哲学とは何か
 
思想と哲学
 人類は様々な思想を展開してきたが、その中の一つに哲学がある。哲学とは、数多ある思想の中で、ヨーロッパの知的伝統として受け継がれてきたものである。それ故、その伝統を継承しない思想を、ここでは哲学とは呼ばないことにする。
 例えば、儒教ないし儒学といった東洋思想、あるいはウパニシャッド哲学や仏教などのインド思想である。これらは、中国哲学とかインド哲学などと呼称されることも多い(ウパニシャッド哲学!)。しかし、僕の考えでは、これらは哲学と呼ぶことはできない。何故なら、哲学とはあくまでヨーロッパの知的伝統だからである。
 ヨーロッパの知的伝統である、とはどういうことか。簡単に言えば、遡ると必ずソクラテス、プラトン、アリストテレスに辿り着く、ということである。アジアにはアジアの知的伝統があり、その一つである儒教ないし儒学は、遡ると必ず孔子に辿り着くようになっている。だが、どのような経路を遡っても、儒教ないし儒学はソクラテス、プラトン、アリストテレスに辿り着くことはないし、また哲学は孔子に辿り着くことはない。だから、哲学を儒学と呼ぶことがないように、儒学を哲学と呼ぶこともできないのだ。
 一つの比喩として、鯨を考えてみよう。鯨は、海で暮らす動物だが、魚ではなくほ乳類である。それは魚とは祖先が違うからだ。鯨と魚は姿形は似ているが、それは同じような環境に暮らしているからであって、同じグループに属しているからではない。東洋思想やインド思想に、哲学と似ているような面があったとしても、それは同じような試みを行っているからであって、同じグループに属しているからではない。
 哲学、儒教ないし儒学、インド思想、そして宗教などを全て包括する言葉として、思想という言葉を使いたいと思う。そう考えると、哲学とはあくまでもヨーロッパのローカルな思想に過ぎないことが明らかになるだろう。
 
ヨーロッパ学問のローカリティとグローバリティ
 哲学とは、ヨーロッパローカルの知的伝統に過ぎない。だがその一方で、哲学は普遍的な学問を僭称しているし、非ヨーロッパ人の哲学者も多くいる。これは哲学に限らず、学問と呼ばれるもののほとんどにおいて同様ではないか、と思われる。
 近代以前、思想にしろ学問にしろ、各地域ごとに異なるものが発展していた。もちろん、それらに類似性は見られるだろう。ただし、それは同じ環境(地球ないし人間の社会)に暮らしている以上、当然見られる類似性である(鯨と魚)。だから、各地域の学問が、結果的には相互に翻訳可能な、同一の知識を持っていたとしても、知的伝統としては各地域によって全く別種のものであると考えた方がよいだろう。
 しかし、近代において、その様相は一変する。近代化とはすなわちヨーロッパ化のことを指すのである。学問にしろ民主主義といった政治思想にしろ、それらは人類にとって普遍であると言われるが、歴史的にそれらの起源を辿っていけばヨーロッパ、そして古代ギリシアに辿り着くことだろう。そして、決して孔子に辿り着くことはないだろう。ヨーロッパ化以外の手段で近代化した地域はおそらく存在していない。近代以降、全世界的に学問や思想はヨーロッパに属するようになったのである。
 これは直ちに、現在の学問や政治思想の正当性を糾弾する理由にはならない。確かに、起源はヨーロッパローカルのものではあるが、現在ここまで全世界的に普及したということはまた事実として受け入れなければならない。また、ヨーロッパの知的伝統だからアジアとは相容れがたい、と即断することもできない。ヨーロッパ人もまた、地球で生活しており、生物種としてはアジア人ともアフリカ人とも同じである。であるならば、ヨーロッパ人のものの考え方と非ヨーロッパ人ものの考え方には、同一性、類似性が見られるはずである。
 近代化した地域はヨーロッパ化した地域とも言える。現在、生きている日本人は既に九割以上が、明治維新以降、すなわち近代化以降に生まれている。つまり、非ヨーロッパだった頃の日本を直接知っている日本人はもはやいない。その点で、日本人もまたヨーロッパ人であり、ヨーロッパの知的伝統に既に属してしまっている。
 現在、日本人がものを考えるということは、ヨーロッパの知的伝統に則って行われている、ということは自覚しておく必要がある。ただし、それと同時にこの国にはかつてそれとは異なる知的伝統があったことを意識しておくことも重要だろう(何故過去形か。いまでも、儒教の研究はあるのではないか。しかし、それはかつての儒学者についての研究であって、アクチュアルな問題として捉えられてはいないのではないか。ソクラテスから連なる知的伝統であるところの哲学は、イラク戦争や格差問題、脳科学や情報化について語ることができる。儒教などのアジアの知的伝統はそのようなアクチュアルな問題を直接的に論じることが可能なのか)。残念ながら、僕個人は、そうした知的伝統に関してはほとんど無知である。それでも、孔子、老子、荘子、孟子、荀子、朱子、王陽明、林羅山、山崎闇斎、伊藤仁斎といった名前を挙げることなら(本当に単に名前を知っているだけだが)できる。このような二重の知的伝統の上にいることは、ハンディキャップであると同時にアドバンテージでもありうる。
 
経験的/超経験的
 哲学の特徴の一つは、ソクラテス、プラトン、アリストテレスにつらなる知的伝統であるということだ。ここでは、さらにもう少し内容的な特徴を挙げてみよう。それは、経験的/超経験的を区別し、超経験的な事柄について思考する、ということだ。
 僕個人は、この知的伝統の内部で生きているため、この二元論から脱してものを考えることができない。だから、哲学以外の思想もこの区別を何らかの形でもっていると思ってしまう。しかし、この区別は確かにプラトン的、アリストテレス的発想でもある。
 哲学にとって重要なのは、超経験的な事柄を扱うという点だ。一方、経験的な事柄を扱うものを、ここでは科学と処世術と呼びたい。科学の説明はここではしない(ただし、科学もヨーロッパの知的伝統に属する科学と、それ以外の知的伝統に属する科学に分けられる)。処世術として、僕が具体的に想定しているのは、儒教、仏教、イスラム、日本的な現世利益型宗教である。これらには、超経験的な事柄を扱う面ももちろんあるので、正確には宗教と処世術を組み合わせたものといえるだろう。ここでは、「目上の者を敬え」「貧しき者に施しを与えよ」「公正な商売をせよ」といった、経験的な領域に限った思想を処世術と呼びたいのである。
 他方、宗教というものは超経験的な事柄を扱うものだ。つまり、神や仏である。僕は、日本という地域では、超経験的な事柄を扱う思想が非常に少ないと思っている。そのような事柄への感受性が、他の地域ほど強くないのではないか、と思う(これは単なる事実であって、ここから日本人は他の地域の人よりも優れている、劣っているという話にはならない)。それでも、即身成仏とか補陀落渡海とかは、非常に超経験的な領域の思想を感じさせる。ちょっと面白いと思うのは、妖怪だ。妖怪の話や民話あるいは神話の一部というのは、基本的にはやはり経験的な事柄を扱っているように思える。つまり、それらは科学や処世術の一種である。妖怪が超経験的な存在とは思えないのだが、日本人なりに超経験的な事柄を経験的な事柄として理解するために生み出された、折衷的な思想なのかもしれない。先ほど述べたとおり、僕個人は、経験的/超経験的の二元論をほとんど所与のものとして考えているが、妖怪などの日本的な知的伝統はそのような二元論を全く持っていないのかもしれない。
 
哲学における超経験的な事柄
 既に述べたとおり、超経験的な事柄を扱うのが哲学の特徴だが、それでは宗教と区別することができない。そして実は、ある面でそれは事実である。哲学というのはキリスト教と区別して捉えることが難しいものなのである。しかし、それでもあえて宗教と哲学を区別するならば、宗教は信仰によって、哲学は思考によって超経験的な領域の思想を行おうとするのである。
 また、宗教、特に一神教にとって超経験的な事柄とは、すなわち神である。これも、アジアの多神教的な神とは異なり、theGodとしての神である。一方で、哲学にとって超経験的な事柄とは、必ずしも神に限定されない(究極的に、神についての考察になっていることは多々あるものの)。
 ところで、そもそも超経験的な事柄とは何か。それは、経験不可能な事柄のことである。哲学の用語では「超越的」と呼ばれることが多いが、はっきり言って分かりにくいので、ここでは超経験的と呼んでいる。経験を超えている、つまり経験不可能なことである(宗教では、悟りとか啓示とかという形で経験されることがあるが、相当特殊な経験であることは確かだ)。神はその代表的なものだし、宇宙は一体どのようにして始まったのか、とか、私が私であるとは一体どういうことか、といった問いも超経験的なものだ。
 経験不可能なものというのは、そもそも端的にないのではないか、そんなことについて考えても無駄ではないか、と考える人もいるかもしれない。特に、無神論者で処世術的な思想を持って生きている人はそう考えるかもしれない。しかし、超経験的な事柄は、人間にとって(無神論者にとっても)無関係で無意味で無駄な事柄ではない。例えば、もっとも代表的な例が死である。死を経験することは不可能だ。だが、そこから死という現象はない、ということはできない。死を経験することは不可能だが、死という現象は確かにある。あるいは、数である。数を経験することはできない、というと不思議に思うかもしれない。でも、僕たちが経験できるのは、具体的なモノであって数ではないのだ。「ここに林檎が2つある」「あそこに3人いる」と言ったとき、僕たちは2つある林檎を、3人いる人間を経験しているのであって、2や3を直接経験しているわけではないのである。だからといって、数はない、とか数について考えるのは無意味だ、とは言えないだろう。僕たちが、数なしで生きていくことは不可能だからだ。他にもこのような超経験的な事柄はたくさんあるだろう。それらは、概念とか形式とか呼ばれることもある。とにかく、そうした事柄について考えているのが哲学なのだ。
 ところで、何故経験不可能な事柄を思考することが可能になるのだろうか。それは、おそらく言語というものの特性による。言語というのは、経験不可能な事柄も記述することが可能なのだ。例えば、数。僕は確かに「1」を直接経験することはできないが、「1」と書いたり言ったりすることは可能だ(だからこそ、数が超経験的な事柄であることは気付かれにくい)。この言語の(不可思議な)特性によって、超経験的な事柄について思考する、哲学という行いが可能になるのである。このことを暴いたものの一つとして、フレーゲやラッセルから連なるある知的伝統がある。この知的伝統は、言語哲学とか論理実証主義などと呼ばれる。その中でも、カルナップや前期ウィトゲンシュタインは、言語の上では曖昧になってしまっている経験的/超経験的の区別をしっかりするべきだ、と主張する。これがかの有名な「語りえないことには沈黙しなければならない」である。「語りえないこと」とは超経験的な事柄のことだ。前期ウィトゲンシュタインによれば、超経験的な事柄を「語る」ことはできない。ただし「示す」ことならできる。つまり、それらは宗教や芸術の扱う事柄であって、哲学が扱う事柄ではない、というのだ。彼らは、哲学や科学を経験的な事柄、せいぜい経験的な領域と超経験的な領域の境界線あたりまでにとどめようとした。結局、この試みはのちに失敗することになる。経験的な領域と超経験的な領域というのは、そう簡単に区別することができないのである。
 
哲学の種類
 哲学が、超経験的な領域を扱うことはわかった。そして、超経験的な領域には、いくつかの種類があることも分かったのではないか。神もあれば、死もあれば、数もある。哲学もそれに応じて、いくつかの種類に分けることが可能だ。
 哲学において最も主要な分野といえば、存在論/形而上学である。これは、存在とは何か、ということについて問う哲学である。何が存在して、何が存在していないのか。存在するものを一体どのように分類するか。そもそも存在するとはどういうことなのか。形而上学というと古い、というイメージがあるかもしれないが、現在でもなお研究が行われている分野である。ただし、確かにかつてのように哲学の主流、とは言えないかもしれない。
 次に大きな分野が、認識論だ。これは、近代以降、一気に哲学にとって中心的な話題となり、現代においても主流とされる分野だろう。何かについて知る、ということは一体どういうことかを問う。知識の哲学とも呼ばれている(英語名が、Philosophy of knowledgeであることに由来)。科学哲学や科学認識論といった分野も従えている。また、言語哲学ないし分析哲学も、この分野から派生した。ただし、分析哲学は、言語論的転換と分析的手法という方法論を洗練させることで、認識論以外の分野を扱うことも多くなっている(分析形而上学、分析美学といった分野がある)。
 普通の人が哲学、と聞いたときに連想するのは、むしろ倫理学かもしれない。これは、善悪について問う哲学だ。僕個人としては、存在論と認識論が哲学の二大トピックスだと考えていて、そこからはみだすトピックスを扱う哲学に関しては、広い意味では哲学でも、狭い意味では哲学とは異なる学問なのではないか、と考えている。とはいえ、そんなに細かく縄張り争いをしても仕方ないのかもしれない。
 古来より、価値あるものとして、真・善・美という三つが挙げられてきた。真に関して追求するのが、狭い意味での哲学、善に関して追求するのが倫理学だとしたら、美について追究するのが美学である。
 このほかにも、細かく分けていけば数限りなく、様々な分野の哲学がある(数(学)の哲学もあるし、時間の哲学もある)。現在進行形で研究が進んでいる分野としては、心の哲学や政治哲学が挙げられるのではないか、と思う。
 
補遺 
 さて、哲学について何某か示すのであれば、この後哲学史を紐解かなければならない。哲学とは、ヨーロッパの知的伝統に他ならないのだから、その伝統がどのように受け継がれていったのかという系譜に対して、ある程度の見通しがなければ哲学はできない。そして実際、僕は非常に大雑把ながら、哲学史を書いてみた。 
 しかし、ここでそれを公開するのはやめておく。衝動に駆られて書いた文章なので、内容の正確さについて保証できないからだ(それをいうと、ここまで書いてきた上の文章もそうなのだが)。
 哲学史を語るためには、当然、各哲学者の哲学の内容についてよく知っている必要がある。それが僕には決定的に足りていない。しかし、哲学史を書く上でさらに困難なことは、ただ単にそれぞれの哲学者が考えたことを並べればいいわけではない、ということだ。哲学は、哲学者が好き勝手に思い付いたことを喋っているわけではなくて、それぞれの哲学の間に影響関係があるので、それも記述しなければならない。 
 また、ある哲学が生まれてくる背景には、その当時の政治、経済、技術、文化が密接に関わっているし、またそうやって生まれた哲学、当時の政治、経済、技術、文化に影響を与えることもありうる。となれば、哲学史とは必然的にヨーロッパ史にならざるをえない。僕は、この思想と技術や文化が如何に関わり合っていたのか、ということに興味があるので、僕がもし哲学史などを書くような機会が仮にあるとすれば、各哲学の内容よりもそういった影響関係の方を重視して書くことになると思う(エピステモロジー?)。だが、残念ながら僕にそのような能力はない。それゆえに、僕には哲学史を書くことなどとてもできない。 
 そもそもこの文章は、「哲学って一体何なんだ、色々ありすぎてわけわかんねーよ」という人のために、何となく全体的な見通しを持ってもらえるのではないか、と思って書かれた。そしてそれは、「哲学ってこんなものだと思うよ」という僕の個人的な見通しである。だから、哲学史に関しても、僕が個人的に思っている「たぶんこんな感じー」というのを書いておけばいいかなと思うのだが(そして実際に一度書いたのだが)、とりあえずお蔵入りにしておく。 
 中世と近代の違い(=科学の誕生/知識のあり方を巡る違い)とか、イスラムについてとか、カントについてとかについて書いた。そして、現代哲学・現代思想と呼ばれているものについてだ。哲学を一番訳分からないと思わせているのは、間違いなく19世紀以降の、もはや一つの見通しによってまとめることができないくらいたくさんある、諸哲学のせいだ。こいつらに関しては、正直、片っ端から名前を挙げていくしかないように思う。もちろん、何らかの哲学史を構築することは可能だろうが、あちらを立てればこちらが立たず、という状況にすぐに陥ると思う。だから、歴史的に、というよりは、もはやデータベース的にしか捉えられないだろう。 
 
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現代哲学・現代思想 
超経験的 
 現代哲学も哲学とある以上、この超経験的なものを問いの対象としている。現代哲学・現代思想というと、もはや自然科学と区別がつかなくなっていたり、文学や文化論になっていたり、政治運動になってたりするように思われるかもしれない。確かに自然科学や文学、政治などとの混淆はあるし、それは避けて通ることができないが、しかし、今現在でも、ガチな(?)哲学というのは営まれている。
科学 
 現代とは、科学が急速に発展し、それが社会に多大な影響を与えるようになった時代でもある。それゆえに、科学をいかに捉えるか、というのも、現代哲学・現代思想の大きな問題の一つである。
政治・文化への分散化 
 哲学とは現代においても、いまだにその役割を失ってはいないと思う。しかし、もはやかつてのソクラテスやカントのような哲学はありえないのかもしれない。それはやはり、哲学が分散化、細分化していったことにあるだろう。
 おそらく、5,60年代のフランス周辺がその要因なのではないだろうか。そこでは、哲学者だけでなく、文学者や文化人、人文系の知識人が混淆していった。実存主義、構造主義、そしてポストモダニズムと呼ばれるものが称揚されるも、運動としてはどれも最終的には失墜する。そうして、哲学とも文学とも文化論とも歴史学とも政治運動とも言えるような、あるいは言えないような、混淆的な人文の知が作られつつも、一つの大きな思想を共有することなしに分散していく。デリダがいうところの「哲学の遍在」であろうか。こうして文化的事象について語る、様々なツールが次々と生み出されていくことになる。それは政治的な含みも併せ持っている。そこでは哲学は、各種、人文系学問の中に融解していったのだ。
主な傾向 
 現代哲学の全般に見られる傾向を以下に示す。ただし、あくまで傾向であり、全てにあてはまるわけではない。
 反観念論の立場である。そのため、経験主義、唯物論、実証主義などが多い。 
 必然性よりも偶然性に重きを置く。あるいは、必然性よりも偶然性が先立つ。 
 本質主義への批判。多くは、構築主義的、相対主義的立場をとる。 
 静的なものよりも動的なものを、関心の対象とする。 
 個々の事象、統一的な原理よりも、全体、関係性、経路【ネットワーク】、媒体【メディア】に着目する。 
 

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