河野 万寿弥 1844〜1895

こうの ますや   天保15年〜明治28年

 

弘化元年10月20日、高知城下北奉公人町(高知市上町)の土佐郷士河野喜三郎通好の長男として生まれています。名を通明。敏鎌(とがま)。

誕生地は現在の高知市上町の第四(だいし)小学校付近になり、小学校の南側の入り口の横に石碑がたっています。また万寿弥の石碑の両隣には坂本直寛らがいた嶽洋社跡の石碑と上町町会が日本初の女性参政権が認められた事から婦人参政権発祥之地の石碑がたっています。

高知市上町2丁目の河野万寿弥誕生地。

当時を思わせるようなものはありませんが、万寿弥が生まれた場所であり、そして三つの石碑が建つ様々な歴史を持つ場所ですね。

万寿弥誕生地の付近の様子。右が小学校。

安政6年、土佐の塾生として池内蔵太らと共に江戸へ留学して安井息軒の門人として3年間学問に打ち込みます。その同時期に弘田恕助は藤森弘庵に、柳井健次は塩谷宕陰に、大石弥太郎は勝海舟の塾に学び、万寿弥は同郷の友や諸国の志士らと交流して親交を深めます。

文久元年4月武市半平太が江戸に出て来ると万寿弥は大石弥太郎や池内蔵太らと共に半平太の世話をして、半平太に多くの志士らを紹介しています。文久元年8月土佐勤王党が結成されると万寿弥は7番目に江戸にて加盟。同志を募るために万寿弥は半平太と共に土佐へ帰国するのですが、その途中の大坂で土佐藩上士の谷干城と一緒になり、万寿弥は安井息軒の塾で谷と干城と同門だった事もあり半平太を引き合わせています。元々勤皇思想を持っていた谷は、その後上士ながらも土佐勤王党を支援しています。

維新の門の虎太郎銅像。

土佐勤王党へは多くの同志が集まりますが、考え方の違いから脱藩する同志も出て、文久2年3月には吉村虎太郎、そして坂本龍馬も3月24日に脱藩しています。龍馬が脱藩する際には万寿弥は朝倉村まで見送っており、龍馬とは仲が良かったのかもしれませんね。10月には山内容堂を警護すべく五十人組が結成され、万寿弥は伍長として庄村良達、田所庄之助、島地磯吉、村田忠三郎を率いて活躍します。

五十人組は藩庁の許可を得ず江戸へ出立し、万寿弥は伍長としてまた入京中の11月14日晩には小畑孫次郎や千屋寅之助らと長州の志らと共に長野主膳の妾村山可寿江を捕まえ二条河原に晒す事件も起こしています。

南会所跡に立つ瑞山殉節碑。

しかし文久3年9月に土佐勤王党への弾圧が始まると、万寿弥は9月21日に山田獄舎へ投獄されてしまい、ここから長い投獄生活を送る事になります。投獄された同志の残された家族の暮らしは厳しいものになり、万寿弥の留守宅も例外はなく貧乏を極めてしまったそうです。

祖父は歩く事も出来ず、日々の飯米を買うコトに欠く生活となり、元治元年暮れに同じ獄の島村衛吉に万寿弥は頼み込み、衛吉から獄外の叔父寿之助になんとか10両ほど相談に乗って欲しいと懇願しています。獄外にいる同志らは投獄されていた同志らの家族への援助活動も行い強い絆で結ばれ、万寿弥も厳しい拷問にも耐え自白をしませんでした。その後土佐勤王党への結審で永牢処分を受けますが王政復古の大赦でようやく万寿弥は釈放されたのです。

明治維新後の万寿弥は官界に入り、明治2年侍詔院、次いで弾正台に出仕。明治5年には司法卿江藤新平に随従して欧州各国を回り、帰国後は司法大丞兼大検事、7年には権大判事となり佐賀の乱や西南戦争では裁判長となり審問をおこない判決を下しています。明治13年文部卿、14年農商務卿となりますが、明治14年の政変で下野して明治15年4月に前参議大隈重信を首班として立憲改進党が結成された時には副総理として活躍します。

河野万寿弥誕生地。

明治17年10月自由党の解散後の12月に解党論を主張しましたが、これは受け入れられず大隈重信と共に党を離脱しています。のち農商務大臣、司法大臣などを歴任して子爵。万寿弥は明治28年4月24日に没しています。