十六橋・白虎隊奮戦の地 (会津若松市)  会津若松市HP ・会津巡り
   (十六橋 詳細地図) (白虎隊奮戦の地 詳細地図
 猪苗代湖北岸にある十六橋です。慶応4年(1868年)8月22日。中通りから母成峠を経て猪苗代に侵入した西軍は、ここから会津城下に迫りました。(戊辰・会津戦争)

 これに対して会津軍は、直ちに兵を出して、十六橋の西に位置する戸の口原を会津への最終防衛線とし、藩主松平容保自身も滝沢村の本陣に出陣して、西軍をくい止めようとしました。飯盛山で自刃した白虎隊士中二番隊も会津軍主力とともに戸の口原へ出陣しています。しかし、西軍の進行を止めることはできませんでした。

 白虎隊が戦った場所は、現在「白虎隊奮戦の地」として保存されています。この地で抵抗を重ねながら敗走していった白虎隊は、その後、城と藩主の安否を確かめるため、城下を臨むことができる飯盛山へと向かい、その後の悲劇が生まれました。

 1ヶ月後の9月22日に会津藩は会津若松城を開城し降伏します。
                  
十六橋
猪苗代湖北岸に位置する十六橋

十六橋

白虎隊奮戦の地

戊辰戦没者慰霊碑

戦死者の墓群



圓蔵寺 (柳津町) 柳津町HP ・会津巡り 会津三十三観音
                    詳細地図
開運撫牛 圓蔵寺は、大同2年(807年)に会津仏教の祖ともいわれる徳一大師によって開かれました。只見川に沿うこの場所は、古くからの霊場として知られています。もともとは法相宗のお寺でしたが、14世紀後半に臨済宗に属しました。臨済宗は、座禅によってさとりを開こうとする禅宗の1つで、主に武士の間に信仰され、会津でも葦名氏によってあつく保護されてきました。

 本尊福満虚空蔵大菩薩は、千葉県・清澄寺「能満虚空蔵菩薩」、茨城県・日光寺「大満虚空蔵菩薩」とともに「日本3所の虚空蔵」とよばれ、3体ともに空海が1本の霊木から刻んだと伝えられています。

 本尊が祀られている現在の本堂(菊光堂)は、会津松平家の保護により、文政13年(1830年)に再建されたものです。毎年、正月七日には勇壮な裸参りが行われ多くの観光客が訪れています。本堂東側壁面には観音堂があり、会津三十三観音の番外になっています。
圓蔵寺菊光堂(毎年正月7日には裸参りが行われます。)
圓蔵寺菊光堂

 仁王様

鐘突台

下を流れる只見川

弁天堂へ続く紅葉の絨毯

奥之院弁天堂(重文)
お土産の「赤ベコ」 赤べこ
 会津地方では牛のことを「べこ」と呼びます。約1200年前、会津柳津圓蔵寺建立の際、木材運搬に使役された牛が、険路の為数多く倒れましたが、そのうち、最後まで働き通したのが赤色の牛だったそうです。その赤色の牛にあやかるよう古来から子どもの誕生には「べこ」の如く重荷に耐えて壮健であれと「赤べこ」を供えてお祝いし、また厄よけの玩具として親しまれるようになりました。



会津戊辰戦争終結の地 (会津若松市) 会津若松市HP 史跡巡り地図(若松) 会津巡り
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 明治元年(1868年)9月22日午前10時、1ヶ月の籠城戦に耐えた若松城(鶴ヶ城)に、遂に降伏の白旗が掲げられ、会津戊辰戦争は終結しました。この日の正午、錦旗を擁した西軍の軍監・中村半次郎を迎え、会津降伏式がここ甲賀町通りの路上で行われました。

 説明板によると、式場には薄縁という畳表に縁布を付けた物を敷き、そのうえに十五尺四方(約4.5M)の緋毛が敷かれ、その上で、松平容保・喜徳公父子によって降伏の調印がなされたそうです。それは、天皇家に忠節を尽くした会津が、逆賊の汚名を着せられての敗戦でした。(→藩主父子は、この後、市内妙国寺に謹慎します。)
 式が終わると、会津藩士たちは、この日の無念を忘れぬために、その場に敷かれた緋毛氈を小片に切り刻み、おのおの懐中深く持ち帰ったといわれています。後にその毛氈は「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ばれ、会津人の心の奥深くに刻まれることになりました。

※現在、この場所には説明板(會津酒造歴史館脇)があり正面に鶴ヶ城天守閣を臨むことことができます。近くには旧会津藩家老の西郷頼母邸跡や内藤介右衛門邸跡があります。  
                   

若松城(鶴ヶ城)にむかう旧甲賀町通り

明日よりは いづくの誰か ながむらん 
                なれし御城に残す月影
 
開城前夜 山本八重子 
(後に同志社大学創始者 新島襄 の妻となる)
会津降伏式の説明板
降伏式の説明板
降伏式の様子
降伏式の様子
會津酒造歴史館
會津酒造歴史館
旧甲賀町通り
 旧甲賀町通り