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岡田 以蔵 1838〜1865 おかだ いぞう 天保9年〜慶応元年
天保9年高知城下江ノ口村七軒町に土佐藩家老桐間将監の足軽格岡田儀平宜之の長男として岡田以蔵は生まれています。名を宜振。
岡田以蔵の父儀平は香美郡神通寺の郷士の二男に生まれ、土佐藩が足軽を募集した際に応じて高知城下へ出て森田治右衛門が組頭を務める組に入ります。禄は4人扶持。岡田以蔵の屋敷は現在の高知駅南側の高知橋の東側付近にあり、その後北新町(高知市桜井町)へ引っ越したとも言われます。
以蔵は木刀を振り続けるなど自己流で剣術修業に励み、18歳の頃に高知城下新町田淵に道場を開く白札郷士武市半平太に入門します。剣術を始めるには遅い年齢だったようですが、センスなどもあり以蔵は頭角を現します。
安政3年には武市半平太に同行して江戸へ出て、鏡心明智流の桃井春蔵に入門して目録を許されています。また坂本龍馬とはこの頃に築地の土佐藩中屋敷で同宿となり知り合ったと思われています。
その道中で同じく剣術修行の旅に出ていた高松太郎と出会い、この後太郎も同行したそうです。8月18日に丸亀藩から中国、九州地区を回り豊後岡藩に立ち寄り、以蔵は堀加持右衛門の道場で翌文久元年3月まで修行をおこない、その後江戸に入っています。8月に江戸にて土佐勤王党が結成され、同年暮れには再び岡藩に戻り、文久2年4月、宿毛経由で土佐へ帰国します。
文久2年6月、藩主山内豊範の参勤交代に随行して土佐を出国。藩主一行が麻疹の流行で大坂で約一月足止め状態となった際、8月2日清岡治之助、田内衛吉、岡本次郎、松山深蔵らと共に吉田東洋に可愛がられ、東洋暗殺犯を探し土佐勤王党員につきまとっていた前監察府の下横目井上佐市郎を殺害する事件を起こし、閏8月20日には本間精一郎、22日宇郷重国、30日猿の文吉と暗殺を続け「人斬り」の異名をとる程に名前は響き渡ったのです。文久3年1月22日深夜、山内容堂と会食した儒者池内大学の帰路を狙い殺害します。しかし、その後理由は不明ですが、土佐藩を脱走して江戸へ入り長州藩邸内の官舎にて高杉晋作の庇護を受けます。(京の長州藩邸の説もあり)
そして元治元年、以蔵は非行があり京都所司代に逮捕されてしまい『無宿者鉄蔵(鉄三)』として入墨され洛外に追放となります。武市半平太を投獄して土佐勤王党への弾圧を始めていた土佐藩は以蔵の追放の事実を知ると、二条通紙屋川の土手で以蔵を逮捕し船便で土佐へ檻送して6月14日、山田町獄舎へ投獄されたのです。以蔵は8月10日頃に拷問を受け、井上佐市郎殺害を自供した事で村田忠三郎や岡本次郎、久松喜代馬らが投獄され、以後厳しい拷問に耐えかねた同志らは自白を始めてしまうのです。
しかしこの計画は、以蔵の家族の許可なく毒殺は出来ないと同志らは判断して以蔵の父儀平と、実弟啓吉に毒殺の許可と取ろうとしますが、家族はこれを拒否した事から毒殺計画の実行はありませんでした。
さらに同志岡本次郎や村田忠三郎、久松喜代馬と以蔵は斬首山田獄舎で斬首となり、以蔵は最も罪が重く鏡川上流の雁切河原に三日間晒されたそうです。以蔵は独身で子もなく、岡田家は弟の啓吉が継いでいます。
辞世の句
君が為め 尽くす心は水の泡 消えにし後は 澄み渡る空 |