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清岡 治之助 1826〜1864
きよおか じのすけ 文政9年〜元治元年
文政9年1月2日、安芸郡中山郷(安田町中山)間下の大庄屋清岡丈五郎の長男として生まれています。名を正道、号が曲水、桂山。
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安芸郡安田町にある清岡治之助屋敷跡 |
天保9年9月、治之助が11才の時に叔父清岡喜之助の跡を継いで郷士職になります。治之助の屋敷跡は現在の安芸郡安田町にあり、土佐くろしお鉄道安田駅前の道を3キロ程山側に向かって走ると右側に出てきます。石碑と説明看板がありました。 |
治之助は文武に励み、田野浦の医師宮地太仲に師事したのち高知城下へ出てます。学問を岡本寧浦に学び、剣術を土方幾蔵、柔術を小川為十郎に、砲術を稲富流の田所左右次から教えを受けています。
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更に江戸へ遊学して安積艮斎の門人となるなど熱心に取り組み、帰国後はその修学などを評価され安政元年に設立された郡奉行付属機関である郷学・田野学館で文武副教頭に就任して、主に国学の指導に当たっていたそうです。文久2年6月には藩命により藩主山内豊範の参勤交代に随行して土佐を出国。治之助はその途中の京阪で土佐勤王党に143番目に加盟して同志と共に国事に奔走しています。 |

屋敷跡にある清岡治之助碑 |
京では宮方や公家の屋敷に出入りして志士らと交流を持ち、同族の田野にいる清岡道之助に手紙を出し時勢をといたという。10月に朝廷が幕府に対して攘夷督促の勅使を東下させると、正使三条実美の衛士として随行します。
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安田小学校横の岡本寧浦生家跡、田野町の清岡道之助旧宅、安芸郡奉行所田野学館跡。 |
文久3年9月、土佐藩が土佐勤王党への弾圧を始めると、同志らは武市半平太らの釈放運動を展開します。土佐七郡の同志が密議をおこなった際には、安芸郡の代表者として同族の清岡道之助と共に出席しています。
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23士殉節之地石碑。 |
治之助や道之助は武力決起を主張し、安芸郡単独で活動する事になります。同志らで会合を重ね、元治元年7月25日田野浦の佐渡屋に集合して土佐三関の一つと数えられる野根山の岩佐関所に武装決起して、藩庁に半平太以下同志の釈放を求める嘆願書を藩庁に提出します。藩庁は嘆願を認めるどころかこの決起を徒党強訴とみなし藩兵を野根山に送りこみ、治之助ら23名は隣領の阿波国へ逃げ込みます。 |
阿波兵に捕らえられ唐丸籠へ乗せられ再び野根山を越えて9月3日田野郡奉行所に護送され、一度も取り調べを受ける事もなく9月5日安芸郡の奈半利川の河原に連行されそのまま処刑されてしまいます。
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