■坂本龍馬ー誕生

 

幕末の志士として高い知名度、人気を誇る坂本龍馬。志士として各地を奔走し激動の33年間の人生を送った龍馬は天保6年(1835年)11月15日、現在の高知県高知市上町1丁目7−34に生まれた事から始まります。

高知市上町にある龍馬誕生地。

坂本龍馬の誕生地は高知市中心部の国道33号線に面した土佐電鉄電停升形と上町1丁目の中間地点にあたり、現在は医療法人産研会上町病院と金子陶器店の間に坂本龍馬誕生を記念する石碑があります。龍馬の誕生からは170年余りが経っている事もあり、当時を思わせるものは何もありませんが、誕生を記念する石碑や説明看板があり、ベンチに座りながら誕生地を眺めるファンも多いです。詳しくはコチラから。

高知県には様々な龍馬ゆかりの地がありますが、龍馬誕生地付近では『龍馬の生まれたまち記念館』が近年建設されました。

  

左から坂本龍馬誕生地案内看板、そして石碑の向かいのベンチ。右は龍馬の生まれたまち記念館。

誕生地周辺には有名な龍馬郵便局、近藤長次郎誕生地や才谷屋跡の他にも、龍馬が通った日根野道場の跡地や河田小龍の塾跡、また大河ドラマで放送された山内一豊が築城した高知城をはじめ山内神社や宝物資料館など様々な観光スポットがありますので、散策しながら巡るのも楽しいかと思います。

    

坂本龍馬誕生地そばの龍馬郵便局には龍馬の銅像と、ポストがあります。右は日根野道場跡付近の写真。

そして高知県内の観光名所として必ず名前の挙がる『桂浜』。ここに坂本龍馬記念館や坂本龍馬の銅像が建ち、多くの観光客で賑わっています。毎年龍馬の誕生日11月15日前後には龍馬祭りが開催されていて、桂浜は観光客や多くの龍馬ファンで賑わいます。また桂浜の眺めも最高です。

  

右から櫓(右側)が組まれた桂浜龍馬像、そして桂浜、左は桂浜にある浦戸城跡の看板です。

龍馬の誕生日前後には桂浜の坂本龍馬銅像の横には櫓が設置され、夕方くらいまでなら無料でのぼる事が出来て、龍馬の顔をアップで見れるのです。まぁわたしが訪れる時は大概見学時間が過ぎていたりしていて、未だにのぼった事はありませんけど(泣)。その坂本龍馬の先祖を調べると初代にあたる人物は長岡郡植田郷才谷村(現南国市才谷)に住んだ太郎五郎という人でした。

戦国時代の天正16年におこなわれた検地の記録で、太郎五郎が長宗我部家統治下の長岡郡才谷村で農耕に従事していた記録が残っており、その後2代目彦三郎、3代目太郎左衛門とこの才谷村で農業を営んでいたようです。

坂本家領地であった柴巻から高知を見る。

現在先祖が住んだ大浜屋敷の側に2代目の彦三郎、3代目太郎左衛門のお墓があります。3代目太郎左衛門の二男・八兵衛は寛文6年(1666)に高知城下本丁3丁目に移住して質屋・才谷屋を始め、家業は順調で業績を伸ばし次第に酒屋や諸品売買、呉服まで扱う豪商にまで上り詰め、『浅井金持、川崎地持、上の才谷屋は道具持』と呼ばれたのは有名です。

坂本龍馬生家付近。正面はホテル南水。

幕末の才谷屋は土佐藩の家老や中老の家禄を抵当にして金銀の融通をおこなう仕送屋を専業としていましたが明治維新により士族が没落していくと、武家相手に商売をしていた才谷屋の経営も悪化して衰退しはじめてしまい明治15年11月源三郎の代で破産したのです。

土地家屋は人手に渡ってしまい、諸道具などは競売にかけられたそうです。才谷屋本家跡は現在の高知市本町2丁目あたりになります。

 

□郷士坂本家の歴史。

 

本家筋の才谷屋から新しく興されたのが坂本龍馬の生まれた郷士・坂本家でした。郷士・坂本家は才谷屋6代目八郎兵衛直益が幡多郡郷士が募集された時に郷士株を取得。長男・直海に譲った明和7年3月に誕生したのです。

郷士坂本家は初代直海から2代目八蔵直澄となり、3代目が龍馬の父・八平でした。八平は白札郷士の山本覚右衛門の二男に生まれ、坂本家には養子として入っていました。龍馬はその坂本家の二男として生まれたのです。

周辺を散策中に撮った上町1丁目を示す看板。

龍馬誕生時、兄の権平は21歳で、姉千鶴は19歳であり龍馬とは離れた年齢だったようです。次姉栄は年齢不詳、そして末姉乙女は4歳でした。弘化3年6月10日(8月説もあり)龍馬12歳の時に母・幸が病没。末っ子の龍馬は兄弟の中でも病弱だった幸と一番接した時間が短かった事になります。

  

真ん中は龍馬の姉千鶴が嫁いだ高松順蔵旧宅、左は墓所案内看板。右は田中良助邸内部の写真。

母の死後は姉乙女が龍馬の面倒をよく看たようで、様々な逸話も残しています。龍馬と乙女の絆は強く、のち脱藩した龍馬は乙女に多くの手紙を出しています。また小説等でよく龍馬が泣き虫だと書かれていて、わたしも龍馬は泣き虫だと信じていましたが、その事実を示す史料は残っていないそうです。

坂本龍馬は大男として知られます。桂浜の銅像は確かに大きいですが(笑)、実際には証言する人により差があり、有名なとこでは田中光顕の証言の5尺7寸(173センチ)が広く知られています。その他では5尺8寸(176センチ)説や5尺9寸(179センチ)説といったものがあり、勝手に話を総合すると龍馬の身長は現在でいう173センチ〜179センチ(ちょっと今いちピンときませんね)という事になるのでしょうか?

桂浜にある坂本龍馬銅像。

中岡慎太郎間崎哲馬らの身長が5尺(152センチ)だった事を考えると龍馬は当時としては大柄だった事は間違いないようです。ちなみに大柄だったと伝わる山内容堂は5尺6寸、那須信吾は6尺(約182)でした。

 

□日根野道場。

 

坂本龍馬が生まれた時代の下級武士の二男以下の者らは、他家に養子へ出るか長男の世話になるか、もしくは学問や剣術の指導で生計を立てるしか自立の道がなく、龍馬はそれが全てではないでしょうけど、嘉永元年(1848)14歳の頃に家から歩いて5分の築屋敷(現在の高知市上町1丁目付近)の小栗流日根野道場に入門して剣術修行を始めます。

現在の日根野道場跡付近。

日根野道場は小栗流和術を主に柳生流剣法、居合、槍、薙刀、水練などの武術を組み合わせていて、日根野弁治は上士格でしたが、郷士市川家から養子へ入っていた経緯もあってか、道場で学ぶ者は上士より下士の方が多かったそうです。現在龍馬が通った日根野道場があったとされる場所は住宅地となっていて、当時の建物などは残っていませんが、道場跡を示す案内看板が設置されています。

日根野道場跡を探して土手付近を歩きまわったのですが、この本町付近を歩くのは『龍馬もこの辺りを歩いたんだろうなぁ』とか思ってしまうので意外と楽しいです。ゆかりの地を歩くと、少し龍馬に触れたような気分になれますね。

  

左は土手から見た鏡川。そして道場跡付近にある階段。右は現在の道場付近にあたる裏路地?

龍馬はここで5年間修行を重ね、嘉永6年3月に日根野弁治より「小栗流和兵法事目録(初伝)」を授けられ、将来道場を将来開く為でしょうか?よりハイレベルな江戸での修行を望み江戸へ出ますが、帰国後も日根野道場での修業を続け、嘉永7年、文久元年と3度日根野弁治より目録を授けられています。

 

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