自動車開発の思い出 自動車の開発とともに半世紀
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| 私の75年の人生の内、50年以上を一技術屋として自動車の開発とともに過ごした。戦争とともに生まれ(張作林爆殺)、中国との15年戦争を経て敗戦にいたる18年の幼少年期と、残りの自動車とともに生きた2つの時期が私の人生の凡てである。終戦の年、原爆投下の瞬間を僅か20数キロ離れたた江田島から目撃した。戦後自動車会社に入ったお陰をもって、この日本全土の廃墟の中から立ち上がり30年後には世界一の自動車大国になるという発展の大ドラマの中に生きる事が出来た。多くの犠牲者を出した太平洋戦争に生き残った世代は、分野は異なれ、同じような生きがいのある人生をおくる幸せに恵まれたといえる。数年の差で自分も戦争の犠牲者となっていたかも知れないし、戦争があと1年続いたら現在の自分があったかどうか、人間の運命は計り知れない。 私は昭和26年(1951)いすゞ自動車に入社し、当時はトラックとバスを生産するだけであったが、都バスや町を走るトラックはいすゞのシェアが断然高く、復興に貢献している様が目に見られ誇りを感じた。 私はいすゞにおいては殆ど開発業務に携わり、8トントラックの開発担当から始まり、特にべレットの開発は一生忘れられないドラマであった。また1971年のGMとの提携以降はGMとの開発業務が中心となり、デトロイト以外にも英国、西独、南ア、豪州などのGM海外拠点のプロジェクトに参加した。 その後アメリカのいすゞーテクニカルセンターの責任者としてロスアンゼルスに3年駐在した。1991年現役を終えた時これを待っていたように昔からの友人であった中国清華大学自動車工学科主任の余志生教授の招きで大学の自動車工学の講義、北京自動車研究所の指導などに参画し、これを契機にJICA開発調査団長として、ポーランド、テュニジア、中国、イランの自動車産業育成に参画する事が出来た。私の50年間に経験した事は当時は夢中であったため一々気に留めていなかったが、今考えればその一つ一つが企業にとっても個人にとっても、ものすごく重要な出来事であったのである。このホームページでこれらを採り上げても多分話題が尽きないであろう。今回ホームページには、なんと言っても我が人生の大半を占めた自動車との関りの一端を披露する事にした。 |
| アメ車物語(1) アメ車との付き合い |
子供の時最初に出会ったのも、会社に入ってからもアメ車との付き合いは長かった。なんと言っても自動車文化といえばアメ車が作ったものである。あの馬鹿でかい燃料をがぶ飲みするフルサイズカーは、今や過去の遺物かもしれないが、こよなくなつかしい。 |
| アメ車物語(2) 私の選んだ30年代の車 |
1969年ロスアンゼルスの自動車博物館で求めた2枚の絵 から変化の大きかった1930年代のアメ車を眺めた。 |
| 随筆(1) いすゞ8トン車の開発 |
昭和34年いすゞTD型8トン車の試作から量産立ち上がりの期間車両総括責任者という初の大任を仰せつかった。 |
| 随筆(2) 自動車設計者の喜びと苦悩 |
青春の設計者の時代を顧みて |
| ベレット開発物語(1) ベレット車誕生の時代背景 |
設計チームの一員として革命児と言われたいすゞベレット車開発をふりかえって、このような車が誕生した時代背景を考察する。 |
| ベレット開発物語(2) 開発の経緯 |
開発の経緯、特徴 |
| ベレット開発物語(3) 開発の意義 |
いすゞはベレットを開発したか、製品コンセプトは |
| ベレット開発物語(4) 四輪独立懸架の設計−1 |
サスペンション設計の裏話 |
| ベレット開発物語(5) 四輪独立懸架の設計−1 |
苦闘の歴史 |
| GMとの開発の思い出(1) いすゞピックアップトラックLUV |
研究実験課長時代にGM提携の最初の仕事に参加した。世界最大の企業GMとのビジネス経験は大きなカルチャーショックであった。 |
| GMとの開発の思い出(2) テストトリップ |
GMの徹底した実車検証主義、そこにはトップも直接参画する。もの作り企業の経営の真髄はここにある |
| GMとの開発の思い出(3) 幻のコルベットといすゞGEOストーム |
いすゞ最後の乗用車開発。何故GMはいすゞ760スポーツワゴンに期待を持ったか。 |
| LAデザイン(1)カリフォルニアと自動車文化 |
筆者のロスアンゼルス駐在時の経験 |
LAデザイン(2)LAのデザインスタジオ |
いすゞデザインスタジオの写真紹介 |
| 1867年のいすゞユニキャブからビッグホーンまでの開発の歴史 |