クラークの少年よ大志を抱け

クラークの胸像 昭和11年 左が筆者
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最近縁があって、海軍兵学校77期の同期生、寺崎暹君が随筆集を贈ってくれた。寺崎君も終戦の年、16歳で最後の兵学校77期生として入校した僕と同期の桜である。当時から学究的であった寺崎君は戦後、新島譲の創立した同志社大に学び、卒業後プロテスタントの牧師として教育と学問、伝道に人生を捧げた。 さて、いただいた本の中の一冊である「新島研究」に彼が2000年に発表した「少年よ、大志を抱け」(Boys, be ambitious)を巡って」は僕に大きな感銘を与えた。この論文にこの言葉の経緯、解釈、内村鑑三の理解、クラークの人間像などの詳細な研究結果が述べられており、以下の感想文は寺崎君の論文から引用させていただいた個所が多いが、素人の僕の私見に過ぎないことをお断りしておきたい。 まずBoys, be ambitiousのambitiousの解釈については、日本語では大志と訳されているが野心ではないかとの意見もあるようである。僕も若干違和感を感ずるが、少年とは一般に10才代であり、ambitiousが「少年よ」に続くので、矢張り「大志」が適切であるように思う。私は、大志は志や目標が大きいことではなく、大義に基づいていることであると思う。Boysもアメリカ人の慣用として、必ずしも少年という意味でなくお前たちと訳してもよいかもしれない。あるいは「少年よ」でなく「青年よ」であれば、「野心を抱け」が適しているかも知れない。若者、青年とは20代、即ち成人になった年齢でありもっと欲を持っても良い。特に今の若者にはこういってやりたい。クラークが対象とした少年は札幌農学校の生徒であるから二十歳に近い年齢であり、多少野心と言う意味も含まれていたとしても決しておかしくない。当時のアメリカは南北戦争が終わり、西部開拓が始った時代で、若者はアメリカンドリームを夢見て、挑戦的で、競争心があればチャンスをものに出来る時代であった。クラークもその一人であり、日本の文明開化の初期、北海道と云う辺境にやって来て、農学校の生徒にアメリカに来て大きな夢を実現せよと言っていたようにも思える。 これを裏付けることが、第一期生の大島正健がクラークとの別離を書いた英文訳の書に述べられており、寺崎君の論文に紹介されている。クラークとの別離にあたり一期生16人の他、学校関係者、役人等26名等が総勢馬にまたがり札幌郊外の島松についた時、彼は一人一人に握手した後、見送りの皆に振り向き大声で「Boys, be ambitious like this old man」と叫び、馬に一鞭当てるとまっしぐらに去っていったという。この情景を大島は感激して別離の即吟として、次のように記している。「青年奮起立功名 馬上遺言篭熱誠 別路春寒島松駅 一鞭直蹴雪泥行」彼はクラークの言葉を「野心家たれ」と読む心無いクラーク批判に反対している。Boys, be ambitious に続きlike this old manと叫んだことは僕も始めて知った。これは俺に続け、俺を見習えということであろう。僕の米国留学による個人的経験から学んで事は、アメリカの教師達の方法は自分でやってみて、やらせてみてという山本五十六式教育で率先垂範が特徴であり、概念より実践に重きをおく。概念だけ云い放しという事がない。現に二期生の新渡戸稲造や内村鑑三はアメリカに渡り大志を遂げている。また僕は内村は別として新渡戸は良い意味で非利己的な野心家であったと思う。 札幌農業学校25周年記念時にクラークのBoys, be ambitiousの言葉が掲げられたときローランド東北帝大農科大学教授が書いたといわれる次の英文が添えられていたという。あえてこのような説明が必要であったことは、クラークの言葉に対する解釈に問題があったことを示している。 Boys, be ambitious. Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that [evanescent thing] which men call fame.(Be ambitious for knowledge, for righteousness, and for the uplift of your people.)Be ambitious for attainment of all that a man ought to be.) 寺崎君はおわりに、「今日の教育を思うとき、ただ将来を危ぶむ虞れではなく、今おおらかにクラークと彼が生きた日々を参考にすることも一助となるであろう」と結んでいる。 今回のことは僕の70年近い昔の記憶を呼び起こした。 |

北海道大学で 左は筆者、 右は父
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トップの写真は昭和11年に僕の父が夏休みを利用して北大で集中講義を行なった時、僕が1ヵ月半北大校内で過した時、クラークの胸像の前での写真である。左が僕、右は北大の大賀先生(後室蘭工大学長となる)の長男で僕と名前が同じであった。この胸像は戦争で供出され昭和23年に復元されたというから、僕が訪れて数年後にはなったのであり幸運であったといえる。 僕は小学校2年生であったが、夜行列車で一人上野を発った。となりに座っていた小父さんが「坊やはえらいね」と声を掛けてくれた。僕は全く不安は無く、新しい土地で父親に会えることを楽しみにしていた。今考えれば幼い子に一人旅の経験をさせてくれた親の恩に感謝している。札幌では父と同じ熱力学の北大教授大賀先生のお宅に少しの間滞在したが、その後は大学構内の宿舎で父と自炊生活をした。5番館によく食料の買出しに行き、紙の皿やコップを使って食事した。 当時クラークの胸像を見た僕がどんなことを思ったか当時の日記も散逸し、未だ幼少であったから大志を抱く事は無かったと思う。ただ親が僕に大志を持ってもらおうと、この場所に連れて来たのであろう。 当時と異なり、今は北海道の観光客は多く、この場所も観光名所として何百万の人が訪れたことであろう。しかしここを訪れた若い観光客達は明治の若者が抱いた志や、彼らの海外での活躍、日本への貢献の歴史まで深く考えが及んでいるであろうか。 |