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■武市半平太ー武市家の歴史
幕末土佐の偉人武市半平太(瑞山)。彼は土佐藩内では下級武士となる白札郷士という身分でありながら土佐勤王党を結成し、佐幕派の多い土佐藩を勤皇へ藩論転換させるべく奔走しました。志士として知られる坂本龍馬や中岡慎太郎、吉村虎太郎らは彼が結成した土佐勤王党の同志でした。
武市半平太の生家は、築後200年経つ今日でも現存していますが、個人宅ですので無断で立ち入る事は出来ません。写真を撮った際には、たまたま家主さんが門に立っておられ、頼んで敷地内を案内していただきました。
高知県には武市半平太に関する史跡が多数あります。まず上で紹介している武市半平太の生まれた場所である旧宅、そして旧宅のすぐ隣りには瑞山神社と武市家の墓所があります。下の写真が神社入り口になる階段です。
高知市帯屋町の瑞山切腹の場所となる南会所跡である高知市帯屋町には武市瑞山殉節の石碑が建ち、半平太が城下へ移ってから住んでいた屋敷や道場を示す石碑が現在の高知市菜園場町の横堀公園にあります。邸跡は実際には横堀公園から少し離れた場所にあったそうですけど。
須崎市浦ノ内の横波黒潮ラインには武市半平太の銅像が建っています。横波黒潮ラインは景色も良く、太平洋の迫力みたいなものを感じる事が出来る場所です。クネクネ道が続いてますけど。→詳しくはコチラから。
武市家の祖先は伊予国越智郡高市郷から出て、一族はその後分裂し、その一部が土地の名前を取って『武市』と称した事からはじまります。
元禄10年に武市家は初めて下級役人となり材木杣出方へ仕え、享保11年(1726)には郷士御用人となります。文政5年(1822)、半平太の祖父の代に白札の身分にまで位も上がり、武市家の領地は文政年間の頃で西野地、上野尻、仁井田、池の4カ所にまたがり総高は51石でした。そして半平太は5人姉弟でした。弟の衛吉は高知城下新町の国学者田内喜三次(菜園)の養子となり、のち結成された土佐勤王党にも加盟しています。
娘時代に山内容堂の姉へ奉公に出た次姉の奈美は、山崎家に嫁ぎますが夫をコレラで亡くし、文久2年7月頃より半平太の屋敷裏の離れで生活。半平太は奈美の2人の息子、竹馬と仲吉を可愛がり、竹馬は剣術や学問を、仲吉は足が不自由であった為に医者になるように教育したそうです。また半平太の妹・琴は内村氏に嫁つぎ、内村元衛を生んでいます。
武市半平太の叔母菊は、土佐を代表する国学者の鹿持雅澄(かもちまさずみ)に嫁いでおり、鹿持雅澄は万葉集の研究をおこない『万葉集古義』141巻を著し、自宅では国学塾古義軒と称する私塾を開き、多くの人材を育てます。
素読を覚え、島崎七助には習字の手ほどきを受け、天保10年には叔父鹿持雅澄に和学を学んでいた徳永千規に入門して本格的に学問を学び始めます。その一方で剣術の方は天保12年、12歳の時に城下新町の千頭伝四郎に入門して、これ以後約10年間一刀流を修行しています。嘉永3年師匠千頭が病死すると、城下鷹匠町の小野派一刀流麻田勘七の道場に移ります。麻田道場は上士の住居が立ち並ぶ鷹匠町にあった事もあり門下生は上士が多く、のち坂本龍馬と関わる佐々木三四郎らが同門になります。半平太は更に腕をあげていき、年内に初伝を許され、安政元年には皆伝となっています。
弘化2年には土佐藩で西洋砲術の起源となった徳弘董斎(とうさい)に入門します。徳弘門下にはあの坂本龍馬や兄権平、岡田以蔵らも入門していました。半平太はどういう経緯なのかはわかりませんが、砲術以外にも南画の才がある徳弘や広瀬友竹に日本画も学んでおり、のち土佐勤王党の獄で投獄された際に獄中で描いた「武市瑞山獄中自画像」が知られています。
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