涙橋(柳橋) (会津若松市) 会津若松市HP 史跡巡り地図(若松) 会津巡り
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涙橋(なみだばし) この橋の正式な名前は「柳橋(やなぎばし)」といいます。「涙橋(なみだばし)」は柳橋の別名です。
 柳橋は、会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で、付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので古くは楊柳橋と称されました。
 上杉時代の慶長5年(1600年)に、上杉景勝によって神指城の築城が行われた際には、要所であるこの橋も大きく堅牢な橋に造り替えられています。
 藩政時代になると、柳橋の200M程の下流の薬師川原に処刑場が設けられました。処刑場に向かうこの場所には休休み小屋跡?み小屋がおかれ、刑場にひかれる罪人は、ここにあった井戸の水で家族等と水杯を交わして別れを惜しんだそうです。そのためこの橋はいつしか「涙橋(なみだばし)」と呼ばれるようになりました。
 現在も橋の下には、刑場跡へむかうゆるやかな川の流れがあり、静かにゆったりと時を刻んでいます。


※会津戊辰戦争の際には、この橋を通って会津若松城に入城しようとした旧幕府衝鋒隊や萱野権兵衛隊とそれを阻もうとする新政府軍(西軍)との間で戦闘が行われています。橋の1qほど北側には、この戦いで奮戦してなくなった娘子軍(後世の呼称)中野竹子の像があります。
                    
          



キリシタン塚 (会津若松市 薬師川原刑場跡) 会津若松市HP 史跡巡り地図(若松) 会津巡り
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キリシタン塚 会津若松は、キリシタン大名蒲生氏郷が領主になっていたこともあり、キリスト教が少しずつ根付いた地域でもありました。

 しかし、江戸藩政時代になると、幕府の反キリスト教政策にともなってキリスト教徒の弾圧が頻繁に行われるようになっていきます。(寛永元年の猪苗代での弾圧

 寛永12年(1635年)、幕府のキリスト教の厳禁令が強化されました。これにしたがって会津では加藤明成が藩主のときに、キリスト教徒の長の横沢丹波(よこざわたんば)とその一族、横沢屋敷に潜んでいたバテレン(外人教徒)等約60余名が捕らえられ、この薬師川原の刑場で処刑されたと伝えられていました。

 その言い伝えどおり、後年この地から犠牲者の埋骨と思われる人骨がみつかったため、昭和37年にそれらを供養するため、この地にキリシタン塚がたてられました。




別府の一里塚 (喜多方市塩川町大字小府根字五百刈)県指定史跡) 喜多方市HP 会津巡り
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道路東側の塚 一里塚とは街道に1里(4q)ごとに設けられた路程標のことで、その多くが江戸時代に整備されました。

 別府の一里塚は、塩川町役場から北に約1qの旧米沢街道沿いの両側にあります。
 西側の塚は高さ2.8m、低径11.8mの正円で、表面は芝生で覆われ、典型的な一里塚の形状を保っています。
 東側の塚は高さ2.75m、低径14.15mで、塚の頂上には、石宮とサクラ・クヌギ等があります。この塚は一部崩れていたため平成10年に修復されました。
 米沢街道は、若松城下から熊倉・大塩・檜原峠を越えて米沢(山形県)に至る街道で慶長13年(1608年)に本街道が整道路西側の塚備され、別府の一里塚もこの頃に築かれたと考えられています。

 一里塚は県内では、須賀川一里塚など、数カ所に残っていますが、塩川町の別府の一里塚は、保存状態がよく、会津における交通史の貴重な資料として位置づけられています。