■武市半平太ー武市家の歴史

 

幕末土佐の偉人武市半平太(瑞山)。彼は土佐藩内では下級武士となる白札郷士という身分でありながら土佐勤王党を結成し、佐幕派の多い土佐藩を勤皇へ藩論転換させるべく奔走しました。志士として知られる坂本龍馬中岡慎太郎吉村虎太郎らは彼が結成した土佐勤王党の同志でした。

高知市仁井田吹井の武市瑞山旧宅。

武市半平太は文政12年9月27日、長岡郡吹井村の白札郷士武市半右衛門正恒の長男として生まれています。半平太の名は、先祖代々『半』という文字を入れる習慣があった事から名付けられたそうです。諱は小楯。そして号が瑞山(ずいざん)。吹山(すいざん)。

武市半平太の生家は、築後200年経つ今日でも現存していますが、個人宅ですので無断で立ち入る事は出来ません。写真を撮った際には、たまたま家主さんが門に立っておられ、頼んで敷地内を案内していただきました。

  

左から武市瑞山旧宅の敷地内の写真、室内の写真、そして近くにある新瑞山橋。

 

□武市半平太関連史跡。

 

高知県には武市半平太に関する史跡が多数あります。まず上で紹介している武市半平太の生まれた場所である旧宅、そして旧宅のすぐ隣りには瑞山神社と武市家の墓所があります。下の写真が神社入り口になる階段です。

半平太旧宅隣りにある瑞山神社。

左の石段をのぼっていくと瑞山神社があるのですが、登りきった場所から周辺を眺めるとなんとなく風情があり、私のお気に入りの風景です。神社入り口には小さな資料館があり、半平太の歴史を紹介するパネルなどが展示されており勉強になりました。詳しくはコチラから。

高知市帯屋町の瑞山切腹の場所となる南会所跡である高知市帯屋町には武市瑞山殉節の石碑が建ち、半平太が城下へ移ってから住んでいた屋敷や道場を示す石碑が現在の高知市菜園場町の横堀公園にあります。邸跡は実際には横堀公園から少し離れた場所にあったそうですけど。

  

左から高知市帯屋町の武市瑞山殉節の碑、横波の武市半平太銅像、高知市菜園場町の武市道場跡。

須崎市浦ノ内の横波黒潮ラインには武市半平太の銅像が建っています。横波黒潮ラインは景色も良く、太平洋の迫力みたいなものを感じる事が出来る場所です。クネクネ道が続いてますけど。詳しくはコチラから。

 

□武市家の歴史。

 

武市家の祖先は伊予国越智郡高市郷から出て、一族はその後分裂し、その一部が土地の名前を取って『武市』と称した事からはじまります。

高知市長浜の長宗我部元親銅像。

氏は橘。そして室町時代の文安年間(1444〜48)頃に武市治部佐康範が土佐へ入り、長岡郡仁井田郷吹井に移り住みます。戦国時代頃より長宗我部氏に仕えるようになりますが、関が原の戦いで長宗我部家が没落してしまうと武市家は一時浪人したのち帰農しています。その後新しく土佐の領主となった山内家の郷士募集に応じて、山内家の下士(郷士)として再び武家として復帰します。

元禄10年に武市家は初めて下級役人となり材木杣出方へ仕え、享保11年(1726)には郷士御用人となります。文政5年(1822)、半平太の祖父の代に白札の身分にまで位も上がり、武市家の領地は文政年間の頃で西野地、上野尻、仁井田、池の4カ所にまたがり総高は51石でした。そして半平太は5人姉弟でした。弟の衛吉は高知城下新町の国学者田内喜三次(菜園)の養子となり、のち結成された土佐勤王党にも加盟しています。

長姉の美多は長岡郡介良村の足軽・小笠原嘉助正孝と結婚。夫の前妻の子・保馬は文久元年半平太と共に江戸へ入り土佐勤王党結成に貢献。娘・おこやはのち富子の養子となった郷士岡永次郎(武市半平)に嫁ぎますが、のち養子縁組解消となっています。

高知市仁井田の武市瑞山旧宅の敷地内。

娘時代に山内容堂の姉へ奉公に出た次姉の奈美は、山崎家に嫁ぎますが夫をコレラで亡くし、文久2年7月頃より半平太の屋敷裏の離れで生活。半平太は奈美の2人の息子、竹馬と仲吉を可愛がり、竹馬は剣術や学問を、仲吉は足が不自由であった為に医者になるように教育したそうです。また半平太の妹・琴は内村氏に嫁つぎ、内村元衛を生んでいます。

 

□学問と剣術修行。

 

武市半平太の叔母菊は、土佐を代表する国学者の鹿持雅澄(かもちまさずみ)に嫁いでおり、鹿持雅澄は万葉集の研究をおこない『万葉集古義』141巻を著し、自宅では国学塾古義軒と称する私塾を開き、多くの人材を育てます。

高知市福井町の鹿持雅澄誕生地。

鹿持雅澄の門下生には土佐藩の中心人物として活躍する吉田東洋大石弥太郎らがおり、半平太も強い影響を受けたと思われます。天保8年、半平太9歳の時に文武を学ぶ為に家を出て高知城下新町の伯母(勝賀瀬登美)の嫁ぎ先であった勝賀瀬家に寄宿します。

素読を覚え、島崎七助には習字の手ほどきを受け、天保10年には叔父鹿持雅澄に和学を学んでいた徳永千規に入門して本格的に学問を学び始めます。その一方で剣術の方は天保12年、12歳の時に城下新町の千頭伝四郎に入門して、これ以後約10年間一刀流を修行しています。嘉永3年師匠千頭が病死すると、城下鷹匠町の小野派一刀流麻田勘七の道場に移ります。麻田道場は上士の住居が立ち並ぶ鷹匠町にあった事もあり門下生は上士が多く、のち坂本龍馬と関わる佐々木三四郎らが同門になります。半平太は更に腕をあげていき、年内に初伝を許され、安政元年には皆伝となっています。

  

左から瑞山神社にある自画像パネル、高知市中須賀町の徳弘董斎邸跡、高知市鷹匠町付近の写真。

弘化2年には土佐藩で西洋砲術の起源となった徳弘董斎(とうさい)に入門します。徳弘門下にはあの坂本龍馬や兄権平、岡田以蔵らも入門していました。半平太はどういう経緯なのかはわかりませんが、砲術以外にも南画の才がある徳弘や広瀬友竹に日本画も学んでおり、のち土佐勤王党の獄で投獄された際に獄中で描いた「武市瑞山獄中自画像」が知られています。

 

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