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後藤 象二郎 1838〜1897 ごとうしょうじろう 天保9年〜明治30年
天保9年(1838)3月19日に高知城下片町(高知市与力町)に後藤助右衛門の長男として生まれています。名を保弥太、良輔、元嘩。
一説には後藤家の祖先は大坂の陣で豊臣方に味方して徳川勢を苦しめた後藤又兵衛の遺児だと伝わり、その又兵衛の遺児が播州侍になり、その後山内一豊に250石取りで仕えたとの話しも残ります。
後藤象二郎の生家近くには板垣退助や片岡健吉の屋敷があり、この2人とは幼少の頃からの付き合いなのだそうです。
後藤象二郎は11才の時に父・助右衛門を亡くし、その後は叔母琴子が吉田東洋の妻という縁があり、東洋の養育を受けています。東洋は山内容堂の信任を得て参政として活躍しますが、安政元年不祥事を起こすと謹慎処分後に吾川郡長浜(高知市長浜)で鶴田塾(少林塾)という私塾を開き、象二郎は入門します。
象二郎は岩崎弥太郎とは生涯を通じて長い付き合いがあり、弥太郎が少林塾に入門出来たのは、象二郎が課された論文を弥太郎に代筆させたのですが、その出来が素晴らしかった事から、東洋は象二郎の作ではない事を見抜き、それが元で弥太郎が入門出来たという話も残ります。そして漂流したジョン万次郎が土佐に戻ってきた時に、吉田東洋邸に招かれた万次郎から世界地図を譲り受け、海外の知識を練ったという話しもあるそうです。
安政5年に吉田東洋が参政に復帰すると、安政6年4月象二郎は22歳の若さで幡多郡奉行に任命されます。甥・象二郎の奉行任命には周りから様々な声も上がりますが、この後様々な職務を歴任していきます。
万延元年9月、幕府から給付された大坂の敷地に大規模な陣営建設に着手する事が決まり象二郎は普請奉行を務めます。この工事は土佐から人夫・大工・木材を持ち込み文久元年に完成します。その後近習目付として藩政改革を補佐しますが、土佐勤王党が吉田東洋を暗殺すると、象二郎は藩政より外れ、翌年藩命で江戸へ出て幕府開成所に入り航海見習修業をおこないます。江戸に滞在中は航海術の他にも大鳥圭介に英学やを蘭学を学ぶなど知識、視野を広めます。文久3年9月に土佐勤王党への弾圧が始まり、元治元年4月に土佐へ帰国すると、7月に大監察に任命され慶応元年閏5月まで土佐勤王党への最終局面の指揮を執り、その後参政に任命され藩政改革に着手します。
象二郎は富国強兵や殖産興業に力を注ぐべく、保守派の反対を受けながらも山内容堂のバックアップもあり慶応2年2月5日に開成館を発足させ、開成館の総裁を務め産物を藩の専売品として長崎や大坂で売り出し、それを資金に新技術の導入や人材育成をはかろうとします。
象二郎は土佐藩が諸藩と比べ文明的にも立ち遅れている事、そして慢性的な財政難などから、長崎で亀山社中を運営していた坂本龍馬に注目し慶応3年の1月中旬、溝渕広之丞の仲介により長崎の「清風亭」にて会見し、共鳴した2人はこの後土佐藩を公議政体論へまとめ大政奉還を成す事となります。
慶応3年6月、象二郎は長崎から京へ入り6月22日、坂本龍馬、中岡慎太郎陪席の下三本木の料亭で薩摩藩西郷隆盛や大久保利通と会談して幕府を排除して王政を確立する内容の薩土盟約を結びます。
この意見に反対したのは兵制改革を進めていた板垣退助のみでした。象二郎は福岡孝弟や神山左多衛らと建白準備を進め、慶応3年10月3日には福岡孝弟と共に老中板倉勝静を訪ね、容堂の名で大政奉還の建白書を提出します。そして10月13日、象二郎は小松帯刀らと将軍慶喜と謁見し、翌日将軍は政権を奉還する事を発表したのです。この活躍から象二郎は馬廻役の知行150石の参政から中老に昇格して知行は700石と急激な出世を遂げ、また執政に登用され役料800石の支給を受け、知行は1500石となったのです。
慶応3年11月15日、一緒に国事に奔走した坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されます。現在龍馬暗殺犯はハッキリとしていません。
しかし大政奉還の進言ですが、2度も脱藩している坂本龍馬の発案として容堂に進言していたら、この案は採用されたのでしょうか?
明治維新以降の象二郎は政府の参与・参議など歴任し、明治6年征韓論に敗れ板垣退助や西郷隆盛らと共に下野して明治7年1月には民撰議院設立建白書を提出する他にも明治7年には官営鉱山の高島炭坑を55万円で政府から払い下げてもらい商社蓬來社を経営しています。
明治22年に逓信大臣に就任しており、辞任後は進歩党結成を援助しています。その後象二郎は病気を患うなどして明治30年8月4日、東京で逝去。晩年の象二郎は策士的で裏がある事から「政界の惑星」とも呼ばれ悪いイメージもあるようです。しかし象二郎がいなかったら幕末の土佐藩の展開もまた違ったものになっていたのではないでしょうか? |