関連性を疑わせるほどテーマから離れてしまったものも現実にはいくつか登場した。しかし詳細に見れば、どんなに奇妙な変奏曲のなかにもテーマは何らかのかたちで響いているはずである。

 弁証法の現実型は理想型から派生した誘導体であり、理想型をテーマ旋律とした変奏曲だと言っている。いいかえれば、すべての現実型には理想型が内在していると想定している。

 これに対して、わたしは、すべての現実型とは別の場所に理想型があると考える。すなわち、理想型がそのままのかたちで思想の歴史に登場したことはないという想定は中埜と同じだが、理想型はすべての現実型の外に存在していると考えているところが違っている。

 弁証法という曲名で奏でられてきたさまざまな旋律。反駁、流転、問答、詭弁、分割の方法、イデアへの道、蓋然的な推論、論理学、仮象の論理、正反合、選択、一般的運動法則についての科学。これらはすべて弁証法の誤った旋律である。誤ったという形容が極端なら、あいまいな旋律である。人類は、2500年の試行錯誤の後に、テーマ旋律(「対話をモデルとした思考方法」)を発見したのではないかとわたしは考えているのである。

 理想型はもともと存在していたのではなく、20世紀になって初めて発見されたのである。「変奏曲のなかにはもとのテーマ旋律との間の共通性や関連性を疑わせるほどテーマから離れてしまったものも現実にはいくつか登場した」のではなく、もともとテーマ旋律は存在しなかったのである。存在したのは、弁証法ということばとそれぞれに固有の旋律だけである。

 弁証法といえば、ヘラクレイトスの「万物流転」である。しかし、この連想は、ヘーゲルとマルクス主義によってもたらされたもので、たかだか、19世紀以降の現象にすぎないのではないと述べたことがある。

 実際、アリストテレスは、ヘラクレイトスではなく、ゼノンの帰謬法(背理法)を指して、弁証法の始まりを見ているのである。

 おそらく、これまでの歴史をつらぬく弁証法の普遍的なイメージは「論理学」である。

 沢田允茂によれば、始まりは、次のようである。

 アリストテレス以前、すでにエレア学派やプラトンにおいて論理は論理学という独立した学問としてではなくて、たがいに敵対する論者が相手の議論を論破するという具体的な状況のなかでの技術として用いられた。このような技術がlogic とよばれないで、dialecticsとよばれたのもこの故である。(「哲学と論理学」岩波講座哲学 10 論理 所収)

 中世から近世では、次のようである。

 もちろんロジックという名前でよばれるようになったのは13世紀ごろになってであって、それまでは、アリストテレスでは、すべての学問のための道具 organon と呼ばれ、ストア学派では弁証法 dialectic すなわち対話論争の技術や方法を意味することばで呼ばれている。16世紀になるとふたたび「論理学」(ロジック)にかわって「弁証法」(ディアレクテイク)という名称が優勢となり、17世紀には、また「論理学」という名称が一般的になっている。(『現代論理学入門』)

 沢田允茂は、アリストテレス的形式論理学に対して、三種類の反動があったという。一つは、経験科学的な反動である。すなわち、ベーコンにおいて、アリストテレスでは不完全な形のままに残されていた帰納的推論が「新しい道具」として提出される。二つめは、幾何学・代数学からの反動である。すなわち、形式論理学よりもはるかに形式化が進んでいた数学の方法を取り入れることによって、論理そのものの形式化をより推し進めていこうとする試みである。三つめは、認識論的・形而上学的な反動である。すなわち、形式論理学の形式性そのものに対する懐疑から出発するカントの先験的論理学やヘーゲルの弁証法的論理学の試みである。(『現代論理学入門』参照)

 このような三つの試みは、科学、論理学、弁証法を掘り下げていくことになった。そして、20世紀になって、弁証法と論理学の分離を明確にしたのである。沢田允茂は次のように述べている。

 形式論理学は現実の生成変化を否定するどころか、それを十分に表現できる。弁証法と形式論理学とはその意味で矛盾するものでもなければ対立するものでもない。弁証法の重要さは形式論理学にとって代わるような領域にあるのではなくて、形式論理学とはまったく別の問題に関係しているものである。(『現代論理学入門』)

 20世紀になって、弁証法は論理学から解放されたのである。そして、自由になった場所に「対話」が甦る。プラトンが『国家』で作った「弁証法」(ディアレクティケー)に見合う固有の領域が見いだされたのである。

 古代ギリシアの dialectics は、理想型の対話でもなければ、理想型の弁証法でもない。この意味では中埜肇の次のような指摘は正しいといえるだろう。

 しかし私はこういうソクラテス的な問答が真の対話であるとは考えない。何となればこの問答では知識探究の主体はつねに問うほうの側にあって、答える側は問う側の信念を確認するか、せいぜい自分の知と無知とを悟らせられるにすぎず、両者はけっして平等に真理探究に参加しているとは言えないからである。それが証拠に答える側の発言内容は原則として「イエス」と「ノー」に限られ、内容を持った主張にはなっていないのである。ところが「対話」とは先にも述べたように、平等な権利と資格とを持った二人の語り手の、対立した内容を持った主張の動的な関わり合いである。だからつきつめて考えれば、ソクラテスの「問答」は本質的にはまだ「論駁」(エレンコス)という、いわば技術的な段階にとどまっており、学問の方法として自覚された弁証法ではなかったと言えよう。(『弁証法』)

 弁証法の理想型と現実型。弁証法の現実型のリストに、複合論を付け加えておこう。

   13 対話をモデルとした思考方法で、対立を統一する技術(喜一郎)

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3 悟性の二重性

 上山春平は、問題解決の過程と「論理的なものの三側面」を次のように対応させていた(『弁証法の系譜』未来社 1963年)。

 問題のない段階 悟性的モメント(正)
 問題をもつ段階 否定的理性的モメント(正と反)
 問題の解決した段階 肯定的理性的モメント(合)

 これに対して、わたしは次のような対応を対置した。

 問題のない段階 悟性的モメント
 問題をもつ段階 否定的理性的モメント
肯定的理性的モメント
 問題の解決した段階 悟性的モメント

 対置の要点は二つあった。一つは、問題の解決した段階は悟性的モメントでなければならないことである。もう一つは、否定的理性的モメントと肯定的理性的モメントは二つの段階として区別できるものではなく、否定的理性的モメントと肯定的理性的モメントは一体となって一つの理性的段階を構成していると考えたことである。

 また、「対立物の統一」における認識の進行形式を次の図式で表現した。
 
     悟性―理性……理性―悟性

 「悟性―理性」が問題の発生、「理性……理性」は問題を解いている段階、「理性―悟性」は問題の解決である。

 「悟性―理性」の過程では理性が悟性よりも優位にある。ここでは矛盾は許容される。しかし、「理性―悟性」の過程では、悟性が理性より優位にあり、矛盾は許容されない。ここでは規定に普遍性の形式を与えなければならないからである。

 「理性―悟性」の関係は、弁証法と矛盾律の関係を明確にする上で重要だと考えた。ヘーゲルは悟性に対する理性の優位を指摘するだけにとどまっているようにみえたからである。これは問題の発生に対応する見方であって、問題の解決に対応していないと考えたのである。理性に対して悟性が優位になる局面を設定することによって、弁証法が矛盾律の上で流動していることを明確に図式化しようと考えたのである。

 「論理的なものの三側面」は悟性的・否定的理性的・肯定的理性的という表現のほかに、抽象的・弁証法的・思弁的という表現がある。また、悟性・弁証法・思弁という表現もある。

 ヘーゲルは、論理的なものの最高の段階を思弁的(シュペクラティーフ)と特徴づけているのである。

 牧野紀之の『小論理学』(鶏鳴出版 1989年)を読んでいて、興味ある注解を見つけた。かれは、「思弁」という訳語は正しいのかと疑問を表明していたのである。また、「シュペクラチオーン」(Spekulation)の訳語の「思弁」と「フェアシュタント」(Verstand)の訳語の「悟性」は、逆の方がふさわしいのではないかと指摘していたのである。  

「シュペクラチオーン」の訳語として「思弁」という訳語は、誰が考え出したのか知らないが、正しいのかどうかということである。この場合の「思」は思考であり、「弁」は弁別の弁で、「区別してはっきりさせる」ということだろうから、むしろ「フェアシュタント」の訳語にふさわしい。逆に、「フェアシュタント」の訳語となっている「悟性」は、了解、分かる、つまり「事の核心をつかむ」というところからきているのだろうし、「イッヒ・フェアシュテーエ」という場合はたしかにそうだろうが、ヘーゲルの「フェアシュタント」の訳語としては「思弁」の方がふさわしく、「シュペクラチオーン」こそ「全体を一度に見る」つまり「悟る」のだから、「悟性」とした方がよいように思われる。定着している訳語を変えるのは大変だが、実際には変えないまでも、時々反省してみることは必要である。(『小論理学』訳者による注解)

 「シュペクラチオーン」こそ「全体を一度に見る」つまり「悟る」。よいではないか。「悟性」が、「フェアシュタント」(Verstand)と「シュペクラチオーン」(Spekulation)の間で流動化する。抽象と思弁に二重化する。「悟性」がはじめとおわりに出てくるのは、「論理的なもの」の進行形式としてふさわしいのかもしれない。

       悟性―理性……理性―悟性
 

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4 弁証法を形式化する試み

 「弁証法」をインターネットで検索すると、君のもいくつか出てくるけど、トップはウィキペディアの記事だね。その「ヘーゲルの弁証法」の項に次のようにある。矢崎美盛著『ヘーゲル精神現象論』(1936年)の引用だ。どう思うかね。

 矢崎美盛は、アインシュタインが来日(1922年)したとき、「根津美術館」の案内役兼通訳を務めた人だよ。ずいぶん昔のことだ。読んでみるよ。

 しばしば、ヘーゲル哲学の方法は弁証法であると言われている。そのことは正しい。しかしながら、もしも、ヘーゲルがあらかじめ弁証法という方法を形式的に規定しておいて、これを個々の対象思考に適用するという風に考えるならば、それは由々しき誤解である。ヘーゲルは、おそらく、その全著作の何処を探しても、方法としての弁証法なるものを、具体的思考から切り離して、一般的抽象的に論考したためしはない。彼はただ対象に即して考えるにすぎない。彼が対象に即して、対象の真理を具体的に把握するに適するように、自由に考えながら進んでいった過程が、いわば後から顧みて、弁証法と呼ばるべき連鎖をなしていることが見出されるのに過ぎない。極言すれば、理性的思考がいわゆる正反合の形態を具えているということは、抽象的形式的に基礎づけることは出来ない事柄である。そして、いわゆる弁証法的契機(例えば綜合)の具体性ということも、結局、対象を内包する理性内容の具体性に依存するものに外ならない。それ故に、ヘーゲルの哲学を理解するために、その内容から切り離されたいわゆる弁証法だけをとり出して、これを解釈したり論考したりすることは、むしろ不必要である。

 言っていることはわかる。そしてこの姿勢は、ヘーゲル研究者に共通していて、現在も引き継がれていると思う。「ヘーゲルは、おそらく、その全著作の何処を探しても、方法としての弁証法なるものを、具体的思考から切り離して、一般的抽象的に論考したためしはない」。そのとおりだと思う。しかし、「ヘーゲルの哲学を理解するために、その内容から切り離されたいわゆる弁証法だけをとり出して、これを解釈したり論考したりすることは、むしろ不必要である」と言いきったら、大間違いだと思う。

客 岩崎武雄や許萬元のことだね。

 そうさ。許萬元についていえば、『弁証法の理論』の「まえがき」で、弁証法をとり出すことは、内容から切り離されるとは限らないことを強調している。「弁証法の三大特色」(内在主義・歴史主義・総体主義)は「ヘーゲルの著作における論理展開の全般にわたってその基本的特徴にかんして細心の注意を向けて抽出した結果」とかれは自負しているよ。読んでおこう。

 また質問者は、「ヘーゲルもマルクスも弁証法の三大特色など言っていない」と私に反駁しています。直接言っていないからこそ、私の研究の意義もあったのです。事実、ヘーゲル自身も弁証法をそれだけとり出して論ずることはあまりしていません。しかしわれわれの研究というものは、潜在的にひそんでいるものを顕在化させ、明白な自覚にもたらす点にその意義があるのです。私のいう「弁証法の三大特色」が、ヘーゲルやマルクスによって直接語られていないからといって、決して彼らに外的なものだということにはならないのであります。

 そういえば、君は、「メタファーと代数」という比喩で、人間の精神活動の側面を述べたことがあったね(『もうひとつのパスカルの原理』参照)。それでいえば、許萬元の研究は、メタファーから代数へという精神活動の正常な方向にあるということだね。

 そうだよ。「メタファーと代数」はM・ブラックという人から借りた考え方で、不確定性という代価を払ってでも新しい意味と価値を創造していこうとする姿勢が「メタファー」で、精神活動の出発点。だれも見たことのなかった風景を描く。これに対して、「代数」は、その新しい意味と価値を特異な個性から切り離し、普遍化し、一般化すること。だれも見たことのなかった風景を、ありふれた風景にすること。

 矢崎美盛が示している姿勢は、一般化をめざとうとせず「メタファー」にとどまっていて、精神活動の歪曲ということかい。

 そこまでは言わない。かれの主題はヘーゲル哲学であって、弁証法ではないからさ。ヘーゲル哲学ならヘーゲルのもつ偶有性が大事なのだ。ヘーゲルの著作の個々の展開を執拗に探究する。しかし弁証法なら、事情は違ってくる。ヘーゲルの個々の展開の偶有性は捨象していかなければならないのだ。

 例えば、ヘーゲルの個々の展開ではなく、「論理的なものの三側面」(『小論理学』)に着目するということだね。

 ヘーゲルの膨大な論理展開の全般を「論理的なものの三側面」の規定と対応させたことは、許萬元の功績で、弁証法研究の大きな一歩だよ。許萬元の試みは、弁証法を形式化して捉える試みの一つといえるだろう。

 しかし、君は許萬元に「限界」を指摘している。

 そりゃ、そうさ。許萬元は「論理的なものの三側面」の規定にとどまっているからね。この規定はヘーゲル弁証法の核心ではあっても、弁証法の核心ではないと思っているからさ。まだまだヘーゲルの偶有性が付着していると思うよ。弁証法の形式化が不徹底なのだと思う。矢崎美盛がのべているように「ヘーゲルがあらかじめ弁証法という方法を形式的に規定しておいて、これを個々の対象思考に適用するという風に考えるならば、それは由々しき誤解である」。しかし、ヘーゲルではなく、ヘーゲル以降における弁証法の適用ならどうなのだ。弁証法という方法を形式的に規定しておいて、個々の対象思考に適用することは、対象の把握に成功するかどうかは別として、むしろ推奨されることではないのか。おれと方向は違うが、唯物弁証法では、量から質への転化(あるいはその逆)、対立物の相互浸透、否定の否定と形式化して、適用している。また、矢崎美盛は否定的に見ているが、正反合という形式化も、弁証法理論の進化だと思う。

 矢崎美盛の見解が、君の試みとまったく逆だということはよくわかったよ。「彼が対象に即して、対象の真理を具体的に把握するに適するように、自由に考えながら進んでいった過程が、いわば後から顧みて、弁証法と呼ばるべき連鎖をなしていることが見出されるのに過ぎない」。たとえば、海にボートを走らせる。水面に軌跡が残される。矢崎は軌跡に弁証法を見ている。君は、ボートを走らせるその行為のなかに、すなわち自由に考えながら進んでいくときに、弁証法を見ようとしている。そして、弁証法の形式化を徹底すれば、それは可能だと考えている。

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5 止揚はヘーゲル弁証法の合理的核心である

 城塚登が、存在の弁証法から認識の弁証法を切り離したとき、「否定性」の根拠が明確にならないことを理由にして、岩崎武雄の試みを否定し、「論理的なものの三側面」の規定を擁護しているのは、考えてみると、核心を突いていると思えるね。

 「論理的なものの三側面」の規定は、存在と認識を弁証法が貫いているということが前提になっている。これを切り離したら、ヘーゲルの思弁に閉じこめられた弁証法が解放される可能性がでてくるのさ。城塚登にすれば、退けないわけだよ。

 認識の弁証法を切り離して「論理的なもの」を想定する場合、「論理的なもの」とそれが指示する認識対象との間の矛盾に気づいたり、「論理的なもの」相互の間の矛盾に気づいたりする人間の頭のなかに「否定性」の根拠を想定すればよいということかね。

 そうだよ。そうすれば、認識の弁証法と対応する「論理的なもの」の構造ができる可能性は生まれてくると思うね。「悟性によって固定された規定」が、「必然的に自分自身を廃棄してそれと矛盾する対立規定に移行」するという進展の形式は、ヘーゲルに固有の想定にほかならないのだ。それはまさしくヘーゲルの偶有性さ。

 ヘーゲルが想定した「論理的なものの構造」の特徴は、三側面論がそのまま三段階論になっていることだろ。この進展の形式は「対立する一項の内在的否定による進展」(松村一人)という表現が言いあてている。

 おれはそこにヘーゲル弁証法の「神秘的な外皮」を見ている。

 君は、ヘーゲル弁証法の合理的核心は、「対立する一項の内在的否定による進展」におおい隠されている、と言っていたね。

 「論理的なものの三側面」の規定がヘーゲル弁証法の核心なのだ。そこには、神秘的な側面も合理的核心もある。

 それでは聞くが、ヘーゲル弁証法の合理的核心とは、何なのかね。

 一言でいえば、止揚だよ。

 止揚? それは、マルクスが見ようとした弁証法とは違うのではないか。

 おそらく。ヘーゲルとマルクス主義の弁証法。いいかえれば逆立と正立の二つの弁証法に共通しているのは「矛盾」と「否定の否定」。ようするに「論理的なものの三側面」の規定だよ。これはひっくり返しても、変わらなかったのだと思う。

 それは存在と認識の弁証法なわけだ。

 「止揚」を、ヘーゲルもマルクス主義の研究者も口にするけれども、それは「論理的なものの三側面」の規定によって歪曲されているのさ。この「止揚」を合理的に取り出さなければならないのだと思う。「論理的なものの三側面」の規定を解体すること。また「一方の極」ではなく「両方の極」の間に弁証法の起点を置くこと。さらに、矛盾ではなく対話を進展の原理に据えること。これらによって、「止揚」は止揚されると思う。

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6 高校講座「弁証法」―― 「向日葵(ひまわり)の弁証法」から「光(ひかり)の弁証法」へ

 高校生向けに書かれている弁証法の考え方を2つ取り上げてみるよ。一つは教科書、もう一つは参考書だ。

 教科書
 弁証法にしたがって、すべてのものは本来あるべきものへと発展する。その過程で、すべてのものは自己のなかに自己と対立・矛盾するものをふくみ、それを統合すること(止揚、アウフヘーベン Aufheben)でより高次のものとなる。これが「正(テーゼ These)‐反(アンチテーゼ Antithese)‐合(ジンテーゼ Synthese))の原理である。つぼみは花となり、花は実となる。つぼみは花により否定され、花は花自身を否定して実となる。このように、現実のすべては自己を否定し、その否定をさらに否定することによって発展する。(清水書院「新倫理 人間とは何か―思索の糧に―」)

 参考書

弁証法  正→反→合(止揚=アウフヘーベン)により、高次元の真理に到達する思考方法。一つの見解→反対の見解を吟味→批判・統合して高い次元の真理を導く、という発展の論理といえる。(学研「決める!センター倫理」清水雅博著) 

 どう思うかね。

 教科書の方からは、ヘーゲルが提起した存在と認識を貫徹する弁証法を感じるね。参考書の方からは認識に限定した弁証法かな。教科書の弁証法はヘーゲルに近く、神秘的。つぼみや花や実の否定性に、高校生は悩むのじゃないかなあ。参考書の方は、ヘーゲルとはずいぶんと離れた印象がして、わかりやすい。弁証法は思考方法と定義してあり、高校生には納得しやすいと思うね。

 両方に共通しているのは、「正反合」と「止揚=アウフヘーベン」だね。これは高校生に要求される弁証法の基礎知識で、暗記しなければならないものと思えるね。

 「正反合」と「止揚=アウフヘーベン」の2つをもとにして、きみの試みを説明してくれよ。「正反合」と「止揚=アウフヘーベン」の2つは、通説では整合している。しかし、きみは、この2つは整合していないと見ている。「正反合」に否定的で、「止揚」には肯定的だよね。

 たしかに。「正反合」はヘーゲルみずからの定式ではないが、「論理的なものの三側面」(ヘーゲル『小論理学』79節〜82節)の規定と対応できるものをもっている。ヘーゲルの「論理的なものの構造」の特徴は、三側面論(1抽象的側面あるいは悟性的側面・2弁証法的側面あるいは否定的理性の側面・3思弁的側面あるいは肯定的理性の側面)がそのまま三段階論になっていることだ。この進展の形式は「対立する一項の内在的否定による進展」(松村一人)で、おれは、そこにヘーゲル弁証法の神秘的側面を見ている。いいかえれば「正反合」には否定的なわけだ。しかし、「止揚」はヘーゲル弁証法の合理的核心であると考えて、引き継ごうとしている。

 「正反合」と「論理的なものの三側面」を関連させるとき、存在と認識の弁証法は一体となっている。城塚登氏は存在の弁証法から認識の弁証法を切り離すと、「否定性」の根拠が明確にならないといっていた。しかしこれは存在の方の「否定性」だよ。反対に、存在と認識を一体化したままでは、認識の方の「否定性」の説明がつかないのだ。認識は、ひとりでに発展しないからだ。存在と認識の弁証法が一体のままでは「正反合」の図式は神秘的な側面をもたざるをえないのだ。

 認識の領域における「否定性」の根拠を人間の頭の中に想定すると同時に、「論理的なものの三側面」の規定をを解体する。これによって、存在の弁証法と切り離された認識の弁証法は成立するよ。この観点から見れば、思考方法として弁証法を捉えるといいながら、いままで通り、「正反合」で説明していては、事情ははっきりしないのだ。その意味では、参考書の説明はあいまいなのだ。

 きみは、以前、「正反合」は過度的な図式で、ヘーゲル弁証法の要約というより非ヘーゲル的弁証法への第一歩だといっていたね。

 ああ、「正反合」は人類に知恵だともいっていたよ。

 教科書の「正反合」はヘーゲル弁証法の要約、参考書の「正反合」は非ヘーゲル的弁証法への第一歩と見ればよいのだね。

 思考方法として、また認識だけに限定して弁証法を見ることによって、ヘーゲルと離れている点において、非ヘーゲル的弁証法への第一歩だ。しかし、にもかかわらず、いまだに「正反合」を引きずっているという意味では、ヘーゲルの束縛が解けていないのだ。おれは以前、「ひまわりの弁証法」に「ひかりの弁証法」を対置した。教科書の方は「ひまわりの弁証法」、参考書の方は「ひかりの弁証法」に近いといえると思う。

 「ひまわりの弁証法」はヘーゲル弁証法の特徴を表現しているが、対話(Dialog)との関係が欠如しており、弁証法(Dialektik)とは違っている。これがきみの立場だった。そして、きみの考える弁証法(複合論)を「ひかりの弁証法」と形容した。

 「ひまわりの弁証法」は、ヘーゲル弁証法を印象的に特徴づけるために、長谷川宏氏が、有機体の例として「ひまわり」を取り上げ、その生命過程に着目して命名したものだ(『新しいヘーゲル』講談社現代新書 1997年)。「ひかりの弁証法」は、マクスウェルの思考過程に着目したものだよ。19世紀の半ばに、マクスウェルは、アンペール(エールステッド)の法則とファラデーの法則をもとにして、電場と磁場が光の速さで進んでいくことを示した。このマクスウェルの思考過程には、2つの法則が「止揚」されていく過程があり、「弁証法」の絶好の例なのだ。これまでだれもここに弁証法を見た人はいないけれど。

 向日葵(ひまわり)ではなく、光(ひかり)に弁証法を感じてもらう。ここにきみの挑戦があるというわけだ。

 まず、「ひまわりの弁証法」について説明してみよう。

 ここにひまわりの種がある。それを地面にまくと、芽が出てくる。やがて茎が伸び、茎は葉をつけ、夏になると大きな花が咲く。花びらが散ったあと、花の中央にたくさんの大きな種がみのり、年を越して春になると、この種がまた芽を出す。それがひまわりという有機体の生命過程である。  これを弁証法的に表現するとこうなる。種が否定されて芽となり、芽が否定されて茎や葉となり、茎や葉が否定されて花となり、花が否定されて種となり、こうして有機体はおのれにもどってきて生命としてのまとまりを得ることができるのだ、と。

 かれが弁証法の要点として強調していたのは、「否定の働き」と「まとまり」だったね。

 普通には、種が芽を出す、というところを、ヘーゲルはあえて「種が否定されて芽となる」とか「種の否定が芽である」とか、もってまわったいいかたをする。否定の働きをぜひとも強調したいのだ。AがおのずとBになるのではなく、Aが否定されてBが出てくる。そのようにAとBとのあいだに対立があり、その対立が変化や運動の原動力となると考えるのが弁証法の基本なのである。  もう一つ、種から出発した生命過程が何回かの否定を経て、ふたたび種にもどる――そういう形でまとまりの生じることが、右に劣らず重要な弁証法の原則である。否定に否定を重ねて、ゆくえの定まらぬ運動が続く、というのでは弁証法とはいえない。

 きみは否定の働きを否定原理、まとまりの生じることを統合原理とよんで、ひまわりの弁証法、すなわちヘーゲル弁証法は、否定原理と統合原理で構成されていると考えた。そして否定原理に疑問を投げかけた。

 だって、そうだろう。長谷川氏は、「Aが否定されてBが出てくる」とき、AとBとのあいだに対立があるといっている。種と芽、これがAとBに対応している。このA(種)とB(芽)とのあいだの対立は、時間の経過にしたがって想定されている。この「否定」によって出現する「対立」を、長谷川氏は、変化や運動の原動力として、弁証法の基本と考えている。しかし、この「対立」は、すでに変化や運動を経験していて、原動力としては機能していないではないか。「対立」はそのまま変化や運動と対応していて、「対立」は変化や運動の原因となっていないのだよ。

 そこで、きみは「ひまわりの弁証法」の「対立」を、過程における「対立」と考えた。そしてこの過程における対立は、「論理的なものの三側面」の規定から必然的にもたらされるものと想定した。すなわち、「ひまわりの弁証法」の「否定原理」は「弁証法的側面あるいは否定的理性の側面」(有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行)の正確な反映である。また「統合原理」は、「思弁的側面あるいは肯定的理性の側面」(対立した二つの規定の統一 、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する)と対応している、と考えた。

 「ひかりの弁証法」の対立は、「否定」による「対立」ではなく、対話の「対立」だよ。それは「場」における「対立」で、同時的なものだ。場における同時的な対立が、変化や運動の原動力になる。そして、場における対立は、否定だけでなく、肯定と否定によって構成されている。対立する2つの論理的なもの(「見解」)は、相互に肯定されると同時に否定される。2つの論理的なもの(「見解」)の相互肯定と相互否定、これが、変化や運動の原動力となり、高次元の見解(真理)に到達すると考えるのだよ。

 ヘーゲル弁証法においては、否定原理と統合原理によって「止揚」が導かれている。これに対して、きみは、対話原理と統合原理で「止揚」を導くわけだ。

 「否定原理」を「対話原理」に変換することによって、神秘的な外皮に包まれているヘーゲルの統合原理(「止揚」)の合理的な核心を明確にできると思う。

 教科書と参考書には、図解がしてあるね。

 教科書

      tasy.gif

 参考書

      aufheben.gif

 教科書の図はヘーゲルべったりだが、参考書の方は、非ヘーゲル弁証法へ一歩進んでいると思うよ。教科書の方は、「正」と「反」の矢印は一方向だが、参考書の方の「正」と「反」の矢印は、相互の方向を示している。しかし、正反合の図式ではここが限界なのだ。

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7 弁証法をつくる――PLDの複合

目次

まえがき
1 ボイル−シャルルの法則(気体の法則)――PVTの複合
2 新しい弁証法の理論――PLDの複合
 1 問題解決の過程Pと対話D
 2 論理的なものD
 3 PLDの複合
     1 論理的なものの構造
     2 対話をモデルとした思考方法 ――弁証法の共時的構造
     3 認識における対立物の統一――弁証法の通時的構造

まえがき

 許萬元の『弁証法の理論』を読みこんでいくうちに、ヘーゲル弁証法とは違った弁証法の理論をつくれるのではないかと思うようになった。

 許萬元が主張していたのは、ヘーゲル弁証法は「論理的なものの三側面」の規定(『小論理学』)に集約できること、また、この規定はヘーゲルの矛盾論と対応していることであった。

 許萬元の指摘を逆にたどり、次のように言いかえてみよう。ヘーゲルは弁証法を存在と認識をつらぬいているものとして捉え、弁証法の核心を「矛盾」と洞察し、「論理的なものの三側面」を定式化した、と。

 これがヘーゲルの弁証法の作り方だったのではないだろうか。これに対して、私の場合は、弁証法を認識のなかだけに成立するものとして捉え、弁証法の核心を「対話」と洞察し、ヘーゲルとは違った「論理的なもの」の構造と「媒介」の過程を構想したのである。

 わたしが新たな「論理的なもの」の構造の基礎になると考えたのは、言語の「自己表出と指示表出」である。これは吉本隆明が『言語にとって美とはなにか』で提出していた考え方である。

 また、新たな『媒介』の過程の基礎になると想定したのは、バイソシエーション(二元結合)である。これはケストラーが『創造活動の理論』や『ホロン革命』で述べた考え方である。

 わたしは『もうひとつのパスカルの原理』のなかで、創造活動の理論として複素過程論を提出した。これは自己表出と指示表出を認識領域に拡張し、また、バイソシエーションが複素数のかけ算で表せることを示したものである。

 弁証法をつくろうとしたとき、わたしの手元にあったのは、この複素過程論だった。

 ヘーゲルの弁証法を特徴づければ「矛盾と止揚」である。これに対して、わたしは「対話と止揚」の弁証法をつくろうと思った。「矛盾」を排除し、「対話」を導入する。これが方針だった。

 「矛盾」の排除とは、弁証法を矛盾律を基礎に構築すること、また「論理的なものの三側面」を解体することである。

 「止揚」は、わたし(だけ)がヘーゲル弁証法の合理的核心と考えているもので、「論理的なものの三側面」を解体したあとにも残る「論理的なものの三側面」の精神である。

 さまざまな理論を検討していくうちに、次の3つの理論が目に止まった。

   1 ポパー「弁証法とは何か」(『推測と反駁』所収)

   2 中埜肇『弁証法』

   3 上山春平『弁証法の系譜』

 わたしがめざしたのは、弁証法を矛盾律を基礎に構築することだったから、ポパーの「問題解決図式」に弁証法の基礎を置くことにした。これはポパーと同じように反ヘーゲルの立場を表明したものである。

 ポパーが弁証法(ヘーゲルやマルクス主義の)に対置したのは試行錯誤の理論だった。その核心は次の問題解決図式によって表されている。

                              P1―TT―EE―P2       

 ここでP1(problem1)は問題状況を表している。そして、TT(tentative theory)は提案される問題解決案や理論を表す。EE(error elimination)は、案や理論に対するエラー排除の過程である。P2(problem2)は新しい問題状況である。

 わたしは弁証法を、P1(problem1)とTT(tentative theory)の間に位置するものと考えたのである。

 中埜肇は弁証法を「対話をモデルとした思考方法」(「対話的思考」)と捉えていた。

 一方、上山春平は問題解決の過程の分析を弁証法固有の研究対象であると考えていた。そして、弁証法を「認識における対立物の統一」と捉えていた。

 この2つの理論は、マルクス主義の弁証法(唯物弁証法)とは違ったところに弁証法の可能性を探究しているように思えた。しかも、2つの理論とも、ポパーの反弁証法論を踏まえて構想されているように思えた。

 しかし、中埜肇も上山春平も「論理的なものの三側面」の規定を踏襲していた。いいかえれば、中埜も上山も「対話」や「問題解決の過程」を分析するさい、「論理的なものの三側面」の規定と対応させることになんの疑問も持っていないのであった。むしろ、「論理的なものの三側面」と対応させることに分析の成果を見ているのであった。ようするに、二人とも、ヘーゲル弁証法(「論理的なものの三側面」)に束縛されていたのである。

 わたしは、この部分を切り捨てれば、新しい弁証法の理論がつくれるのではないかと考えた。

 次に進む前に、「論理的なものの三側面」の規定を確認しておこう。

 「論理的なものの三側面」は、『小論理学』の79節から82節にかけて展開されているもので、ヘーゲルによれば、論理的なものは次の三つの側面をもっている。

   (1)抽象的側面あるいは悟性的側面
   (2)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面
   (3)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面

 (1)は、対象を規定し他の規定と区別する。(2)は、一つの規定が自己を否定して他の規定に移行する。(3)は、対立した二つの規定の解消と移行の中から肯定的なものを把握する。いわゆる正反合の図式の根拠となっているものである。

 この三つの側面はそれぞれ他の側面と切り離せないことをヘーゲルは強調している。他の側面から切り離し単独で考える場合、誤った思考におちいると注意している。例えば、悟性的側面だけでは独断論や二元論になるという。また、弁証法的側面は懐疑論や詭弁になり、そしてまた、思弁的側面は神秘主義や折衷主義になるといっている。

 ヘーゲルは次のように説明している。

(1)抽象的側面あるいは悟性的側面

 ―悟性としての思惟は固定した規定性とこの規定性の他の規定性に対する区別とに立ちどまっており、このような制限された抽象的なものがそれだけで成立すると考えている。

(2)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面

 ―弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である。

(3)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面

 ―思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは対立した二つの規定の統一 、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する。

 ヘーゲルの論理的なものの構造の特徴は、三側面論がそのまま三段階論になっていることだと思う。逆にいえば、進展の形式がそのまま論理的なものの構造となっているのである。この進展の形式は、「対立する一項の内在的否定による進展」(松村一人)という表現がうまく言いあてていると思う。

 これを止揚したいのである。

1 ボイル−シャルルの法則(気体の法則)――PVTの複合

 ゼノン以来、弁証法の考え方はいろいろある。例えば、次のようなものがある。(中埜肇『弁証法』参照)

 わたしの主張する弁証法は、これまでのどれとも違う考え方である。弁証法とは、対話をモデルとした思考方法で、認識における対立物を統一する技術である。これがわたしが考える弁証法である。前半は中埜の、後半は上山の弁証法を継承したものである。

 中埜と上山の2つの弁証法を統一する過程は、弁証法試論(試論2003)の第6章複合論で展開されている。

 わたしは、「弁証法2004」のなかで、自分の試みを、「ボイル−シャルルの法則」という表現と対比させて、「中埜−上山の弁証法」であると形容した。この関係に立ち戻り、わたしの試みの概要を説明したいと思う。

 ボイル−シャルルの法則は、高校で学習する気体の法則である。ボイルの法則は、温度一定のとき、気体の体積は圧力に反比例することを指摘するものである。またシャルルの法則は、圧力一定のとき、気体の体積は絶対温度に比例することを述べたものである。この2つを統一したものが、ボイル−シャルルの法則で、「物質量が一定の体積Vは、圧力Pに反比例し、絶対温度Tに比例する」と表現されている。

 2つの法則が統一される過程を次のように考えてみよう。

 状態(圧力P、体積V、温度T)を考える。

 ボイルの法則・状態1(P1 、V1 、T1  ) T1 一定のとき、P1  1  一定。
 シャルルの法則・状態2(P2 、V2 、T2 ) P2 一定のとき、V2  / T2  一定。

 この関係を統一するとき、ボイルの法則・状態1(P1 、V1 、T1  )とシャルルの法則・状態2(P2  、V2  、T2  )の間に、(P2  、V' 、T1 )という中間状態を想定する。すなわち、温度は状態1と同じT1  、圧力は状態2と同じP2  、体積は状態1とも状態2とも異なったV'という状態を想定するのである。

 状態1と中間状態の間で、温度は一定だから、

     P1 1 = P2  V'   が成立する。          (1)

 他方、状態2と中間状態の間では、圧力が一定だから、
     V2  / T2=V' / T1 が成立する。        (2)

 (1) (2) より、V'を消去して、

      P1 1 / T1=P2  2 /  T2

 ボイル−シャルルの法則は、このように導かれる。

 前提になるのは、ボイルの法則・状態1(P1 、V1 、T1 )とシャルルの法則・状態2(P2 、V2 、T2  )である。この2つをにらみ合わせて、中間状態(P2 、V'、T1 )を仮定して、ボイルの法則・状態1とシャルルの法則・状態2を統一する。別々の2つの法則が関係を結ぶような中間状態を想定することが要点である。

 ボイル−シャルルの法則を、圧力P、体積V、温度Tの複合ということにしよう。

2 新しい弁証法の理論――PLDの複合

 1 問題解決の過程Pと対話D

 ボイルの法則とシャルルの法則がボイル−シャルルの法則に統一されるように、中埜肇の弁証法と上山春平の弁証法から新しい弁証法の理論が導かれる。

 ボイルに中埜肇の弁証法が、シャルルに上山の弁証法が対応する。また、ボイル−シャルルにわたしの弁証法が対応する。

 ボイル−シャルルの法則の場合、ボイルの法則もシャルルの法則も全部取り入れられて、統一されている。しかし、弁証法の場合は、一部は切り捨てられ、ある一部だけが取り入れられる。これは大きな違いである。しかし、二つの理論が関係を結ぶような中間状態が想定され、統一されることは共通している。
 
 状態(圧力P、体積V、温度T)に対応させて、弁証法の理論(問題解決の過程P、論理的なものL、対話D)を想定する。

 中埜肇の弁証法(『弁証法』)を(P1 、L1 、D1 )とする。

 他方、上山春平の弁証法(『弁証法の系譜』)を (P2 、L2 、D2 )とする。

 中埜は「対話」の分析を主として、問題解決は直接とりあげられていないが、それでも、中埜の弁証法に問題解決を補完する。同じように、上山は問題解決の過程を主題としていて、対話を直接とりあげていないが、上山の弁証法に対話を補完する。

 もちろん、気体の法則の場合と違って、比例とか反比例とかの関係は、弁証法の場合、存在しないから、(問題解決の過程P、論理的なものL、対話D)の設定はあくまでも説明のため比喩である。

 中埜肇の弁証法(P1 、L1 、D1 )と上山春平の弁証法(P2 、L2 、D2 )の関係を見るのではなく、新しい(P、L、D)をつくることがわたしの課題だったのである。

 まえがきで、2人ともヘーゲルの「論理的なもの」にの規定に束縛されていると述べた。具体的に指摘しておこう。

 中埜の場合、これは、対話の特徴としてあげられた「二個の主体」・「共通の話題」が、対話の前提条件として捉えられ、対話の構造からはずされているところ、そしてTa・Tb・Tm が安易に三側面(「正」・「反」・「合」)の規定と対応させられているところに現れている。

 一方、上山の場合は、問題解決の3つの段階が、「論理的なものの三側面」と安易な対応となっていて、悟性的モメントが実質的に空白になっているところに現れている。上山が示した対応は次のようなものだ。

 問題のない段階  悟性的モメント(正) 
 問題をもつ段階   否定的理性的モメント(正と反)
 問題の解決した段階  肯定的理性的モメント(合) 

 問題をもつ段階から始めればよいのである。

 また、「正」と「合」は、同じ論理形式を持つと指摘しながらも、「正」は悟性的モメント、「合」は肯定的理性的モメントと対応させていて、不整合を指摘することができる。

 さて、中埜肇の弁証法(P1 、L1 、D1 )と上山春平の弁証法(P2 、L2 、D2 )の内容は、弁証法試論第5章対立物の統一と対話 を見ていただきたい。

 ヘーゲルの「論理的なものの三側面」の束縛から解放された「対話」と「問題解決」は、それぞれ次のようなものである。これ(「理想型の対話」と「対立物の統一における認識の進行形式」)は2人の弁証法から、不要なものを切り捨て、必要な一部を取り上げたものである。

 ア) 理想型の対話

  (1)(「二個の主体」「共通な話題」) 対話はTという共通の話題について、AとBとの二人が行う二つの発言TaとTbとの間に初めて成り立つ。

  (2)(「媒介性と相補性」)TaとTbとは相互に否定し合いながら相互に肯定し合うというかたちで、対立の中で共存している。 

  (3)(「一致和解」) TaはTbによって否定されながらもTbと内容的に結びつき、TbもTaによって、内容的な働きかけを受け、両者は相互媒介によって総合されてTmとなる。

 イ ) 「対立物の統一」における認識の進行形式

  (1) 問題解決の過程は、次の図式で表現できる。
 
       悟性―理性……理性―悟性 

  (2) 否定的理性的モメントと肯定的理性的モメントは、二つの段階として区別できるものではなく、否定的・肯定的理性的モメントは一体となり一つの理性的段階を構成している。 

  (3) 「正」と「反」の対立が、問題解決の過程の第一段階(悟性的モメント)である。 

  (4) 問題解決のすべての過程において、混成した理性の否定作用と理性の肯定作用が一体となって進行していく。

 これが整合的に展開できるように、「論理的なもの」の構造と媒介の新たな可能性を探究した。

 2 論理的なものD

 「論理的なもの」の2側面として「自己表出と指示表出」を想定した。言語の構造と認識の構造を拡張して、「論理的なもの」の構造として想定したのである。

 これはヘーゲルが想定していない構造である。論理的なもの(認識)に、言語と同じ構造を想定することは、弁証法の語源ディア・ロゴスの「ロゴス」が、話・言語・論議・理論・理法という意味を持っていることから、妥当ではないかと思う。

 「論理的なもの」の「自己表出と指示表出」は、「商品」の「価値と使用価値」に対応している。自己表出は価値と、一方、指示表出は使用価値と対応している。わたしは、「対話のモデル」を「価値形態論」を基礎にしてつくろうと考えた。

 一つの商品(リンネル)の価値が、もうひとつの商品(上着)の使用価値で表現されるという関係に着目した。この関係は、ヘーゲルの弁証法的・否定的理性的側面(「反対の諸規定への移行」)のマルクスなりの捉え方だったと思う。わたしは、この関係を「対話」へと展開していくために、次のような工夫をした。

 1 リンネルが相対的価値形態にある場合と上着が相対的価値形態にある場合を、同時に表示できる図を示したこと。(矢印の起点が相対的価値形態、終点が等価形態)

     「リンネルの使用価値」  + 「リンネルの価値」
               ↑         ↓
          「上着の価値」 + 「上着の使用価値」

 2 リンネルの固有の価値と使用価値に対して、新しい第3の要素(上着の使用価値)がリンネルに出現するが、このとき、上着の方にも、上着固有の価値と使用価値に対して、第3の要素(リンネルの価値)が出現すると想定したこと。

 3 2つの商品の価値関係から出現する第3の要素に、相対的価値形態に位置する商品の「否定」と「肯定」を見ようとしたこと。

 こうして、「二個の主体」が相互に否定すると同時に、相互に肯定するというかたちで共存している対立関係のモデルをつくった。

     「リンネルの使用価値」  + 「リンネルの価値」
               ↑         ↓
          「上着の価値」 + 「上着の使用価値」

を、記号を使って、
               bi  +  a
                ↑     ↓
               c  +   di

で表わせば、「二個の主体」が相互に否定すると同時に、相互に肯定するというかたちで共存している対立関係のモデルは、次のようなものになる。

                        c ← bi  +  a → di
                             ↑   ↓    
                        bi ← c  + di → a

 中央のリンネル ( bi  + a ) 固有の価値と使用価値と上着( c  + di) 固有の価値と使用価値を起点にして、第3の要素が出現する。対立しあうことによって出現した第3の要素はリンネルと上着の価値と使用価値を4隅に複製する。次のようである。

   「リンネルの価値」から「上着の使用価値」が出現する(右上)。
   「上着の使用価値」から 「リンネルの価値」が出現する(右下)。
   「リンネルの使用価値」から「上着の価値」が出現する(左上)。
   「上着の価値」から「リンネルの使用価値」が出現する(左下)。

 これが価値形態論を参考にして作った「対話のモデル」である。これを「二個の主体」の「媒介性と相補性」の関係を把握する基礎にした。

 次に、リンネルと上着を二つの「論理的なもの」に置き換えた。また、価値と使用価値を自己表出と指示表出に置き換える。この置き換えによって、対話のモデルをつくったのである。
 
 対立関係から出現した第三の要素どうしの結合を想定することが要点である。次の図である。

c bi + a di
+       +
bi c + di a

 第三の要素どうしの結合(右端a+diと左端c+bi)が「一致和解」の基礎になると想定したのである。

3 PLDの複合

1  論理的なものの構造

 「論理的なもの」は自己表出と指示表出の二つの側面をもつ一つの複合体である。「論理的なもの」の構造として、複素数をモデルとする。複素数の実部と虚部に、自己表出と指示表出を対応させる。

 すなわち、

    A=a+bi 

 に、

  (論理的なもの)=(自己表出)+(指示表出)i

 を対応させる。

 「論理的なもの」のモデルとして、複素数を想定するのは次の理由からである。

 複素数は、数学において、自然数から始まる数の系列の究極的な形であり、外部がないこと。また「直観的な描像化ができない象徴的な形式」(ボーア)として量子力学や相対性理論の定式化の基礎にあって、単純な理論形式を提供していることである。そして、なによりも、1つの数で2つの側面を表示できることである。

2 対話をモデルとした思考方法 ―― 弁証法の共時的構造

 中埜肇が対話の特徴とした「二個の主体」「共通な話題」「媒介性と相補性」(「一致和解」)が、次の図式の中に表現されている。

c bi + a di
+       +
bi c + di a

 中央にある bi + a と c + di は、選択された二つの「論理的なもの」である。垂直方向の矢印は推論を示している。混成された否定的理性と肯定的理性である。

 出現した第三の要素は結合する。右側の a + di と左側の c + bi である。これらは異なる二つの「論理的なもの」の、一方の自己表出と他方の指示表出で構成されている。混成モメントと名付けている。

 認識の進展を考えれば、中央にある bi + a と c + di は、ここで「止」まる。両側の a + di と c + bi は、次の段階へ「揚」がる。 「止揚」の現場である。

 中央にある2つの「論理的なもの」 bi + a と c + di の例として、中埜肇の弁証法(P1 、L1 、D1 )と上山春平の弁証法(P2 、L2 、D2 )を挙げるなら、両側の a + di と c + bi は、「理想型の対話」の3箇条、「対立物の統一における認識の進行形式」 の4箇条である。

3 認識における対立物の統一 ―― 弁証法の通時的構造

 複素数のかけ算をモデルにして、弁証法の通時的な構造(三段階)を、表現できる。正反合に対置する図式である。正に対置するのは選択、反に対置するのは混成、合に対置するのは統一である。

 1(選択) 多数の「論理的なもの」の中から、二つの「論理的なもの」を選択する。対象を規定し、他の規定と区別する。

 2(混成) 二つの「論理的なもの」を対立させ、混成する。区別された規定を混成する。
 

 3(統一) 混成された二つの規定を対立物とみて、統一する。新しい規定として、他の規定と区別する。

 これを複素数で表現すれば、次のようになる。

1(選択) A =a+bi
A' =c+di
2(混成) A×A' =(a+bi)×(c+di)
≒(a+di)×(c+bi)
3(統一) =(ac−bd)+(ab+cd)i
=x+yi
=B

 1(選択)― 2(混成)……2(混成)― 3(統一)

が、

   悟性―理性……理性―悟性

に対応する。

 2(混成)の(a+bi)×(c+di)は、共時的な構造の中央にある bi + a と c + di に対応している。また、2(混成)の(a+di)×(c+bi)は、共時的な構造の両側の a + di と c + bi (混成モメント)に対応している。

 この混成の段階は、ボイル−シャルルの統一過程でいえば、中間状態に対応する。

 「論理的なもの」の構造として「自己表出と指示表出」を想定して、中埜の理想型の対話と上山の対立物における認識の進行形式を取り入れ、それを弁証法の共時的構造として、また弁証法の通時的構造とした。

 このように問題解決Pと論理的なものLと対話Dを複合することによって、ヘーゲル弁証法とは違った弁証法をつくったのである。
 
 ヘーゲル弁証法と複合論の特徴を表にまとめて、終わりにする。

     ヘーゲル弁証法 複合論
進展の動因   対立する一項の内在的否定   対立する二項の対話 
論理の特徴 矛盾と止揚 対話と止揚
通時的構造 1 悟性的(抽象的)側面 1 選択
2 否定的理性(弁証法的)側面 2 混成
3 肯定的理性(思弁的)側面 3 統一
共時的構造  -  自己表出と指示表出

 参考文献

  ヘーゲル/松村一人訳『小論理学』岩波文庫 1978
  マルクス/向坂逸郎訳『資本論(1)』岩波文庫 1969
  許萬元『弁証法の理論』創風社 1988
  上山春平『弁証法の系譜』未来社 1963
  中埜肇『弁証法』中公新書 1973
  ポパー/藤本ら訳『推測と反駁』法政大学出版局 1980
  ケストラー/田中・吉岡訳『ホロン革命』工作舎1983
  ケストラー/大久保・松本・中山訳『創造活動の理論』ラティス社 1968
  吉本隆明『言語にとって美とはなにか』(著作集6)勁草書房 1972
  嶋喜一郎『もうひとつのパスカルの原理』文芸社 2000
  照井俊『理論化学の最重点照井式解法カード』学研 1995

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8 表出論の系譜

 許萬元の『弁証法の理論』を読んでいて、ヘーゲルとは違った「媒介の論理」の可能性があるのではないかと思ったのは、1995年だった。そのときをふりかえって、わたしは「弁証法試論(試論2003)」のなかで、次のように述べている。

わたしは吉本隆明の表現論を認識論に応用して、認識の形成過程のモデルを作っていました。二つの異なる認識の自己表出と指示表出が組み合わされて、新しい自己表出と指示表出が形成され、新しい一つの認識が生まれるというモデルです。 
 
 そして、わたしは認識の形成過程をさらに分析していくために、価値形態論にヒントを求めているところでした。すなわち、二つの商品(リンネルと上着)が対立するとき、それぞれの商品の価値と使用価値にどのような関係が新しく生まれてくるかという点に着目していました。二つの商品の価値と使用価値の関係が、二つの認識の自己表出と指示表出の関係に転移できないかどうかを模索していたのです。

 しかし、実をいえば、許萬元の「弁証法の理論」を読みはじめた頃は、自己表出・指示表出ということばで考えてはいなかった。これは、あくまでも2003年の時点で整理し述べたものである。価値形態論を参考にして形成過程のモデルの試作をしていたのは事実である。しかし、その過程を、「自己表出」と「指示表出」ということばでは考えてはいなかったのである。1990年代のほとんどすべてにおいて、わたしは、次の2つの間に分裂した状態のままで、考えていたのである。そこには、自己表出や指示表出はなかったのである。

  A 抽出過程(自己抽出と指示抽出)と構成過程(自己構成と指示構成)
  B 形式性(自己抽出と自己構成)と指示性(指示抽出と指示構成)

 この2つに分裂した状態は黒田寛一の認識論を継承することによって引き起こされていたものである。わたしの考えによれば、黒田認識論には3つの契機があった。

  1 分析的下向と上向的綜合
  2 科学=哲学
  3 対象認識と価値判断

 「対象認識と価値判断」という認識に構造が想定されていない欠陥を乗り越えるものとして、わたしは吉本隆明の表出論(「自己表出と指示表出」)を参考にしていた。そして表出論に1と2を取り込もうとしたのである。

 Aが、下向と上向の関係を把握しなおしたものである。下向が抽出過程にあたる。上向が構成過程である。

 Bは、科学=哲学という構造を把握しなおしたものである。

 Aについては、「表出の分節化」で概略はわかると思う。ここではBについて、述べておきたいと思う。

 黒田のいう「科学=哲学」というのは、『資本論』の学的構造の分析に基づいているが、わたしは「科学=哲学」という構造を解く鍵は次の戸坂潤の『科学論』にあると思っていた。

 哲学とは範疇体系(=方法・論理)の他の何物でもない。F・エンゲルスが「フォイエルバッハ論」において将来の哲学は形式論理と弁証法との他にないと云ったのはこの意味だろう。所謂科学は特定の認識内容である。これに対して所謂哲学は夫れの特定形式と、その一般形式への拡大とを意味する。方法や論理は、このような認識の形式を指すのでなければならぬ。ただこの形式は、内容自身からの所産であり、内容が分泌した膠質物であって、内容以外から来たものでもなく、ましてアプリオリに天下ってきたものでもない。だから今の場合形式に相当するこの方法や論理、すなわち哲学は、内容に相当する処のこの科学そのものからの抽出物として以外に、またそれ以上に、その独自性を持つことはできない約束なのである。

 要するに、認識の内容が科学、認識の形式が哲学である。わたしはその答を、吉本の表出論に見出したのである。

 吉本は『言語にとって美とはなにか』のなかで、次のように述べていた。

文学の内容と形式は、それ自体としてきわめて単純に規定される。文学(作品)を言語の自己表出の展開(ひろがり)としてみたときそれを形式といい、言語の自己表出の指示的展開としてみるときそれを内容というのである。もとより、内容と形式とが別ものでありうるはずがない。あえて文学の内容と形式という区別をもちいるのは、スコラ的な習慣にしたがっているだけである。しかし企図がないわけではない。文学の形式という概念の本質をしることは、じつに文学表現を文学発生の起源からの連続した転換としてみようとする特別な関心につながる。また、文学の内容という概念には、文学を時代的な激変のなかに、いいかえれば時代の社会相とのかかわりあいのうえにみようとする特別な関心につながっている。

 この形式内容論は簡潔で優れていると思った。あえていえば、この形式内容論こそが認識論に表出論を導入させたのである。自己表出と対応するのが形式である。指示表出と対応するのが内容である。わたしは、自己抽出と自己構成を形式性と考え、指示抽出と指示構成を指示性と考えればよいと思った。

 「形式性と指示性」は、認識の「形式と内容」に対応する。そして、認識の媒介機能は、この「形式性と指示性」によって担われていると考えた。ケストラーのバイソシエーションを把握する鍵は「形式性と指示性」にあると考えた。「形式性と指示性」ということばは、的確なものとは思えなかったが、他のことばは思いつかなかった。不満だが、これで行くより仕方なかった。

 価値形態論を参考にして、商品の価値と使用価値に対応させていたのは、認識の「形式性と指示性」であった。起点となったのは、リンネルと上着のあいだの価値関係あるいは交換関係が、2つの認識の形式関係あるいは変換関係に対応するのではないかということであった。

 わたしは1990年代において、認識を抽出過程と構成過程の複合体として、また、形式性と指示性の複合体として捉えていた。複素数のモデルでいえば、次のような式で認識を捉えていたのである。

    認識=構成過程+抽出過程×i

    認識=形式性+指示性×i

 しかし、細部に立入ってみると、次のような式になり、自分でも把握しにくいものだったのである。

    認識=構成過程(自己構成と指示構成)+抽出過程(自己抽出と指示抽出)×i

    認識=形式性(自己抽出と自己構成)+指示性(指示抽出と指示構成)×i

 もちろん自分で引き起こしたものである。停滞していたのである。しかし、2000年近くになって、あるとき、いったん二重化した抽出過程と構成過程を表出過程に統一して、形式性を自己表出に、指示性を指示表出にすれば、2つに分裂した認識をひとつに統一できることに気づいた。止揚できるかもしれない。

    認識=自己表出+指示表出×i

 2000年に、『もう一つのパスカルの原理』を書きなおしたとき、表出論はやっと見通しのよいものになったのである。

 整理しておこう。最初に、吉本の表出論(言語の自己表出と指示表出)があった。次に、黒田の認識論によって、表出論は、「抽出過程と構成過程」・「形式性と指示性」に分裂した。そして、再び表出論が出現することによって、そのなかに「抽出過程と構成過程」・「形式性と指示性」が止揚されたのである。

 わたしはすこし前に、次のように述べた。

 「表出の場――指示と関係」(自己表出は関係の表出、指示表出は指示の表出)という関係に思い至ってみると、「論理的なもの」の構造として想定している「自己表出と指示表出」も、検討した方がよいように思われてきた。表出という主として「動作」を表わすことばで「構造」を表現している点が気になってきたのである。(「論理的なもの」の動的・静的側面――「自己表出と指示表出」・「関係性と指示性」)

 表出論の基礎がゆらいでいるような気がしていた。しかし、「動作」を表わすことばで「構造」をも表現している点は、欠点ではなく、むしろ利点であるといまは思う。

 「論理的なもの」に「自己表出と指示表出」の構造を想定することは、もっと積極的に主張してよいと思う。そしてまた、自己表出と価値(交換価値)、指示表出と使用価値を対応させることも、もっと積極的に主張してよいと思う。

   〈わたしの表出論はどこから来たのだろう。そして、どこへ行くのだろう。〉

 わたしの表出論は、吉本表出論と黒田認識論の「間」から出現した。そして、弁証法の核心へと向かうのである。

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