
 
 室町時代応安2年(1369)創立。 大徳寺の開山は、東福寺の雙峰宗源の法を嗣いだ弟子の大方源用である。そのため創建時は臨済宗東福寺派であった。佐々木の一族で伊庭の庄主修理太夫和幸が大檀那であったといわれる。
永禄年中(1558〜69)、大徳寺は佐々木氏の没落するとき兵火により焼け、荒廃した。これより170余年間におよんで、寺観がととのうことはなかった。
 延宝4年(1676)、臨済宗妙心寺派に改派。妙心寺派の禅僧である密雲祖印により中興されたためである。寛政元年(1789)に京都花園の本山妙心寺が書き上げた末寺帳には、妙心寺の末寺として長福山大徳寺の寺名を見出すことができる。 天和3年(1683)に庫裏を建て、方丈の上棟ができたのは元禄9年(1696)。そのころの仏具が幾つか今日につたえられている。 しかし、密雲は、自らを中興開山とすることはなく、師匠の香山祖桂禅師を勧請中興開山としている。香山祖桂は雲居希膺(妙心寺第153世)の法を嗣いだ妙心寺派の禅僧である。
当山には密雲の塑像(高さ49センチメートル)が本堂に安置されているが、これは明治になって刻まれたものである。
 

東嶺円慈(1721〜92)と言えば、日本臨済宗中興の祖である白隠慧鶴の高弟として知られるが、大徳寺はその東嶺が剃髪をした由緒地である。第4世亮山恵林の住持時代、享保14年(1729)のことである。東嶺は17歳で当山を出て日向(宮崎県)の古月禅材に師事、その後駿河(静岡県)の白隠の指導を受け、29歳で印可され白隠の法を継いだ。
亮山は東嶺を当山の住持に迎えようと再三懇請したが、東嶺はこれを固辞し、その生涯を日本臨済禅の復興に捧げられた。晩年の東嶺はたびたび当山を訪ね、亮山先師の塔を拝し、その不孝を詫びられたことが「東嶺和尚年譜」に見える。

第9世江岸の時代、明治28年(1895)8月8日、落雷により堂宇は灰燼にきす。この時、本尊、毘沙門天像、地蔵像は難を逃れた。明治33年(1900)再建事業着手。大正5年(1916)、本堂に還仏の入仏式が行なわれた。また入仏式と同時に開山大方源用の五百五十年遠諱、第8世范宗禅師五十年忌が挙行された。
第10世義山宗信の時代、昭和10年(1935)に山門・鐘楼が再建されている。
 戦後40年をへて、住持は第11世泰山義光和尚の時代となる。昭和59年(1984)7月、門前に「東嶺禅師授業寺」の碑を建立し銘文を刻んだ。この碑は先住義山和尚の代に檀家となった、干拓地である大中入植者五戸の総意によりなったものである。また昭和63年(1988)には書院(善祥庵)が建てられ、平成5年(1993)には弁天池周辺の庭園(積善園)を造るなど寺観の整備が進んだ。
平成7年11月4日から6日の3日間にわたり、開山六百年遠諱並びに授戒会を厳修。
平成16年11月3日には、第12世住職に就任予定である義典宗裕和尚の晋山式が厳修。
平成22年、本堂屋根葺き替え事業を実施。
ホーム | 法要について | お問い合わせ | ご本山 | リンク
|