梵語名 śākyamuni(シャーキャムニ)の音訳で、śākya族のmuni(聖者)であり正確には釈迦牟尼世尊と言いうが仏教学面から釈尊と呼び世尊とも言われる、人種的には諸説がありモンゴル系かアーリヤ系の何れかで現在のネパール領内のクシャトリア(注13参照)出身とされる、没年はBC483年、BC383年、BC543年等諸説が交錯する、因みに
釈迦如来は仏教の初祖であり地域や時代を超えて総ての仏教宗派に於いて信仰を集める存在である、シャカムニ・釈迦族の聖者を意味し唯一実在が確実視される如来であるが、史書なきインド(注11参照)と言われる古代以来よりインド国民の行動様式の特殊性から正確な時期は定かではないが上記の紀元前4~5世紀と考えられる、釈尊の生涯に於ける行動に付いては、この時代の資料は存在せずバーリ語(pāli)の正典より引用されたものとされている、さらに正典の出自も定かではない,様々に言われているが釈尊はデフォルメされた伝承に満ちているようだ、これは仏教に限らない、総ての宗教に言える事で初期のキリスト教に於いて強い勢力であったアリウス派では「イエスは神ではなく預言者」としている。
釈迦の伝承では「
Kapilavastu(カピラバストゥ)国の王śuddhodana(シュッドーダナ、浄飯王)とmāyā(麻耶)との子で名前は悉達多・Siddhārtha(シッダルタ)と言う,但し前述のように人種系としてアーリヤ系かモンゴル系か定かではない、ただし悉達多時代に記述は「中阿含経・柔軟経」には出家する以前に父親の悦頭檀王から与えられた環境が著されている、因みにシッタルタ(悉達多)は成就させる意味合いがあるとされる。
この時代中央アジアからインドに侵攻し支配したアーリア人の興したバラモン教が硬直化し、支配層に対するアンチテーゼ(Antithese)から改革運動が盛んであったと推察される、釈尊は群雄割拠した宗教革命推進指導者の独りであったと考えられる。
釈迦は出家の際に妻と子供(後の十大弟子の一人Rāhula)を残してマガダ国に行き沙門生活を送る、6年後35歳で覚りを開き仏陀となる、45年間の布教活動の後80歳で逝去したとされるが、没年は定かでなくBC383年~543年説など様々である。
釈迦の四大聖地と呼ばれる場所に
1、生誕の処をルンビニ Lumbini
2、成道の処をブッダガヤ buddh gayā
3、初転法輪の処をサールナート mṛagadāva 鹿野苑
4、涅槃の処をクシナガラが挙げられ他に kuśinagara
・祇樹給孤独園精舎すなわち祇園精舎(サヘート(Saheth祇園精舎跡)・マヘート(
・竹林精舎(ラージギール) Venuvana-vihāra
・広巌城(ヴエイーサーリー)等も聖地とされている。
菩提すなわち覚りを得て覚者となった釈尊は鹿野苑、菩提樹の下で比丘時代の仲間5名(五比丘)を相手に初説法を行う、次いで釈迦の十大弟子には入れられていないが、当時の宗教界の巨匠・迦葉兄弟(十大弟子の大迦葉とは別人で三迦葉と言う)の率いる大教団ゾロアスター教団や舎利弗及び目連の学派も傘下に入り1250人の弟子を有したと言う、この教団に貴賎の差別は存在しなかったが弟子達のカーストはバラモン・クシャトリア(注13)で多く占められ財政的に恵まれた人材が多く祇園精舎・竹林精舎等の寄進は活発と言えた、ちなみに祇園精舎(正式には祇樹給孤独園精舎)の寄進者は十大弟子の一人須菩提の伯父須達長者である。
成道の後数年後に故郷に帰り阿難・優波離・息子の羅睺羅など十大弟子のメンバーを含め500人の弟子を獲得したと言う。
釈尊は29歳で出家し35歳で如来となり80歳で無余涅槃即ち永遠の覚りに就いたとされる、故郷へ向かう途中に食中毒で倒れクシナガラで沙羅双樹の間に横たわり生涯を終えた。
遺体は荼毘にされた、仏舎利は後に各地のストゥーパに分散して祀られたと言う、しかし1898年ビブラワー遺跡から英国人(ウイリアム・ペッペ)に依り発見された舎利は容器の銘文から釈迦の遺骨説(注6参照)が決定的である、因みにビブラワーとは釈尊が出家以前に過ごしたカピラ城のあった処でインドとネパールの国境付近を言う。
仏滅後に仏陀の遺言を纏める会議即ち合誦が行はれ、第一回は500人の結集でラージャグリハ郊外の七葉窟で行われた他、インドに於いて4度開かれたと言う、さらに仏滅後200年頃はマウリア朝のアショカ王の元で千人結集、更に入滅後500年にクシャン朝のカニシュカ王の元で500人結集が行はれて経・律・論の論議がなされ経典作成が行われたとされる。
釈迦の仏教の根幹は中道と言える、四諦とそれに伴う八正道 (釈迦の教え)・十二因縁(注7)であろう、中道とは梵語でmadhyamā pratipad(マドヤマー・プラティパド)と言い苦行と欲楽に偏らず八正道を行う事で覚りを完成させる事であるが、有無・断常・一異に極度の対立概念を止めることにある、竜樹は「中論」に於いて縁起と空を中道とした。
仏教の教祖である釈迦と他の世界宗教の教祖との相違を挙げると釈迦は悠久からの真理の覚りであり、神からの啓示や天使の取次ぎから成立した宗教ではない。
要するに初期の仏教は神に対してサルベージを求めるキリスト教やイスラム教と違い自らを切り開く哲学である、涅槃経に言う絶対不変は存在せず仮の姿であり滅びる、真理(仏法)を求めよと言う。
釈迦如来の死後暫く造像は禁止されたが後世になり「仏足跡」や釈梼の説いた法を車輪にたとえた「法輪」を崇拝する時代を経て、いろいろな釈迦像が制作された、釈迦の教義は大衆の心の悩みを解決する事にあって、バラモンの持つ加持祈祷・儀式至上主義や階級制度の否定にあるが後に大乗仏教の興隆で釈迦の仏教とは異質な教義となる。
釈迦の教団では僧の階級はカーストによる出自とは無関係で、出家後の年数で決められたとされる。
外形的な行為では成就出来ないとして自己の内面から行う変革が求められた、その基本となる教義が四諦・八正道や十二因縁(注7)などとされる。
最初の説法は鹿野苑(mngadāva ムリガダーバ)で5人の比丘(びく)に対して行われた、マガダ国の王舎城とコーサラ国のシュラーバスの舎衛城・梢園精舎・竹林精舎を中心に45年教化活動しKuśinagara(クシナガラ) に於いて沙羅双樹の下で入滅した、弟子たちは悲しみの中で釈尊の伝導使命が終わる「化縁完了」による「任意捨命」と考えたと言う、因みに捨命とは 覚りのために命を捨てる。
日本に於ける釈迦如来像は、日本書紀に拠れば仏教公伝即ち538年百済の聖明王から金銅釈梼像が請来したとされる、国内では遺品は多く存在するが飛鳥寺・法隆寺等の本尊が飛鳥時代の作とされる、釈迦如来像は独尊で造像される事が多いが、大乗仏教の興隆と共に下化衆生に努める菩薩が必要となり、脇侍に文殊菩薩・普賢菩薩を従えたり十大弟子や八部衆の眷属を従える場合がある。
また法隆寺本堂の釈迦三尊像と興福寺中金堂は薬王菩薩・薬上菩薩を脇侍としている、これらの多くは偏袒右肩で施無畏・与願印や説法印を結び結跏趺坐するが、平安時代以後は室生寺・清凉寺(優填王思慕像)に代表される立像も現れる、但し禅宗系寺院では法界定印の像が多く安置されている。施無畏、与願像の源流は伝承ではブッダが麻耶夫人の説法に天に出掛けたまま帰らない為にカウシャンビー国のウダヤナ(優填王)が牛頭栴檀で刻んだ釈迦像とされ仏像発生の起源とされる伝承像である、その模刻像すなわち瑞像(注10)を東大寺の僧・奝然が持ち帰り清凉寺に安置され更にその模刻像は日本に於いて100尊を超える(注10)。
玄奘の「大唐西域記」に拠れば、この釈迦如来像を見ており模刻像を持ち帰り、それを奝然が更に模刻した瑞像とされている。
釈迦が興した仏教には大別して二つの流れがあり上座部(小乗)の応身仏としての釈迦如来と法華経などにより神格化された久遠実情(注12)すなわち大乗の釈迦如来とがある、この神格化は転輪聖王をイメージしたとされる、転輪聖王とは転輪王とも言い古代インドの伝説上の英雄神である、転輪聖王は理想的かつ完璧な王としての充分条件を備えている。
「法華経11章・見宝塔品」を源流とした文化財には南無妙法蓮華経の墨書に多宝如来と併坐して描かれた書や長谷寺の国宝「法華説法図」(千仏多宝塔板)などがある、二仏併坐の代表例として鑑真と共に請来伝承を持ち、創建時の東大寺戒壇院に置かれたとされる像があり奈良国立博物館(銅像 釈迦如来25,0cm、多宝如来24,2cm)に寄託されている、なお模刻像は現在戒壇院に安置されている。(多宝如来は三尊様式と他の如来‐古寺散策
の13参照)
釈尊を仏陀(覚者)すなわちbuddha(ブッダ)とも呼ぶが、中国に於いて「浮図・ふと」と音訳され、日本に伝わり「ほと」に変わり末尾に「け」が加わり「ほとけ」になったと言われる、また仏(ぶつ)もbuddhaからdhaが抜けたと言われている(高崎直道著より、仏教入門、東大出版会)。
大乗仏教の興りに伴い多くの如来群が派生するが、歴史的に観れば全ての如来は釈迦如来から派生した尊格である、姿形として持物や冠等の装飾品を身に着けず坐像・立像に誕生仏・苦行像・降魔成道・涅槃像(注9)が作られたが、日本では大乗仏教による久遠実状の釈迦が信仰された為に修行中の像は極めて少なく、成道後の姿を表す施無畏(不安の除去)・与願(願いの成就)印が多い、これを通仏相と呼ばれ平安初期以前の薬師如来もこの形をとる、また釈迦の五印と言われる印相に定印・降魔印・施無畏印・与願印・説法印(転法輪)が言われる。
誕生仏等も少なく説法中の指定文化財は転法輪像などでも二例のみである、また前述の法界定印像を持つ禅宗系寺院に於いては左指が上の定印を結ぶ釈迦如来像が存在する(法界定印は右指上が多い)。
日本に於いては施無畏、与願像が大部分を占めるが、インド等では誕生仏、初転法輪、千仏化現、三道宝階降下、説法印像、苦行像、降魔成道図、涅槃図など釈迦八相像と言い多様に作られている、宝冠仏も多く造像され8~12世紀インドに於ける最後の仏教美術を生んだとされるパーラ朝の作品が残されている、代表作にボストン美術館所蔵の宝冠をいただき瓔珞を着けた釈迦八相像がある、転法輪印は日本では希少であるがインドに於いては転法輪如来として、エローラ10窟、バルコニー・ニューデリー国立博物館などにあり、金剛頂経に於ける大日如来の結ぶ智拳印の源と言われている。
釈迦如来を初めとして如来像は坐像と立像があるが金堂に本尊として安置された像が坐像で結跏趺坐をしている、一方釈迦の説法をしながらの遊行姿を基本とするのが立像であり、薬師如来など他の如来にも踏襲されている。
日本の釈迦三尊は普賢菩薩 ・文殊菩薩を脇侍とする例が多いが、他国に於いては敦煌壁画があるが日本独自の配置に近く、中国などは釈迦の眷属として十大弟子の阿難陀・大迦葉を従えている三尊像が多く存在している、又当時生前の釈迦の身長は八尺との伝承もあり、八尺や丈六の像が常識的あるのに対して法隆寺金堂の釈迦は87,5cmと同時代の像と比較して小さい、また脇侍に薬上菩薩・薬王菩薩を従えている、この様式は文化財指定では法隆寺以外に現存例は無く薬王薬上二菩薩経に拠れば主尊は薬師如来とした方が説得力に於いて優るのではないかと思はれる。
この釈迦如来の源流と言える像は雲崗第十六窟の如来立像や龍門石窟賓陽中洞の本尊等著名な石窟寺院(注14)に見ることが出来る。
この像の背面に推古三〇年の造像銘が刻まれている中に聖徳太子と妃の病平癒を願ってとあるようだがこの像を作った止利仏師は薬師如来の制作を目指していたが、制作中に太子夫妻が死亡したので名称変更したのではないか。
法隆寺は阿弥陀如来と思しき尊像を阿?如来とする等一時期密教化した時代があり、その名残が感じられるが密教に於ける釈迦如来の影響力は比較的低い、大日如来を唯一の「普門総徳の尊」(注17)とするのに対して、変化尊か実動部隊的な処遇の「一門別徳の尊」でしかない、曼茶羅には胎蔵界曼荼羅の釈迦院があるが文殊院や虚空蔵院と同程度の空間しか与えられていない、また金剛界曼荼羅には存在しない、東寺では不空成就如来(金剛界・成身会の北尊)を釈迦と同尊と解釈しているがその根拠は明確ではない、また密号では不空成就如来は成就金剛・悉地金剛であり釈尊の寂静金剛とは相違がある、但し小峰彌彦氏(曼荼羅の見方・大法輪閣)に依れば金剛界曼荼羅を感得した金剛界如来の菩薩時代の呼称がが「一切義成就如来」と言い梵語では釈尊の成道前の名・シッダールダを同じ意味を持つ名と言われる(一切義成就如来の梵語名・sarvā raSidhi サルバアルタシッデイ アルタ=義 シッデイ=成就で シッデイとアルタをシッダールタとなる)。 sarva tathāgata
釈迦如来は密教名すなわち密号を寂静金剛と言う、密号とは密教に於ける結縁灌頂に使用される呼称を言い金剛号・灌頂号等と呼ばれる、因みに悉地とは梵語Siddhiの音訳で真言の秘法を成就した悟りの境地を言う。
釈迦如来の特徴として浄土を持たない、全ての如来・菩薩などが自身の浄土を持つのに対して、実在した覚者である釈尊は自土仏であり娑婆すなわち五濁悪世の穢土に留まり衆生の救済(悲華経)に努めるためとされる。
また異形として宝冠・瓔珞などをつけた釈迦如来は宝冠釈迦如来と言う、埼玉県(金剛院・金錫寺)・鎌倉の円覚寺や建長寺 ・京都の東福寺(三門二階) ・安国寺などに数点存在する、円覚寺などは創建時は盧舎那仏であった様であるが、華厳経に記述される盧舎那仏と釈迦如来の同尊とされる拠り所からきている、武村牧男氏(華厳五教章を読む 春秋社)に依れば華厳経は釈迦の”自ら内に証した世界”即ち「自内証」を説いた経典と言う、要するに釈尊の自内証が毘盧遮那仏と言う事になる、因みに自内証とは如来(仏)の覚りの境地を言う、この形態は禅宗系寺院に観られる、因みに道元の正法眼蔵(三十七品菩提分法)には「寂黙凝然はこれ真実なり」とある。
2001年1月現在、我が国に国宝七尊を含む122尊の重要文化財指定の尊像が存在する、像の主な分布として奈良県28尊(18箇所)京都府23尊 滋賀県16尊となる。
また絵画に於いても阿弥陀如来画に次いで多く指定されており国宝2点、神護寺・釈迦如来像・京都国立博物館の釈迦金棺出現図・金剛峯寺の仏涅槃図を含む45点が文化財指定されている。
但し仏涅槃図19点を加えると(国宝・金剛峯寺)阿弥陀如来図より多くなる。
多くの人々に知られ宗派に関らず釈尊に関する祭会には、4月8日の花祭りは日本に於いては釈尊の誕生日としておりこれを「降誕会」と言う、また入滅の日を「涅槃会」と言い2月15日に定めている、また覚者となった日を「成道会」と言い12月8日としている,因みに成仏道会の採用は道元による曹洞宗が嚆矢とされる。
明治大正期の仏教史学者・村上
応身仏(注3) 真言 ノウマクサンマンダ ボダナンバク
注1、釈迦の生涯を八段階の事蹟に分けて八相成道と言う。下天・託胎・誕生・出家・降魔・成道・転法輪・涅槃などインドではこれらの像が制作された。釈迦本来は教えの中で(上座部)は与願・加持祈祷などは否定していた、これらは仏伝の釈迦とされるが日本では施無畏・与願印を結ぶ久遠実状の釈迦が大半を占める。例外的に深大寺の倚像・観心寺の半跏像・願興寺の転法輪像が存在するが中国などでは多様な像が多い。
転法輪とは仏の説法を言い、教義即ち法の輪宝を転がす事を言う、ちなみに大法螺も本来は転法輪と意味を同じくする。
釈尊と毘盧遮那仏の関連に付いて華厳経六十華厳に釈迦如来の発展形すなわち同格異尊として登場し、梵網経に於いて独立した別尊として扱われる様に為る。
注2、 釈迦五印 釈迦の示す基本印で施無畏印(指を上に手のひらを見せる)・与願印(指を下に手の平を受けるか見せる)・定印・降魔印(手の甲を下に人差し指を下に向ける)・説法印(転法輪とも呼ばれ・両手を胸の前に置き手首を捻る印、鹿野園に於いて初説法を行った印相)がある。
注3 応身仏とは衆生を導く為に顕した仏身で成道と入滅を行い、釈迦如来をさす、因みに注3~注5を「仏の三身」と言う,仏の三身とは 「法身・報身・応身」を言う、しかし「大釈同異」と言われるように大日如来と釈迦如来別体説と大釈同体説がある様に解釈は分かれる。
注4、報身仏とは修行の結果成道し永遠の仏となる、阿弥陀如来・薬師如来などを言う。
注5、法身仏とは宇宙の真理そのもので悠久の過去から未来まで仏の王者とも言え、毘盧舎那仏・大日如来を言う。
注6、仏舎利 śarīra 1898年インド北部のピプラワーの遺跡からウイリアム・ペッペと言う英国人に依り発見された舎利は容器の古代文字銘文から、釈迦如来の遺骨と認定され後にタイ国(シャム)に渡り、 1900年タイ国のチュラロンコン国王(ラマ五世)から贈呈され名古屋市の覚王山・日泰寺の奉安塔(舎利塔)に安置されている、奉安塔の設計は当時の伊東忠太東大教授の手による、銘文には「釈迦族の聖者を祠る」と言う意味であったと言う。
山号の覚王山は覚者の王、即ち釈迦如来を意味しておりタイ国の関連から日泰寺とされた、日泰寺は日本に於ける十三宗五十六派が共同で受け入れ現在十九宗で三年毎に住職を勤めている。
本来仏舎利を納める卒塔婆すなわち塔は、インドに於いては古来から二種類が存在している、1、釈尊の遺骨を収納する「真身舎利塔」と経典を法舎利として供養する「法身舎利塔」とがある、但し真身舎利には量的に限度がある為に宝石、香木、等で代用された。
注7、十二因縁 過去・現在・未来の三世の輪廻を示す因果を言い、十二縁起とも言われる釈迦が覚ったとされる因果法則で、無明から老死に至るまでの順観すなわち苦悩を滅ぼす為の条件を系列化・四諦からの解脱方法を言う。 1、無明 2、行(以上過去の因) 3、識 4、名色 5、六処 6、触 7、受(以上現在の果) 8、愛 9、取 10、有(以上現在の因) 11、生 12、老死(以上未来の果)
釈迦はバラモン・ヒンズーの言う有我説に対して無我を主張した、根拠は十二因縁(十二支縁起)であり、無明すなわち生・老・死の連続を唱えており、自我を否定している。
これら原始仏教で説かれる十二支縁起を「業感縁起」と言い、大乗仏教の瑜伽行唯識派の言う「阿頼耶識縁起」如来蔵思想の「如来蔵縁起」華厳宗の言う「法界縁起」とで四種縁起とされている。
注8、如来には如来十号と言い多くの呼称がある、 如来 応供 正等覚 明行足 善逝 世間解 無上仕 調御丈夫 天人師 世尊 などを言い、詳細は仏像編注3、を参照願います。
注9、釈迦如来は施無畏・与願印が多いが釈迦五印と言い説法印・禅宗系に多い定印・降魔印が加わる、定印釈迦如来の重文指定に法隆寺・清凉寺・慈眼寺などに約十尊存在する。(いずれも坐像)また説法印(転法輪)は極楽寺(鎌倉)坐像 ・願興寺(岐阜県・御嵩町)が重文指定であり、願興寺の場合は逆転法輪であり法華経を説いているとされる。
注10、清凉寺式の像は優填王思慕像とも言い、伝説上の信仰対象として「瑞像」の範疇に属し仏像製作の起源との説もある、また瑞像は模刻が繰り返され清凉寺(注3、参照)の像も奝然請来の模刻像である、また教王護国寺の毘沙門天も瑞像と言われる。清凉寺の釈迦如来は伝説上仏像製作の起源と成った像の模刻である。
因みに牛頭栴檀とは牛頭山に於いて採取された香木を言う。
瑞像とは日本国語大辞典をそのまま記述すると、『瑞相を備えた仏像。特に、優填王が初めて釈迦像を栴檀を用いて造立したとの伝説上の仏像をさす。京都市嵯峨の清涼寺に蔵する釈迦像はそれを模したものとされる。』
注11 史書なきインド インド哲学は古来よりエジプトと並び最高峰にある、因明すなわち論理性に卓越した国民性を生みだしたが,劫単位の長いスパンで時間を計るエトスと輪廻転生の信仰から歴史に学ぶ中国とは対照的に、歴史的に考察する思想が育つ事は困難であった。
注12、久遠実成の釈迦
Mngadāva (鹿野苑ムリガダーバ)で初説法した実在の釈迦ではなく法華経を論拠とし方便を駆使し神格化された釈迦で、本来の姿(本地)を具体的(迹)な姿すなわち釈迦如来を言う,表現を変えれば宇宙の真理を実在した事のある釈迦如来に投影(変換)された。
即ち法華経如来寿量品第十六に説かれており久遠の過去に釈尊は覚りを得ており実在の釈迦如来は仮の姿と言う。
注13、カースト ラテン語の castus (カストウス)が語源であり純血、血統を意味する、BC10世紀以前からインドに存在する身分制度で「家柄・血統」と訳され、一族のすべては生涯変更される事はない。
インドに於いてはカーストと輪廻転生は車の両輪でありインド思想社会を構成していたと言える、どのカーストに生を受けるかは前世・前々世からの業により決められておりキリスト教の様な予定説は存在しない。
釈迦はカーストについては梵我一如(永遠の至福・万物の絶対永遠性)と共に否定したが、仏教の影響力の衰えと、ヒンヅー教の興隆により復活し現在にも生きている。
基本的には四階級と言われるが、事実上は五階級に分類され、さらに夫々が細かく分類される。
1、 ブラーフマナ・バラモン(婆羅門)司祭と訳され聖職に付き式典の祭主を勤める。 brāhmala
2、 クシャトリアと呼ばれ王族・貴族・武士などを指す。 ksatriya
3、 ビアイシャと言い平民を指す。 viaśya
4、 シュードラと言い賎民を言い卑しいとされる職業に就く。
śūdra
5、 アチュートとかダリット(Dalit)と言いカーストの枠内に入れない不可蝕賎民で職業に就く事も出来ない階層を言い、約一億人に上ると言う。
注14、石窟寺院 山は精霊の住む場所であり、そこに彫られた石窟はガルバ(子宮)と呼ばれ戒律を遵守し石窟瞑想の世界に於いて覚りを目指す格好の場所である、石窟寺院は人里から隔離されているが交通の要路近くに彫られており、水・寒暖に優しいところが選ばれている、代表的な石窟寺院にインドではアジャンター・エローラ・アフガンのバーミヤン・中国の敦煌・雲崗・龍門・朝鮮の石窟庵等が挙げられる。
注15、釈迦在世当寺の教団内に於ける呼び名について文学博士・田上太秀氏に拠れば釈迦も阿羅漢(アルハット arhat)と呼ばれたとされ、また釈迦も弟子の内でも優れた人には阿羅漢と呼んだという、また優れた弟子達には仏陀(buddha)とも呼んだと言う、しかし仏滅後は神格化が進行し釈迦を阿羅漢、弟子を仏陀とは呼ばれなくなったとされる。(仏像散策・東京書籍)
仏法とは・証・行・教を言い正法とは三時が揃う事を言い、像法は証が失われ、末法は証と行が失われ教のみが残る事を云う、証とは絶対知の感得を言い行は絶対知の感得の為の修行を言われる、また教は絶対知を感得する案内書すなわち経典を指す。
末法を法滅と言い経典も無く壊滅的な時代を言い末法の後を言う解釈もある。
注17、 密教に於いては大日如来の変化や実動部隊として各尊(如来・菩薩等)が存在するが、大日如来を「普門総徳の尊」と言いその他の尊格を「一門別徳の尊」と言う。
注18、村上専精 (1851~1929年) 仏教史学者、近代仏教学の草分け的存在で東京帝国大学インド哲学の初代教授、「仏教統一論」を著し富永仲基(1715年~1746年)の大乗秘仏説を事実上肯定し真宗大谷派の僧籍を剥奪された、その他の著作に「大乗仏説論批判」「仏教三大宗摘要」「日本佛教一貫論」「日本仏教史綱」等々。
主な釈迦如来像 表内は国宝 ●印国指定重文 (鏡像・絵画を除く)
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寺 名 |
仕 様 |
時 代 |
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法隆寺 金堂 |
坐像 銅造 三尊 中86,4 左90,7 右92,4㎝ |
飛鳥時代 |
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法隆寺 上御堂 |
木造 坐像 三尊 中227,9 左155,7 右153,9㎝ |
藤原時代 |
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東大寺 (誕生仏) |
立像 銅像 47,0㎝ |
天平時代 |
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室生寺 (弥勒堂) |
立像 木造(榧・かや)彩色 105,8㎝ |
平安時代 |
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室生寺 (金堂) |
立像 木造彩色 薬師如来説が有力 237,7㎝ |
平安時代 |
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立像 木造(桜材) 160,0㎝ |
宋 時代 |
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蟹満寺 (京都府) |
坐像 銅像 240,3㎝ |
白鳳時代 |
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仏龕 木造 白檀 菩薩・羅漢と共に 23,1㎝ |
唐 時代 |
●深大寺(東京都調布市)坐(倚)像 銅像 60,6㎝ 白鳳時代
●安居院(飛鳥寺)坐像 銅像 275,2㎝ 飛鳥時代
●興福寺(金堂)坐像 木造漆箔 227,0㎝ 平安時代
●法隆寺 銅像鍍金 二尊 釈迦16,7㎝ 文殊13,6㎝ 飛鳥時代 普賢菩薩欠落
●東大寺木造 29,2㎝ 鎌倉時代 善円作
●岡寺 涅槃像 木造 171,1㎝ 鎌倉時代
●照源寺(広島県)涅槃像 木造漆箔 玉眼 146,0㎝ 鎌倉時代
●観音寺(香川県)涅槃像 木造 76,7㎝ 鎌倉時代
●斑鳩寺(兵庫) 木造漆箔 203,5㎝ 室町時代
●称名寺(奈良) 木造漆箔 87,9㎝ 藤原時代
●真長寺(岐阜市三輪) 坐像 漆箔 283,0㎝ 藤原時代
●極楽寺(鎌倉・転法輪)坐像 木造 鎌倉時代
●石山寺 坐像 銅像鍍金 14,1㎝ 天平時代
●西大寺 立像 木造 167,0㎝ 鎌倉時代
●西大寺 坐像 木造漆箔 平安時代
●法輪寺 坐像 木造 86,5㎝ 藤原時代
●常覚寺(奈良) 立像 木造漆箔 156,0㎝ 平安時代
●二尊院 立像 木造漆箔 78,8㎝ 鎌倉時代
●遺迎院 坐像 木造漆箔 玉眼 98.2cm 鎌倉時代 阿弥陀如来と共に快慶作 京都市北区鷹ヶ峯光悦町9
●平等寺(京都 因幡堂、いなばどう) 立像 木造彩色 玉眼 76.7cm 鎌倉時代
●峰定寺 立像 木造粉溜金泥 玉眼 50,6㎝ 鎌倉時代
●大報恩寺 坐像 木造粉溜 89,3伝行快作 鎌倉時代
●大報恩寺 誕生釈迦立像 銅像 53,3㎝ 鎌倉時代
●地蔵院(宇治) 銅像 鍍金 26,4㎝ 平安時代
●世尊院(長野)銅像涅槃 53,2㎝ 鎌倉時代
●観心寺(大阪)木造漆箔 81,8㎝ 平安時代
●観心寺(大阪)銅像鍍金 19,5㎝ 白鳳時代
●考恩寺(大阪)木造彩色 89,0㎝平安時代
●保福寺(滋賀)木造 漆箔 143,3㎝ 平安時代
●金勝寺(滋賀)木造漆箔 218,8㎝ 平安時代
●常楽寺(滋賀)木造漆箔 139,1㎝ 平安時代
●聖衆来迎寺(滋賀) 坐像 木造漆箔 玉眼 69,4㎝ 鎌倉時代
●円福寺(滋賀)木造漆箔 玉眼 56,3㎝ 鎌倉時代 伝快慶作
●極楽寺(神奈川転法輪)木造玉眼 90,5㎝ 鎌倉時代
●国分寺(愛知)木造漆箔 玉眼 宝冠 103,0㎝ 鎌倉時代 60,6㎝ 室町時代
●富貴寺(奈良) 坐像 木造漆箔 84,3㎝ 平安時代
●永明院(京都) 宝冠 木造金泥 玉眼 53,5㎝ 鎌倉時代 性慶作
●国分寺(稲沢市) 宝冠 木造金泥 玉眼 103,0㎝ 鎌倉時代
●戒光寺(京都 泉湧寺山内) 木造彩色 玉眼 542,4cm 鎌倉時代
●東福寺・仏殿(京都市)木造 脇侍 迦葉 阿難陀(十大弟子) 鎌倉時代 2008年指定
その他 重文指定の誕生釈迦立像
愛知県・● 正眼寺 8,2㎝ 飛鳥時代
滋賀県・● 善水寺 23,2㎝ 奈良時代
奈良県・● 覚真寺 13,9㎝ 奈良時代がある、
清凉寺摸刻の釈迦如来で重文指定作品 (奝然模刻)
優填王思慕像とも言い頭部は螺髪ではなく縄状の渦巻きで像内に五臓六腑が内臓されており唐の医学水準の高さが覗える、戒律を重要視する奈良仏教の復興活動中で多く造像され、広範囲に分布しており全国で100余尊が存在している,ただし清凉寺像から直接模刻が確実な像は1249年叡尊が願主として造仏師・善慶に担当させた西大寺像のみである。
優填王思慕像とは祇園精舎に於いて信仰に不熱心な人々を懲らしめの意味で天に登った釈迦如来を慕った優填王が栴檀(びゃくだん)で造像したと言う伝承の像。
奈良県 ●西大寺 167,0㎝ ●唐招提寺 166,6㎝ ●大善寺 168,1㎝ 室町時代
神奈川県 ●極楽寺 158,5㎝ ●真福寺 161,8㎝ ●称名寺 160,6㎝
京都府 ●西明寺 51,5㎝ ●平等寺 76,7㎝ ●常楽院 97,0㎝ ●三室戸寺 154,0cm
滋賀県 ●延暦寺 79,3㎝ ●西明寺 134,8㎝寺 ●荘厳寺 132,0㎝
愛媛県 ●宝蔵寺 163,6㎝
大阪府 ●延命寺 156,5㎝
東京都 ●大円寺 163,9㎝ 鎌倉時代の作品等々がある。
三尊を形成する釈迦如来
上記○法隆寺の二組の他
●願興寺(岐阜県・御嵩町・転法輪)坐像 木造 中尊 70,1㎝ 鎌倉時代 覚俊作 脇侍の配置が逆配置(普賢左・文殊右)
●長瀧寺(岐阜県) 木造漆箔 玉眼 中尊 138,2㎝ 平安時代
●常信寺(滋賀県) 木造漆箔 中尊 88,5㎝ 平安時代
●牛伏寺(長野県) 木造漆箔彩色 中尊 45,5㎝ 鎌倉時代
●承天寺(福岡県) 木造漆箔 中尊 87,6㎝ 鎌倉時代
●円教寺(兵庫県) 木造漆箔 中尊 140,9㎝ 脇侍155.0㎝ 平安時代 姫路市書写字書写山 西国三十三所二十七番札所
●安国寺(京都府) 木造彩色 中尊159,5cm 普賢菩薩 81,7cm 文殊菩薩 81,6cm 南北朝時代 宝冠釈迦如来 京都府綾部市安国寺町
●東福寺・仏殿 木造
脇侍 迦葉 阿難陀(十大弟子) 鎌倉時代
岐阜大仏(釈迦如来)像高13.7m(東大寺14.86m
毘盧遮那仏)(鎌倉大仏11.387m、阿弥陀如来)
木竹芯乾漆造(紙張貫像とも言える) 著色 願興寺 転法輪印すなわち法華経を説く釈迦如来
黄檗宗金鳳山正法寺(岐阜市大仏町) 重文 像高 0.76m
38年を要して1832年(正保3年)完成
最終加筆日 2004年11月10日 2005年3月15日 4月26日 10月2日十二因縁、注11、 2006年3月5日瑞像 2008年5月19日降誕会他 加筆 2007年1月9日一部 2007年3月21日 宝冠仏 6月9日 2008年9月27日 エローラの転法輪印 2008年12月15日 2009年1月17日 2月17日 一切義成就如来 2010年3月5日仏陀の語源 10月20日転輪聖王 2011年3月4日注10一部 2012年2月11日写真他 加筆