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  御本尊 
如意輪観世音菩薩

  御詠歌 
三枝草の 露ときえゆく はかなさを すくは勢たまふ はなのうてなに

縁起

当寺は文徳天皇の天安2年(858)玄常上人の開基で、その頃は今の明王寺谷寺屋敷にあって松尾山明王寺寶積院といっていた。
応永9年(1402)堂宇焼失し、寺谷という名だけ残った。
寛文年間(1661〜1673)姫路城主松平大和守が、この地を御鹿山と呼び狩場にされた。
 その時、今の地に昌栄法印が旧松尾山明王寺の本堂、護摩堂を移し、この地が赤松光則・友則の弓場であったので、寺号も的場山観音寺寶積院と改められた。
 
後に姫路城主より色衣を許されたので、城北地方では別格扱いされ、明治維新後、的場山寶積院となった。その後、明治16年(1883)11月に堂宇伽藍すべて焼失し、同26年(1893)1月に再建された。
 その本堂、庫裡も百年以上の歳月が経過し、老朽化が甚だしく、平成5年には本玄関・客殿及び庫裡の新築、平成9年には本堂の修復工事が完成した。さらに、この度の開宗千二百年の嘉辰を迎えるにあたり、「一願一行」運動の一環として、宗祖の鴻恩に報い、先祖に感謝し併せて子孫長久の願いをこめて、平成15年より裏山の百観音の修復と参道の整備、境内地整備事業(石垣・塀)に着手し、平成17年に無事円成を遂げることが出来た。百観音修復後、多くの方がお参りされるようになり、さらに参道周辺の整備を進める予定。
 所要時間はゆっくり廻って約40分位かかり、山上からの眺望もすばらしい。






玄常上人

生まれは京の人である。幼い頃、比叡山に上り出家し、師僧について仏道を習ったが、智恵にすぐれ、さまざまな教義に通ずるようになった。また、法華経を習い、心中このように考えた。
「法華経の中で方便品・安楽品・寿量品・普門品のこの四品は、これこそ法華経の中心である」。そこで、これを四要品と名づけ、深く信じ、昼夜怠らず読誦し続けた。

 そのうち、比叡山を離れ、播磨国雪彦山に移り住むことになった。そこで静かに籠ったまま熱心に修行を続けた。百個の栗を持つだけで一夏90日を過ごし、百個の柚を持つだけで一冬の食事に当てていた。その山は全く人跡絶えた所である。そこで、猪・鹿・熊・狼などの獣がいつもやって来ては、この聖人になれ戯れて恐れる様子もないというふうであった。また、聖人は黙っていても人の心を見抜き、その人が思っていることを聖人が口に出して言うとそれが違っていることはなかった。また、世の中のありさまを見て、その吉凶を占って、当たらなかったことはない。そこで世間の人は、聖人を権化の人と噂していた。

 死に臨み、里に出て、知人の僧や俗人の家に行き別れを惜しみ、「この世での対面はこれが最後です。明後日になったら、わたしは浄土に行くことになるでしょう。この後の対面はお浄土でいたしましょう」と言って雪彦山に帰り、岩窟の中に座り、心静かに法華経を読誦して世を去った、と語り伝えられている。


今昔物語集より

本堂

:境内

寶積院の四季

百観音

三枝城

行事

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